杭を渡る

@kazen

杭を渡る


「よっ……とぉっ!」

 小さな掛け声とともに、凪いだ水面から突き出した小さな石の杭の上に右足を着地させた。

 その杭は私のつま先がやっと収まる程度の大きさだったので、留まって体勢を崩すよりはよかろうと判断して、勢いのまますぐに次の杭へと足を伸ばした。

 大きな背嚢を背負っているせいでずれている重心を考慮しつつ、

「とぉっ!」

 気合とともに跳躍。

「……ふぬっ!」

 次の杭は私の横幅を余裕で上回る大きさだったので両足で着地するも、ちょっと前のめり。

「……おっととっ!」

 無様ではあるけれど、両手をバタバタさせてバランスを整え、杭の上で態勢を整えた。

「ふう……」

 深呼吸して心を落ち着かせ、とりあえずここで小休止。

 やや斜めに傾いでいた背嚢を背負い直し、背後を振り返った。

 上を見れば立ち込める白い霧。下を見れば視界の及ぶ限りどこまでも続く白い水面。

 そして、そこから突き出した石の杭の列。

 前へ向き直ると、そこにも、同様の光景が広がっていた。

 白い霧に煙る白い水面と、その向こうへ続く石杭の列。




 この白い霧と水に覆われた世界は、双子の創世神によって創られたものらしい。

 らしい、というのは、私の師匠からの伝聞でしかないためで、確たる証拠がないからだ。

 まあ、世界の成り立ちなんて、そうそう理解できてはたまらない。

 これも、師匠の受け売りだけど。

 ともあれ、お兄さんの方の神は何らかの理由で人間が大嫌いになったのだそうだ。

 それで、人間皆溺れ死ねよと、世界を真っ白な水で満たした。

 ただ、弟さんの方の神は人間を哀れに思ってくれたらしく、白い水面の上に石杭の道を作り、人間が生きていける可能性を残した。




 そんなこんなで、人間は弟さんの方の神が与えてくれた杭の上で生きている。

 それが幸せかどうかはともかく、人間は真実を探求せずにはいられないものらしく、それでうまれたのが『杭渡り』

 杭を渡って世界を、兄弟神の真意を知ろうとする、命知らずども。

 私や、私の師匠のような。

 まあ、実際のところ、私自身はそこまで壮大な野望を抱いてはいないのだけれど。




 白に覆われた世界が陰っていく。

 やがてヨルが来る。

 こんな小さな杭でヨルを迎えるわけにはいかない。

「ふぬぅっ」

 程なくして至った、私の身長ほどの直径を持つ大きな杭。

 今日はここで野営することにしよう。

 そう決めた私は背嚢から取り出した水上テントを組み立てて水面に放り、大きな杭の近くの小さな杭2本にそれをつなぎ留めておく。

 この大きな杭の上にテントを広げることもできるのだが、そうすると他の杭渡りがここを通過できなくなる。

『渡りを妨害する行為はしてはならない』

 それは、杭渡りが最低限身につけておくべき常識だ。

 杭の上に捨てられていた私を拾い、曲がりなりにも1人で生きていけるまでに育ててくれた師匠はそう言っていた。

 まあ、他にも理由はある。

 水上テントに水漏れがないかを確かめるために時間をおく必要があったし、今日の晩餐を釣り上げなければならなかったので背嚢から伸縮式の釣り竿を取り出した。

 餌は大抵どこの杭にも張り付いているクイガイの身だ。

 親指大の巻貝に身を潜めたクイガイは、それだけでも食べられるが小さいからあまりお腹は膨れない。

 師匠がくれたナイフを使ってクイガイの中身をほじりだし、釣り針の先につけて乳白色に濁った水面に垂らす。

 反応はすぐにあった。

 餌に食いついたと確信すると同時に竿を一気にひきあげる。

 水面を割って、宙を踊ったのは銀色に輝く魚だった。

 杭の上でぴちぴちと暴れるその体を上から抑え、上顎は上に下顎は下に、先端だけ歪んでいる口元から針を外した。

 アマジャケを釣り上げられるとは運がいい。

「いただきます!」

 師匠から教わった食事の挨拶を終え、アマジャケに頭からかぶりついた。

 びくんびくんと痙攣するアマジャケを頭からかじりとると、えもいえぬ甘みが口の中に広がった。

 アマジャケの体は、とても甘い真っ赤な餡に満ちている。

 がつがつと、師匠がいたなら『食い方が汚えんだよ』と怒られそうなほどの勢いでアマジャケを鱗の一枚も残さずに食べ尽くしたあとは、クイガイを少し食べる。クイガイは弾力があってほのかに苦い。

 甘いアマジャケが苦いクイガイが好きだというのはなんとも不思議なことだ。なんでなのか、師匠にきいておけばよかった。

 水筒から水を一口飲んで、くちくなったお腹を叩く。

 ヨルの訪れまでにはまだ時間があるが、今日はもう水上テントに引っ込むことにして、私は水上テントを覗きこんだ。

 幸い水上テントに水漏れはなかったので背嚢ごと飛び込んでごろりと横になる。

 満腹になったせいだろうか。目を閉じていると、ゆらゆらと上下に漂う揺れが心地よい眠りに私を誘う。

 いけない、いけない。日記をつけないと。

 師匠からもらったノートに今日の行程を記入して、私は毛布にくるまった。

 明日も良い杭を渡れますように。




「よぉっ!」

「とぉっ!」

「はぁっ!」

 気合の声とともに杭を渡っていく。

 段々と杭が高くなっていくから、緊張感を緩めるわけにもいかない。

 最終的に、杭の水面からの高さは倍ほども違っていた。

「師匠がこの道は危険って、メモっとくわけだよなあ」

 白い霧に遮られて見えない水面を見下ろしながら呟いて、下りに転じた杭を渡っていく。

『上りより、下りの時こそ細心の注意を払え』

 杭を渡っている人間なら誰でも知っていることだが、杭を踏み外し水面に触れたなら、もはや命はない。

 水面から距離のある杭を渡るのは、それなりに経験のある杭渡りでも心理的に怖がるものだ。

 だが、

『よし、鬼ごっこをするぞ。追いついたら水面に叩き落とすが、俺を恨むなよ』

 そんな教育を受けた私にとっては、追ってくるもののいない杭渡りなど造作もないことだ。

 杭を下ったその先で、杭の道は左右の2つに別れていた。

 左の道は師匠のノートに記されていた。

『プタ』という小さな手のひら大の美味しい家畜のいる、30人ほどが暮らせるくらいに大きな杭に続く道で、3年前師匠が通りかかった時には3家族18人ほどが杭に定住していたのだそうだ。

 右の道は記載がない。

「う〜ん……」

『この白く煙る世界の先には何があるのか、その答えを求めて皆が杭を渡る。果てがあるのか、それともないのか。俺の命が尽きるまでにそれを見ることが叶うのか、叶わないのか。いずれにせよ、杭を渡らなければ何も得られない。だから、杭の上では休憩の時以外立ち止まるな』

「『プタ』ってどんな味なのかなぁ。頼んだら分けてくれるかなぁ」 

 師匠は何を食べても『美味しい』という感想しか言わない人だった。せめて、甘いとか辛いとか書いといてくれたらいいのに。

「う〜ん、決めかねるなぁ」

 杭の上で足を並べて立ちながら、顎に手を当てて私は考える。

 こんなふうに教えに反して迷ってばかりいた私は、師匠によく怒られた。

『お前の人生は短い。俺の人生の残りは、それよりもっと短い。分かってんのか? お前は今、俺の人生を無駄遣いしてんだぞ?』

 けれど師匠は決して私を置いて行ったりしようとはしなかった。

『渡杭の仁義、って奴だ。俺はお前の師匠だからな。師匠は弟子が一人前になるまで、厳しくも暖かく見守るもんだ。ああ、そうか。そう考えるとこの時間も無駄じゃあねえな。俺の志を継いで杭を渡る弟子が迷い悩み成長する。なんだか、悪くねえな』

「よし、こっち!」

 私は右側の杭に向かって右足を踏み出した。

『プタ』は確かに心残りでちょっと寄り道してもいいかなと思ったけれど、師匠のノートに師匠の知らぬ道を書き込んでいくのも弟子の勤めだろう。

 ぴょんぴょんと1刻ほど杭を渡った頃だろうか。

 前方にキラキラと輝いている杭があった。

 あ、あれは。

 細い2本の杭に一本ずつ足を乗せてバランスをとって、背嚢の中から師匠からもらった、先端に袋状の網がついた伸縮式の棒を取り出した。

 それを右手で構え、極力音を立てないように杭を渡っていく。

「やっぱり、ミズムシだ」

 キラキラと輝いているのは杭ではない。

 杭の上を這う、拳大の透明な胴体に6本の足を生やし、真っ赤な4つの目を持つ虫ーーミズムシだった。

 10匹近いミズムシが杭の上を蠢いていて、それが空の上から降り注ぐ光を反射して輝いているのだ。

 私は棒を伸ばしてミズムシたちのいる杭の側面をこん、と叩く。

 すると、びっくりしたミズムシたちが杭の上にぴょんと飛び上がり、そこを網で一気に捕まえる。

 師匠直伝『ミズムシ一網打尽法』だ。


 ミズムシの胴体をぎゅっと握り締めると、そのお尻の部分から透明な水がちょろちょろと絞り出されてくるのでそれを水筒に貯め、シワシワになったミズムシをぽいっと水面めがけて放り投げる。

 乳白色に濁っている水を飲むと人間はすぐに死んでしまう。だから、私達はミズムシが体内でろ過した綺麗な水を分けてもらう。

 シワシワになってもミズムシは別に死ぬわけではない。ぽちゃんと落ちた乳白色の水を吸えば復活する、と師匠が言っていた。

 ミズムシは定住杭を持ち、その定住杭の情報は杭渡りの間では勿論かなり重要だ。

 ふふふ、師匠! 見てくれた? 師匠の弟子は、技術を継承しているだけでなく師匠も知らない新しい情報をノートに書き込むほどに成長したんだよ!

 ミズムシの定住杭の近くで水上テントを張り、ノートに情報を記入していく。文字だけだと味気ないのでミズムシの絵も添えることにした。

 今日はここで一晩休んで、明日もう一度ミズムシを絞ってから出発だ。

 明日も良い杭を渡れますように。




「う〜ん……」

 杭の上に立ち、私は顎に手を当てて考える。

 目の前の道は2股に分かれている。

 といっても、杭5本の後に再び合流するのでどちらに進もうか悩んでいるわけではない。

 問題は、どっちの道にもちょうど3本目にある、傾いた杭だった。

 右の道は右側に、左の道は左側に、ほんのちょっとだけ傾いている。

『傾いた杭には近づくな』

 これは、杭渡りの鉄則だ。

 傾いた杭の上に乗ってバランスを崩し、水中に没すれば命はない。

 だが、今回の場合は迂回するというわけにもいかない。

 それに、ここ以外の分岐は行き止まりだったから、先に進みたければこの道を行くほかない。

 それとも69日かけて進んできた道を、その分岐まで戻るかだが、戻る、という選択肢はない。


 どちらのルートも2本目と4本目の間はそんなに遠くないので、3本目を飛び越えていくこともできそうだがーーいや、杭が細いから着地がきちんとできるかどうかはちょっと難しいところだ。

 水上テントを浮かべて漕いで迂回、は本当に最後の最後の手段。

 水面の見た目が穏やかに凪いでいても、水上テントを浮かべた途端ものすごい勢いで流されていくことがあって、それで一度水上テントを失ったことがあった。

「う、う〜ん……」

 しばし立ち止まって考えた後、私は背嚢から『ミズムシ捕獲網』を取り出し、柄の部分で左の道の杭の側面をこんこんと叩く。

 感触的には他の杭と同じで、特別脆くなっているような感じはない。

 一瞬踏むだけならなんとかなるだろうか。逆に、もうちょっと傾いていてくれれば渡りやすいのに。

 杭の上方辺りをこんこんした時だった。

 ぱかっと、杭が開いた。

「え……」

 杭の開いた部分には私が師匠からもらったナイフのような鋭い刃が並んでいて、

 ばぐんっ

『ミズムシ捕獲網』の柄に噛みついてから水中へと沈んでいった。

「え? あ? ええーっ?!」

 驚きのあまりのけぞってバランスを崩しかけた私は、反射的に右足を後方の杭の側面に押し当ててなんとか水中への落下を防いだ。

 分岐前の杭に逃げ戻って、すっぱりと綺麗に切り落とされた柄の部分を眺める。

 あの傾いた杭は、クイマガイが擬態していたんだ。

 クイマガイは、杭渡りを襲う数少ない生物だ。

 水面を割って槍のように鋭くとがった頭から飛びかかってきて、杭渡りの体を貫く姿が杭によく似ているからそう名付けられたのだと師匠からは聞いていたけど、こういうこともするんだ。

 また襲われないよう、私は数本の杭にまたがるようにして身を低くする。

 もし、あの傾いた杭を踏んで渡ろうとしたら、私の足は嚙み千切られたうえ、水面下に引きずり込まれていたに違いない。

 どうしよう。もう一本の杭も見た感じ、クイマガイの擬態だよね。

 とはいえ、このままここにとどまっていても危険だ。今はクイマガイのいない左ルートで行くしかない。

 クイマガイが、こっちに飛んでくる前に。

 ざぱっ

 私の右手で水面が割れた。

「うぬぅううっっ!」

 そこから何が飛び出してきたかを確認することもなく、体を起こした私は気合の声を発すると同時に左の道の2本目の杭を踏みしめ、4本目の杭に向かって飛んでいた。

「ぅわっ?!」

 なんとか着地した杭が細すぎて、重心が前へと流れる。

「のわぁっ!」

 即座に左足を次の杭へ繰り出す。それでも一旦前のめりになってしまった勢いはとまらない。

「はいっ!」

 右足を前に。

「ほわちゃっ!」

「ぬんっ!」

「しゃっ!」

「これでもかっ!」

 時に杭の2本飛ばしをしながら危うい前傾の杭渡りを続け、やっと大きな杭に到達した私は顔面から倒れこんでいた。

「うぅ〜……」

 杭に擦りつけられた頬がじんじんと痛む。手を添えると僅かに出血していたようだが、すぐに立ち上がって前方の杭を渡る。

 クイマガイの縄張りは概ね50杭分とされているそうだから、早急にそれ以上離れなければならない。

 無我夢中で100本ほど杭を渡り、やっと一息ついた。

 師匠が残してくれた塗り薬を頬に塗りこみ、水上テントにごろりと寝転ぶ。

 弟子の勤めとして、ノートに今日の出来事を書き込み、その後はもう何も考えずに目を閉じた。

 明日は、安全な杭が渡れますように。




 杭を渡り始めてしばらくした頃だった。

 霧の向こうの杭の上に人影が見えた。

 杭の上に立ち止まり、向こうが近づいてくるのを待つ。

 やがて向こうもこちらに気づき、杭の上で両手を上げて杭渡り独特のハンドサインを示した。私もそれに応じる。

 杭の道を渡る杭渡りがすれ違える場所というのは限られる。

 だから、杭渡り同士が遭遇したときは、そのすれ違いポイントがどの程度の距離にあるのかをハンドサインで示すのだ。

 今回は相手が300杭、私が150杭だったので、こっちへ、というハンドサインをした後に私は道を引き返し始める。

『俺が高く飛んで、お前が低く飛ぶ。これですれ違えると思うんだが、賛同してくれた杭渡りはいねえ。世の中ままならねえよなあ』

 師匠はそう言っていたが、多分、この世界の果てまでいってもそれに同意する杭渡りはいないと思う。

 先日テントを張った私2人分の直径の杭にたどり着き、相手がたどり着くのをポケットに手を入れて待つ。

 霧の向こうから現れたのは、私のように身長と同じくらい大きな背嚢を抱えた師匠よりも大きな男だった。私より頭2つ分くらい高い。

「やあやあ、引き返させちゃってごめんね」

 朗らかに言って男は微笑んだけれど、一定距離以上はこちらに近づいてこない。

 互いが互いを値踏みするようににらみ合い、先に口を開いたのは私だった。

「『あなたは何を求めて杭を渡る?』」

 私の言葉に、男は意外そうに眉を上げてから、ゆっくりとした仕草で胸に右手を当て、応えた。

「『世界の果ての探求を』」

 手のひらを上した手を差し出し、こちらに向けながら男は耳に心地よい声で言った。

「『あなたは何を求めて杭を渡る?』」

 私は応じる。

「『世界の果ての探求を』」

 私と男。両方の肩から力が抜け、私はナイフを握っていた手をポケットから出した。

 同様に男もポケットから左手を出し、それをそのままこちらに差し出した。

「こんにちは。小さな杭渡りさん」

「こんにちは。ノッポの杭渡りさん」

 師匠よりもゴツくて大きい手を握り返す。今の私の立派な姿を見たら師匠は喜んでくれるだろうか。


 杭渡りは杭の上で生活するにおいて便利な道具をいくつも持っている。

 だから、杭に定住する人間や、その道具を狙う悪漢に襲われることがままあり、先ほどの符丁はそれぞれが杭渡りであることを確認するための儀式だ。

 当然定住民にも元杭渡りが紛れていることがあるのだが、一所に居所を定めた人間や杭渡りでない人間は何故か『あなたは何を求めて杭を渡る?』という質問に答えられなくなるのだそうだ。

 師匠と一緒に杭を渡っていた頃に何度か悪漢と遭遇したことがあるが、確かに彼らは問いには答えられなかった。師匠がすぐに水中に蹴落としていたから、どうして答えられなかったの? と聞く機会はなかったけれども。

 杭渡りが杭渡りを襲うことはないのか、と私は師匠に聞いた。

 相手が持っている道具や食料が欲しかったり、話していて何だか気に入らなかったり、そういうこともあるのではないだろうか。

 それはない。と師匠は断言した。

 なんでも同業を襲った杭渡りは、その杭からよその杭へは一本も渡れなくなるのだそうだ。

 符丁の件もそうだがどうしてそんな不思議なことが起こるのだろうか?

『杭渡りにはその程度の加護か、あるいは呪いがあって当然ってことなんだろ』

 私の疑問に師匠は面倒くさそうにそう応えた。


「1000杭分の情報を交換しないかい?」

 ノッポさんの言葉に私は気を引き締める。それぞれの進行方向の杭の道の情報交換は杭渡り同士が出会った時に必ず行われるものだ。

『他の杭渡りは、仲間であると同時に敵でもある。わかるか?』

 私と師匠以外の杭渡りは、世界の果てを目指す仲間であると同時にライバルなのだ。

『だから、交渉事は必ず自分の方に得があるように終わらせろ』

 師匠のように悪どくやりすぎて背後から槍で追っかけられるような目に遭うのは嫌だけど、一人前の杭渡りになったのだから、他の杭渡りを出し抜くくらいはやって見せたい。 

「わかりました」

 そう応じて、私は背嚢から紙片と木炭を取り出した。


 1000杭分の選択はそれぞれの自由だ。

 杭渡り同士が出会った時の自分の杭を起点に、主道700杭・分岐の道を300杭、でもいいし、分岐などないように1000杭分でもいい。

 私は450杭分の主道と300杭分と250杭分の側道を紙片に書き込んだ。側道はどちらもそれぞれ315杭、432杭で行き止まりになっている。

 杭渡りは嘘をつかないが、真実を言わないことはある。

 裏返した紙片を交換し、同時に確認する。

 ノッポさんがくれたのは一本道の1000杭分の情報だった。

 1000杭もあって1度も分岐していないなんてことは、可能性としては低い。分岐の方を進まなかったとしても、普通はそこに分岐があると1杭分を使って示すものだ。

 若くて小さいからと侮られたのだとしても、交換した杭の情報に文句をつけるのは杭渡りの倫理にもとるし、重要なのはこれからだ。

 ニコニコと笑顔を浮かべたままのノッポを見上げて、私はにっこりと微笑んだ。

「クイマガイの生息域の情報、知りたくないですか?」

 びくりとノッポが笑顔のまま肩を振るわせた。

 杭渡りの3大死因の2つは、水中への落下・クイマガイを始めとする敵対生物で、その2つがほとんどを占める。

 だから、クイマガイの情報を知りたくないわけがない。

「ああ、そうだ。忘れていた。いくつか分岐があったんだ、そっちには渡っていないけど、分岐の場所の情報と交換でどうだい?」

「必要ありません」

 私はばっさりとノッポの提案を切り捨てる。ノッポが紙片に記した杭の道の近隣でクイマガイのような危険生物に遭遇したのなら、必ずそれを対価に切り出してきたはずだからだ。

 分岐の情報など、危険生物の生息域の価値には到底吊り合わない。

 舐めてかかっていたであろう『小さな』杭渡りを値踏みし直すように睨みつけ、ノッポは大きな嘆息とともに肩をすくめた。

「わかったよ。小さな杭渡りさん、あんたを対等の杭渡りとして扱おう」

「最初からそうして欲しかったです」

「それができればそうしてるさ。『行商』がいる分岐の情報、これでどうだ?」

『行商』その言葉に思わず食いつきそうになるが、私はなんとか無表情をよそおう。

「足りません。……ちょっとだけ」

 相手が損得勘定を飛び越えないように小さく付け加えた。

 ノッポは再び嘆息して、背嚢から私の頭ほどの大きさの革袋を取り出した。

「この中に、マキマキガイが10個ほど入っている」

 マキマキガイ。それはその名の通り拳大ほどの巻貝で、味は非常に美味とされる。

 杭の道の四方を渡る杭渡りでもそうそうお目にかかれない珍味だ。

 一度だけ、マキマキガイを手に入れたことがあったが、その時は師匠に全部食べられた。その時の師匠の感想は、例によって『美味かった』だけだった。

 ごくり、と私は喉を鳴らす。

 それを見て、

「交渉成立だな」

 うっすらと笑いながら、ノッポは先ほど私が差し出した紙片をこちらに突き返した。


 情報を追加した地図を交換して互いに確かめた後、私の方に革袋を放ってノッポはすぐに杭を渡っていった。

「小さいの。お前がいい杭を渡れるように祈ってるよ」

「ノッポがいい杭を渡れますように」

 ノッポの背中を見送ってから、私は革袋を背嚢に押し込んでほくほく顔で杭を渡る。

 クイマガイの生息域と、クイマガイが傾いた杭に擬態しているという情報を記した地図を渡した後、ノッポはすぐにこちらの地図をひったくり、1000杭分+『行商』までの分岐で水上テントを張れそうな杭の場所を書き加えてくれた。

 びっくりした私が相応の返礼をしようとしたら、

「小さいの。俺はな、お前を対等に扱うと言ったな。それが理解できるなら、何もしようとするな」

 と、すごい剣幕で断られた。

 ノッポが言っていることはよくわからなかったけれど、思い返してみると、これは交渉としては大成功だったのではないだろうか。圧勝といってもいい。

 1000杭分の地図の情報と『行商』の居場所、そしてマキマキガイ10個を手に入れたのだ。

 師匠、やったよ! 私ももう、一人前の杭渡りだよ!


 そんな思いは、その日の夕食時に打ち砕かれた。

 ノッポが情報の対価に渡してきた10個のマキマキガイ。その中で、身が入っているマキマキガイは1個だけだったのだ。

 確かに、ノッポは10個のマキマキガイが入っている、とは言ったが、全部に中身が入っているとは言わなかった。

 実のところ、私は交渉で負けていたのだ。

 ナイフでほじくって取り出したマキマキガイの身は、濃厚な甘い油の味がしてとっても美味しかったけれど、毛布にくるまった私は、敗北感でしくしくと泣いていた。

 いや、でも待てよ。ノッポが最後にこっちの地図にキャンプ拠点を記載してくれたのは、交換した情報の価値が等価になるようにーーつまりは、言葉通り、私を対等の杭渡りと認めてくれたからに違いない。そう思ったら悲しい気持ちもどこかに吹き飛んでいった。

 私を対等と認めてくれた杭渡りがいるということを、もういない師匠に誇りたかった。

 明日も、いい杭が渡れますように。

 ノッポもいい杭を……渡れなくても、まあ、どうでもいいや。




 ノッポがくれた地図の通り、その大きな杭には『行商』がいた。

 50人位は定住できそうな、大きな杭だった。残念ながら『行商』がいる以上、そこに定住はできないのだけれど。

「こんにちは」

 私の挨拶に『行商』は小さな会釈を返しただけだった。

『行商』は全身を真っ黒なローブに身を包んでいる。両手足の裾は長く余っているし、顔も真っ黒な布で覆い尽くされていて、年齢も性別もよくわからない。

 その背後には、大きな杭の半分を埋め尽くすくらいの雑多な物品がごちゃっと積み上げられていた。

「確認をおねがいします」

 言って、私は師匠のノートを差し出した。

 こくりと頷いてそれを受け取った『行商』はペラリとノートをめくって見分した後、

「……あなたが調査した杭の数に応じ、65貨を授けます……」

 嗄れた声で言ってこちらにノートを突き返した。

「……あと、ノートに書かれていた生物の絵に対し、追加で5貨を支給します……」

 合わせて、70貨。結構な額になったことに驚きつつも嬉しくて、私は思わず微笑んでいた。


 時に杭渡りは、杭に定住する民の子供から、杭渡りになるにはどうしたらいいの、と問いかけられることがある。

 すべての杭渡りは、その問いにこう返答する。

『杭渡りになりたければ、行商を探してノートをもらえ』


『行商』というのは不思議な存在だ。

 杭渡りを志す者にノートを渡し、そこに記載された杭の道の調査結果に対して報酬を支払う。

 その報酬で、杭渡りは杭を渡るのに必要な物品を『行商』から購入する。

 私が師匠からもらった伸縮式の釣り竿や、折りたたみ式の水上テント、私が背負っている背嚢もそうだ。

 なぜ『行商』が杭の道の情報を集め、それに対価を支払っているのかはわからない。

 ただ、人ならざるものなのだろう、というのが杭渡りの一般的な見解だ。

 たとえば、『行商A』にノートを提出し、その日のうちに100杭ほど離れた『行商B』にノートを見せたとしても100杭分ほどの報酬しかもらえない。

 さらに不正は見逃さない、というか無視するとなれば、人外説が出てくるのもしようがない。

 ただ、『行商』は杭渡りAが調査済みの道を、初めて踏破した杭渡りBがノートに記載して提出しても正当な報酬をきちんと支払う。

 杭渡りを増やしたい、或いは杭の道に生きる人間を助けたい、そういう意図でもって弟さんの神に遣わされた存在なのではないかというのが杭渡りの認識なのだと師匠は言っていた。

 ただ、機械的な対応しかしない『行商』は、世界の果てを目指すのに一生懸命な杭渡りにとって便利な道具を提供してくれる存在である、という以上の意味はない。



「……352貨をあなたは所有しています……」

 352クイッカかあ。

 杭渡りの間では、『行商』の扱う貨幣はクイッカと呼ばれている。すべての『行商』がノートの持ち主の残高を把握しているので、コインで荷物が増えるというようなことはない。

 ちなみに、師匠からノートを受け継いだ後に残高を確認したら、見事に0クイッカだった。

 ともあれ、ノッポに『行商』の情報を聞いていたから、購入すべきものは大体決めてある。

 まずは、この間クイマガイに切断された伸縮棒。これを修復しておかないと『ミズムシ一網打尽法』が使えない。

 これは10クイッカになる。

 あとは……

 乳白色の水を即座に飲める水にろ過してくれる『ミズムシ筒』が本当は欲しいが、これは6000クイッカと、『行商』が扱う品の中で最高額だ。

 だから、1日かけて1水筒分の水を浄化して飲めるようにしてくれる、使い捨ての『ミズムシ玉』を10個。これで50クイッカ。

 今回の調査報酬分をほとんど使いきってしまったことになるが、必要経費だからしようがない。

 食料は最悪、杭に繁茂しているクイガイでなんとか食いつなぐことができるが、水はそうもいかない。水の備蓄が尽きる前にミズムシの定住杭が見つかる保証なんてないのだから。

 残り292クイッカ。いつ何時、どんな目に遭うかもわからない杭渡りは、探索の報酬をその場で使い切ることが多い。

 だから、『ミズムシ筒をもっている杭渡りの話を聞いたら与太話と思え』と師匠も言っていたし、6000クイッカも貯めこむ奴は阿呆に違いないと私も思う。欲しいけど。

 自分が渡ってきた杭の数を考えたら6000クイッカがどれほど途方もないものかがよくわかる。

 ただ、500クイッカの品くらいなら、一人前の杭渡りなら持っていてもおかしくない。

 292クイッカ。師匠から独立してから372日が経った。そろそろ私もそういうクラスの道具が欲しいところだ。

『行商』の背後に山積みされている品を眺めながら、私は胸中で呟いた。

「あ、そうだ」


 その日の夕飯は豪華になった。

『行商』に、マキマキガイの殻を引き取ってもらったおかげだ。マキマキガイは中身が美味しいだけではなくて、殻がいろいろ加工できて杭渡りの道具にもなるのだと師匠に聞いていたから、交渉を持ちかけたのだ。

 クイッカとの交換はできないが食料との交換なら可能ということで、コイコクという汁物のツボと交換してもらったのだ。

 コイコクは中に入っている魚の身は甘いが汁は苦いという妙な食べ物だった。

『行商』とコイコクのツボの挿絵を添えた杭の道をノートに書き込んで、毛布をかぶる。

 明日も、いい杭が渡れますように。




 その日、293本目の杭を渡った私は、程々の大きさの杭に老人が腰掛けているのを見つけて、杭を渡る足を止めた。

 向こうがこちらに気が付き、

「やあ、小さな杭渡りさん」

 と、こちらに手招きをした。

 ハンドサインを交わすまでもなく、すれ違うのはそこの杭が妥当だったので、私は警戒しつつも、

「こんにちは、年老いた杭渡りさん」

 その杭へと渡る。

「『あなたは何を求めて杭を渡る?』」

「『世界の果ての探求を』」

 定形の挨拶を交わし、私は老人が杭の情報交換を切り出してくるのを待ったが、老人はそもそもこちらを見るでもなく、乳白色の水面を眺めているばかりだった。

 たまに、こういう杭渡りがいる。

 渡るのを諦めた杭渡りだ。

 見た感じ、老人は手足も衰えていて細く、これ以上杭を渡り続けられそうにもない。特に私がこれまで渡ってきた、細く間隔の広い杭などは。

 老人が来たと思しき道、これから私が進む先を見ると杭は太く間隔も短く、渡るのも楽そうだった。

『杭渡りは、いつまでも杭を渡り続けられるわけじゃあねえ』

 師匠はそう言っていた。

 クイマガイのような危険生物に襲われることもあるし、何より、年を取って身体能力が衰えれば杭を渡り続けることはできない。

 見た感じ、老人は師匠よりも遥かに年上だった。

 もはやこれ以上杭を渡ることはかなわないと判断し、ここで待っていたのだろう。

 自分の最期を看取ってくれる杭渡りを。

「何か……ご伝言は?」

 その言葉に、老人は私の方を見た。

「もし『シュールカの杭』にたどり着くことがあったら私の、キヨウの最後を伝えて欲しい」

「……確かに、承りました」

「……うん、頼むよ。小さな杭渡りさん」

 老人は呟いて、水面に素足の爪先を伸ばした。

 杭渡りとして反射的にそれを制止しそうになるが、ぐっと息を飲み込んだ。

 乳白色の水面に触れた老人の足の指が、ぱっと光を灯す。

 爪の先に灯された光は、目にも眩しい純白の輝きを発しながら指の付け根までのぼっていく。

 ただしその時にはもう、指は光に溶け消えて存在していない。


 水中に没すれば命はない。

 ろ過されていない乳白色の水は、触れた人間の命を糧に光を発する。

 触れたのが飛沫であれば、せいぜい2、3日寝こむだけで済むが、直接水面に触れたのなら話は別だ。

 乳白色の水は、命を光へ分解していく。もはや逃れるすべはない。

 杭渡りの3大死因の最後の1つがこれだ。


 杭渡りとしての自らの最後を悟り、杭の下に身を捧げる。


「ありがとう、小さな杭渡りさん。おかげでわしは、名誉を保てるよ」

 穏やかな表情を浮かべた老人に、私は小さく頷き返した。

 他に、何ができるというのだろうか。

 うっかり杭を踏み外して落命したのではなく、杭渡りとして誇りを持って死んでいったということを記憶に留めておくということの他に、私に何ができるというのだろうか。

「ありがとう。ああ……やっと、あいつに会いにいけるなあ……」

 いつの間にか首元へと到達していた光に応じるように、最後の輝きを発して老人は消えた。老人の最後の呟きは、聞いたけど聞かなかったことにして、杭に残された老人の荷物へと歩み寄る。

 老人が杭に残した荷物の権利は、最後を看取った私にある。『行商』もそれを認めるだろう。

 けれど、杭渡りの慣習に従って私は老人が残した背嚢を、水面を漂っている老人の衣服の上に放り、諸共に水中へと沈めた。

『物持ちの杭渡りは、重みでその足を滑らせる』

 沢山の荷物を抱えてしまったら、もう杭は渡れない。

 それは、大事なものが出来てしまったらもう杭は渡れない、という意味でもある。

 たまたまたどり着いた、人の定住する杭で恋に落ちてそこに腰を落ち着けた杭渡りの話や、弟子をとった杭渡りが弟子の不始末のために水中に没した話などは、いくらでもある。

 自分一人分の心と荷物以外を抱えて杭を渡ることは出来ないのだ。


「……師匠……」

 師匠のことを思いだして、私は114日ぶりに水上テントで泣いた。

 あの老杭渡りは、水面を越えて渡った杭の先で、想っていた誰かに会えたのだろうか。

 杭を渡り続けて、私もいつかは師匠に再開できる日が来るのだろうか。

 今夜はただもう眠りたくて、ノートもつけずに毛布にくるまった。

 どうか、この杭の道の先で、師匠にもう一度会えますように。




 霧の向こうにやたらと大きな杭が見えてきた時点で、わかっていたことではあった。

「いらっしゃい、杭渡りさん。でも残念だけれど、この杭の道は行き止まりなんだ」

 腰布だけをまとった筋骨隆々の若い男性が、こちらを憐れむようにそう言った。

「そうみたいですね」

 筋肉さんの顔を見上げて杭の上に展開された複数のテントと、そこからこちらを見つめているいくつもの視線を見返して、

「すぐにここから立ち去ったほうがいいですか? こちらとしては情報と物資の交換、それと明日の朝まで滞在させていただきたいのですが、交渉の余地はありますか?」

 杭渡りと定住民は別の価値感で生きているから、相容れないことも多い。

 定住民が杭渡りの持つ道具を狙ったり、逆に杭渡りが定住民の物資を欲して諍いーーというか殺し合いが起こることも多い。

 だからこそ筋肉さんが私の前にいて、他の住民は隠れている。

「情報交換は無理だと思う。今この杭にいる人間は、ここから100杭も離れたことがないからね」

「なるほど」

「物資もちょっと難しい。今はカワイルカの群れがこの杭から離れている時期でね。いつもならカワイルカの革と杭渡りさんの物資とを交換しているんだけど……僕のこの格好を見たら、革が不足しているというのは分かってもらえるよね?」

「なるほど。食料の類はどうでしょう?」

「この杭はミズムシにも、他の食料にも事欠かない。でも、僕が生きていくのにちょっぴり余裕がある、という程度なんだ」

「なるほど」

 同じ言葉を三度繰り返す。わかりやすい交渉決裂だ。

「じゃあしょうがないですね」

 言って踵を返した私の背中に、筋肉さんの声がかかる。

「ただ、あなたは久方ぶりにこの杭を訪れた杭渡りさんで、僕は余所の杭の情報に飢えている。もしあなたが、渡ってきた杭のお話を僕にしてくれるなら、ちょっぴりの余裕であなたの食事と寝床を準備することは可能だけど、どうだろう?」

 振り向いて、筋肉さんを見上げる。

「私は、杭渡りですよ?」

「そうだね。ただ、僕ももう10年以上、いろんな杭渡りを見てきてるからね。悪い杭渡りと、そうでない杭渡りの見分けがつくくらいの目は養ったつもりだよ」

 筋肉さんの言葉に、私は小さく頭を下げた。

「では、一晩だけ、よろしくお願いします。あと、お話するのは、ここからずぅっと遠い杭のものがいいですね?」

 きょとんとした表情を浮かべてから、筋肉さんは微笑んだ。

「思ったとおり、あなたはいい杭渡りさんだ」


 師匠! 師匠! 今のやり取り、見てくれた? 私、とっても師匠っぽく振る舞えたよ!

 心の中で誇らしげに叫んでいると、筋肉さんの合図でテントから人が溢れ出してきた。

 布面積の少ない衣服をまとった大人は安堵のため息とともに。

 ほぼ全裸の子供は、

「くいわたりさんだー!」

 という歓声とともに。


 杭に擬態して杭渡りを襲うクイマガイの話に10人ほどの子供はきゃーっと悲鳴を上げ、アサ・ヒル・ヨルの訪れを鳴いて告げ、肉も甘くて美味しいという家畜のニパトリの話に大人たちがほうっと息を吐く。

 人はヨルの下に身をさらすわけにはいかないから、杭の定住民95人と私が全員は入れて雑魚寝もできる大きさの天幕がはられ、私は人々の中心で遠い杭の向こうの話を語っていた。

 話が一つ終わるたびに、料理が私の前に差し出される。

 マキマキガイ以上の珍味として知られるソコアンコウの焼き物、1杯飲めば寿命が300日伸びると言われるシズィミの吸い物、甘苦いプタの切り身。

 自分の話をするだけでなく、私はこの杭での暮らしがどのようなものかを定住民に問いかける。

「杭渡りさんに比べたら、退屈なもんじゃ」

 そう応えたのは最年長という、長老さんだった。

 カワイルカは杭から一定の距離を離れたルートを回遊する。だから、縄を括りつけた矢を水面から飛び出したカワイルカに射って引き寄せて革を剥ぎ、再び放流する。カワイルカが回遊し、革が再生した頃を見計らってまた捕まえる。

「その繰り返しの、単調な暮らしじゃよ」

 話の間中、私の側から離れず一喜一憂する好奇心旺盛な子どもたちに、杭渡りになるにはどうしたらいいの、と問いかけられて、私はこう応えた。

「杭渡りは世襲制……お父さんが杭渡りじゃないと、杭渡りにはなれないよ」

 私の言葉に筋肉さんは満足気に頷いた。


 目を覚ました時には、すでに天幕は取り払われていた。

 昨晩の宴のあとも何もかも片付けられている。まるで、それが夢であったかのように。

「おはようございます」

「ああ、おはようございます」

 側に立っていた筋肉さんに挨拶を返して、私は荷物を確認して出立の準備を整える。

「昨晩は楽しんでいただけましたか?」

 荷物に盗まれたものはないようで、私はそれを背に負った。

「ええ、夢みたいな一夜でした。いえ、多分夢だったのでしょうね」

 にこやかな筋肉さんを上目遣いに見て、小さく首を左右に振った。


「なにせここは、あなた1人しかいない、寂しい杭なのですから」


 テントに隠された暗闇の向こうからこちらを狙っている、十数本の弓矢を意識しながら私は呟いた。

 筋肉さんは満面に笑みを浮かべ、握手を求めてこちらに手を差し出した。

「本当に、あなたはいい杭渡りさんだ」



 600本ほど杭を引き返してきた私を見つけたらしい、でっぷりと太った男が軽く手を上げた。

「お。やっぱり生きて帰ってきたな。いやあ、あんたならなんとかなると、そう思ってたんだよ。俺も面目躍如ってなもんだ」

「美味しいものは食べられましたけど、生きた心地はしませんでしたよ」

「はっはっはっ、まあそうだろうな!」

 あの杭は、規模に比べて得られるものが大きすぎる。

 ソコアンコウ、シズィミ、プタはともかく、カワイルカの回遊域ともなれば、余所の定住杭の人間が攻めて来てもおかしくはない。

 だから、あの定住杭は訪問者を選ぶ。

 その一次選考を行っているのが、この太っちょだ。同時に定住杭の誰かがここを渡っていかないよう監視もしているのだろう。

「ソコアンコウは美味しかったろう?」

「まあ、美味しかったですよ」

「次に訪れた時に、また歓待してほしいと思ったろう?」

「それは、まあ」

「なら、『行商』はともかく、他の杭渡りにあの杭のことは話さないことだ」

「話せるわけ無いでしょう?」

 ソコアンコウ、シズィミ、プタ、カワイルカ……あまりにも楽園過ぎて、荒唐無稽にすぎる。多分、誰も信じない。

「はっはっはっ、まあ、また近辺の杭に寄った時は、珍しい話を頼むよ! あまり余所と交流できないから、皆刺激に餓えていてな!」

 太っちょの言い方はどうにも腹立たしいものではあったけれど、供された料理の数々は口を噤むに十分なものだったし、何より、あの杭の子どもたちはとっても可愛かった。

 だから私は杭渡り流の言い回しで、こう応えた。

「また、杭の道が巡ることがあれば」


 その日のヨルは、釣り上げた小さなアズィとクイガイが夕飯だったのだけれど、何だかお腹が物足りなくてなかなか寝つけなかった。

『杭渡りと定住民は相容れない。その理由の一つが、食い物だ』

 師匠の教えはやっぱり正しい。

 美味しい料理をたくさん食べてしまったせいで、ひもじい食事に納得できずしくしくと泣く胃袋をなんとか抑えつけて眠ろうとする。

 明日は、お腹一杯美味しいものが食べられますように。




「ああああああっ! やっぱり行き止まりじゃねえか、このクソがっ!」

 師匠は絶叫して、だん、だんと杭に足を叩きつけた。

「ここに来るまで556日もかかったんだぞ?! 分岐も含めてその日数だ! ふざけてんじゃねえぞ!」

 きっとこちらを睨みつけて、私の頭を小突き、

「し、師匠! 八つ当たりしないで下さい!」

 私の非難を無視して、またどんどんと足を踏み鳴らした。

「……まあ、それはしようがねえな」

 師匠はとっても短気だけれど、感情を発散させてしまえば切り替えも早い。ただ、それに使われる私のことをもう少し気遣って欲しい。

「さってと、こいつはなんなんだろうなあ」

 私と師匠の2人が立ってなお余裕がある大きさの杭の向こうに道はない。

 道はないが、代わりに今まで見たこともない石壁が水面を割ってそびえ立っていた。

 高さはちょうど師匠の身長と同じくらいで、横幅は杭と同じーー両手を広げて立った師匠2人分くらい。

 ちょっとでこぼこしている杭とは違って、壁の表面はつるつるだった。

 杭の道が途切れているかもしれないのは遠くから見てわかっていたけれど、この壁を調査するためにここまで渡ってきたのだ。

「んん〜? うっすらとだが、表面に文字が刻まれてるな」

 なめるように壁を見ていた師匠が、その目を見開いた。

「……おい、ここになんて書いてあるか、読めるか?」

「え? あ、待って下さい、私の身長だと、そもそも見えないので……」

 両脇の下に手を差し込まれ、師匠にひょいっと抱え上げられる。そのまま師匠は私を抱きかかえるようにして壁の方へと向けた。

 師匠にとって私は単なる子供に過ぎないのだろうけど、でもちょっと恥ずかしくて、あとすごく嬉しい。

 ただ、あまりぼうっとしていると短気な師匠は私を水面に投げ込もうとするだろうから、壁に刻まれている文字を読むべく顔を向ける。

「『秘石を集めた者には世界の果てへの扉が開かれる』……?」

 杭の上にいる私からは身長の関係で見えなかったが、文字の下に小さな穴が開いていて、そこに小さな四角形の緑色の石が入っていた。

「取ってみろ」

「え?」

「俺は両手がふさがっている。だから、とれ」

 罠がないか、私で確かめるつもりだ。間違いない。

 でも、師匠の言葉に逆らう理由は何もないので私は素直にその緑色の石を手に取った。幸いにも罠はなかった。

 爪ほどの大きさの石は、暗く濁って、でこぼこしていて、綺麗とはとても言いがたいものだった。

『秘石』? これを集めたら、世界の果てにたどり着ける?

 ことん、と音がして穴の中に再び緑の石が現れた。

「ふむ……」

 ぽいっと私を放り出し、師匠はその石を手に取った。

「し、師匠! これって、なんなんですか?」

 小さな拡大鏡を取り出して石の表面を子細に見分した師匠は、

「わからん。こんな石、見たことがない」

 眉根を寄せているが、顔はとっても楽しそうだった。

「『秘石』……『秘石』ねえ。要はこいつを集めりゃいいってことか? 杭の道の四方を渡って? はん、この真っ白な水と杭の道を創った創世の双子神の話なんざ信じてなかったが、ひょっとしてひょっとするのか?」

 人間が嫌いなお兄さんの神は、人間の命を光に変える真っ白な水で世界を満たした。人間を哀れに思った弟さんの神はその上に石杭の道を作り、人間が生きていける可能性を残した。

 杭渡りに伝わるお伽話だ。お兄さんのほうがどうして人間を嫌いになったのかは、よくわからない。

「しっかしよぉ、何個集めりゃいいとか、そういう情報も刻んどけよ。いや、でもこっちの方は探索し尽くしたしな。となると、四方……4つの可能性が高いか?」

「し、師匠、師匠」

 ぶつぶつと呟く師匠の服の袖を引く。

 私を見下ろした師匠は、今にも舌打ちしそうな表情を浮かべーーその後は私の懸念していた通りになった。

「お前な、もう免許皆伝」

「え? し、ししょ……」

「もう教えることはない。もう一人前の杭渡り。杭を渡って行きたいところへ行け。餞別として、今俺が持ってる荷物は全部くれてやる。必要な分だけ選別して、残りはここに沈めろ」

「師匠、私は……」

「ああ、あとここのことはノートに書くな。どうにもならなくなったら、書いて『行商』に提出しろ。無論、他の杭渡りには絶対に話すな。いいな?」

「師匠……」

「返事はどうした!」

「は、はいっ!」

「よし、じゃあ俺は行く。愛弟子よ、杭の道が巡ることがあったらまた会うこともあるだろう。達者でな」

 背嚢を乱暴に杭の上に放った師匠は緑の石を懐にしまい、予備とばかりにもうひとつ石を取ってから、追いすがるまもなく今日来た杭を引き返していった。

「お前と杭を渡るのも、なかなか楽しかったぜ」

 師匠の姿はあっという間に白い霧の向こう消えた。

「あ、ああ……師匠……」

 私は、また捨てられたのだ。足手まといだという、これまでと全く同じ理由で。


 定住できる杭には、当然定員がある。杭の大きさを越える数の人間は住めない。

 普通は人口管理をするのだが、そこが杜撰な杭は、新天地を探索する、という名目の口減らしが必要になる。

 両親のいない子供だった私は真っ先に探索隊に選ばれ、その途上で白い水の飛沫を浴び、発熱して寝込んでいるところを置き去りにされた。

 それを拾ってくれたのが師匠で、今また、その師匠に捨てられた。


 杭の道は長く、人間の寿命は短い。

 師匠の選択を責めることは出来ない。

 そもそも師匠がいなければ私は生きてはないのだから、師匠を恨むなど筋違いだ。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら『手切れ』のために師匠が残した荷物から必要なものを選別しつつ、私は心に誓った。


 いつか、必ず師匠に追いついてやる、と。

 その時には、もう足手まといだなんて思わせないくらいに成長してやる。

 師匠と一緒に、世界の果てを目指して杭を渡るのだ。


「ん〜」

 ぱちんと頬を叩いて自分に気合を入れる。

 師匠の夢を見た朝は、こう……もうどうしようもなく気分が高ぶるので、それを落ち着かせるためでもある。

「よし!」

 顔を上げて、目の前に続く杭の道を見る。

 ここから先は師匠のノートに全く記されていない未知の領域だ。通った道はすべて頭に入れていて、単に『行商』からの報酬目当てでノートの記載を行っていた師匠は、必ずこの杭の道の先のどこかにいる。

 絶対に捕まえてやる。

 そう心に決めて、私は杭を渡るための足を踏みだした。

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杭を渡る @kazen

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