戦場でラスボスと対決した・二

 乙女ゲームだと、ヒロインはあくまでプレイヤーの代理人であり、意思がごくごく乏しく、自己投影しやすいキャラメイクになっていることが多い。

 特に登紀子は世間知らずのお嬢様であり、それが故に実家が借金まみれになっていても、婚約が破談するまで気付かなかったくらいには箱入りなんだろうと、そう思っていた。

 でもそれが、登紀子の処世術だったのだとしたら?

 いくら乙女ゲーム補正がかかってだいぶマシになっているとはいえど、大正の世は男尊女卑がひどいものだった。

 既婚男性の不倫は甲斐性だとばかりに許されていた一方で、既婚女性の不倫は一切許されないという不自由が横行していた。結婚のために学校を辞めさせることも、平然と行われていた。

 だから器物のふりをしてできる限り波風を立てずに生きる。人形のようにただ愛玩されるだけの立場になる。そうすることで自分自身を守っていたのだとしたら?

 登紀子はとにかく美人だったがために、利用価値というものが高いのだから、彼女の意志関係なく利用されがちだから、そうやって生きていくしかなかったのだとしたら?

 もしかして私は、柳田登紀子という人間を見余っていたのかもしれない。

 私の中にいた登紀子は、しっかりと宿敵である鬼龍院さんを睨みつけていた。

 周りの芸妓たちは酔いで歩くことも逃げ出すこともできない人たちしか残っておらず、華族院の人々は面白がってこちらを見ながら酒を飲んでいる……こちらの対決はあんたたちの酒の肴ではない。

 鬼龍院さんの硬質な黒い瞳を、登紀子はきっと睨みつける。彼女はこんな風に人を睨めるものだったんだなと、本当に彼女を大きく誤解していたことを思い知る。


「話が違いますよね。私はただ生きているだけです。私が生きているだけで世の中が不幸になるとおっしゃるのならば、吉原は今頃かつての旧吉原のように炎上して無くなっていました。でもここは燃えていません。あなたのやったことを、私の罪と押し付けるのは止めてください」


 登紀子の澱みのない言葉が、鬼龍院さんの言葉の粗を突く。

 ……そう、鬼龍院さんはあくまで登紀子の心を砕いて人形にしたいだけ。彼の言葉は全て詭弁だ。

 彼女は私の知っているどのルートでも、ここまでばっさりと人と対峙することなんてなかったのに。

 ううん。私は気付かなかっただけで、きっと幸哉さんは気付いていた。彼女は常に人形としてなにも考えてない空っぽな人間として生きなかったら、生きていけなかっただけだ。よくも悪くも吉原では、家族に気を遣う必要も、攻略対象たちに気を遣う必要もなかったから、本来の彼女が引きずり出せただけだ。

 こちらの言葉に、鬼龍院さんは「ほう……」と声を上げて、楽し気に口元を歪めた。


「おかしなことをおっしゃいますね、登紀子さんも。現にこの場にいる芸妓たちの現状をご覧ください。あなたが現れなかったからでしょうが」

「……あなたはいつもそうですね。可哀想な人。手に入らないからと駄々をこねて人形を床に叩きつけて、壊れた人形を指差して、『お前のせいで壊れてしまった。大事な人形だったのに』とおっしゃってばかり……人形が欲しいのならば、職人に買い求めてください。私はあなたの人形ではありません」


 彼女のまくしたてる言葉に、私自身も呆気に取られていた。

 本当にそっくりそのままその通りなのだから。

 子供が権力も金も持った結果、誰も止めることができない、歩く災害になってしまったのが、鬼龍院誠一なのだから。

 ……もっとも、これは全部のルートを読んだ上で推論を立てなかったら読み取れない部分だけれど。

 そこに登紀子は真っ直ぐに気付いたんだ。

 でも。こんな華族院の人たちの前で恥をかかされたと判断した場合、鬼龍院さんは登紀子を許せるんだろうか。

 私はしばらく考えてから、なおも攻撃しようとする登紀子を抑える。

 当然ながら彼女が抗議するけれど、私は自分の中で首を振る。

 あなたの言うことは全部正しい。でも、正しいことを全部言ってしまうのは正しくない。

 あの人としないといけないのは、あの人への断罪じゃない。この場にいる芸妓の姉さんたちをこれ以上傷つかないように解放することだから、この場から離れてもらわないといけない。

 登紀子はできるのとでも言いたげな態度だけれど。

 酔っぱらいのおっさんにも、無責任なおっさんにも、八つ当たりされてきた。

 この人をそのおっさんたちと一緒にするのは気が引けるものの、厄介客な部類と同じだろう。

 私はじっと鬼龍院さんを見た。彼は登紀子の言葉になにやら思ったらしく、視線が少し揺れていた。

 私はできる限り硬い言葉を選ぶ。


「……私は現状、年季を待たなければ吉原から出られない身です。正攻法以外で私を連れ出すような真似はお断りします」


 脱がされそうになった長羽織の裾を掴みながら、言葉を重ねる。


「鬼龍院様は、贈り物はしてくださいましたが、私を座敷に指名することもなければ、外に食べさせに向かうことすらありませんでした……これでは、他の旦那さんたちに示しが付きませんね? 今回、姉さんたちに大変申し訳ない思いをさせてしまいました……どうぞ皆々様、吉原で遊ぶ際は、こちらの規律を守ってください。たしかに私たちは吉原の外の人間とは違う価値観で生きているかもしれませんが、私たちも同じ人間です」


 そのまま私は、ぺたんと座って手を突いた。


「どうぞ、お引き取りくださいませ」


 登紀子は鬼龍院さんの言動の矛盾を突いたのに対し、私はただ、ルールを守れの一点張りだった。

 どの道、前例をつくられると次に来る客や旦那の質が落ち、仕込み中の芸妓や今はこの座敷に来ていない姉さんたちに多大な迷惑をかけるおそれがあるのだから、この一線だけはきっちりと引いておく必要があった。

 このまま私が手を突いて、顔を上げない中。

 ふいに肩が叩かれた。


「……貴族院の皆様、どうぞここでお引き取りくださいませ」


 その声に、私は驚いて顔を上げる。

 そこには普段の柔和な笑みを引っ込めて真面目に顔を引き結んだ、スーツ姿の幸哉さんがいた。


「自治会から連絡をいただき、こちらに伺いました、早乙女家次男の幸哉と申します。既に父には連絡を致し、貴族院のほうには問い合わせの連絡が入っているかと思います。今、吉原から退散してくだされば、全ては座敷のことと不問に致しますが、これ以上の騒ぎが行われるとなりましたら、父越しに今回の件を訴えます。どうぞお引き取りを」


 ……さすがに政治の場で、吉原で乱痴気騒ぎをして芸妓に多大な迷惑をかけたなんて訴えられたら、本人たちは溜まったものではないだろう。

 顔を引きつらせた貴族院の人たちが去っていく中、ようやく鬼龍院さんも立ち去ろうとする。

 なにか声をかけたほうがいいのか。一瞬思ったものの、私はこれ以上は口を開かなかった。

 ……服部さんと同じだ。少しでも好感度を上げたら最後、どうなるかわかったものじゃないし、なによりもこれ以上なにかしらやったら、幸哉さんにも危害が及ぶから、沈黙が金だ。

 彼が立ち去っていくのを、私はただずっと長羽織の裾を掴みながら見送った。

 ……この人がこうも極端な性格になった理由は知っているけれど、これは登紀子に伝えるべきじゃないし、半端な同情をするべきでもない。

 彼に対しては、申し訳なくても拒絶を送るしかない。


****


 幸哉さんの会社の人々や吉原の自治会により、怪我した芸妓たち、酔っぱらって身動きの取れなくなった芸妓たちは病院へと運ばれていった。

 中には酒が入っている中全力ダッシュをしたせいで体を壊して倒れた人たちもいるので、その人たちも回収したら、ようやくいつもの吉原の雰囲気へと戻った。

 裏にいたしおんは泣きながら「ときをさん……!」と抱き着いた。


「しおん……なんにもなかった?」

「いきなり姉さんたちが血相変えて出てきたから驚いたのよ。一部具合の悪い人たちは、すぐに孝雄さんが人力車に乗せて置屋に戻してあげたけど、一台じゃ足りなくって……でも全然ときをさんが帰ってこないから……!」

「うん、私はなんとかなったから。だからこれ以上泣かないで」

「うん……無事でよかった……」


 そのままワンワン泣くしおんの背中をさすっている中、ようやく人の手配が終わった幸哉さんが出てきた。


「よかった、皆さんちゃんと戻れたようで……ですが、今晩はどこも見世の営業は厳しいでしょうね」

「そうですか……たくさん予約を繰り上げたり、朝から大変でしたのに」


 貴族院の人たちからどうこう言われてしまったら、こちらも言うことしかできなかったのに。

 私がうつむくと、幸哉さんは穏やかに言う。


「ですが、皆が無事だったのですから、置屋を超えて、皆で芸を披露する場ができればいいですね。自分ももし、そういう場ができれば、支援しますから」

「ああ……!」


 芸妓は元々芸を披露するものだ。

 その場を失って台無しにされたのが今回の一件なんだから、代わりの舞台を用意して、今回予約をキャンセルしてしまったお客さんたちを招待できれば……!


「ありがとうございます、お母さんにも相談してみますね!」

「はい……とにかくときをさん」


 幸哉さんは私の傍に来て、私の背中に手を添えた。


「……無事でよかった」


 私に抱き着いているしおんは、「よかったわね、ときをさん」と囁くのに、私も顔を火照らせながら、小さく頷いた。

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