ビューティフル

春雷

ビューティフル

 今週のジャンプを読みながら泣いていた。

 コンビニで立ち読みをしていた。立ち読みで泣いてしまうなんて情けない。泣き止もうと思う。でも感動で涙が溢れてたまらない。泣いたのはいつぶりだろう。こんなに感動したのは初めてかもしれない。

 その漫画は、僕の親友が描いた漫画だった。

 間違いない。偶然目に留まって読み始めたのだが、以前彼が僕に見せてくれたネームと、絵もストーリーもそっくりだ。あのネームからいくつか変更点はあるものの、物語の核心部分はそのままだ。

 その漫画はSFもので、監視社会を生き抜く兄弟の話だ。その兄弟が辛く厳しい社会を耐え抜く様が、胸を強く打つ。ラストシーンは弟の墓に花を添える兄の後ろ姿だ。夕陽に照らされたその後ろ姿は、どんな言葉でも表しきれないような美しさと、力強さを持っている。僕はとても感動した。生きていく勇気をもらえた。

 弁当を買いに来ただけなのに、こんな素晴らしい体験ができるとは。偶然の力も侮れないな。

 僕は弁当とそのジャンプを買って、コンビニを出た。


 アパートに帰ると、兄がテレビゲームをしていた。

「兄貴、いい加減帰ってくれよ。僕は一人暮らしを堪能したいんだよ」

「うるさい。サキがまだ許してくれないんだよ」

 兄は彼女と同棲しているのだが、喧嘩して、追い出されたらしい。喧嘩の原因は兄の浮気だという。彼女に携帯を見られて、浮気が発覚したのだ。つまらない話もあったものだ。

「もう実家にでも帰ったらいいじゃないか」

「馬鹿。親父が許すかよ」

 父は厳格な人で、浮気など絶対に許さない。浮気が発覚した夜、彼女が父に密告したらしい。兄の携帯に父の怒り狂った電話が何回もかかってきたという。

「なんで浮気なんかしたんだよ。サキさん、いい人じゃないか」

「おい、お前は全くわかってないな。浮気はしようと思ってするもんじゃないんだ。気づけばしているものなんだよ。自然の摂理みたいなもんだ。風に木が揺れる。女の髪に心が靡く。同じことだ」

「屁理屈ばかりだな、兄貴は」

 ふん、と鼻を鳴らして、兄はビデオゲームに熱中する。ゲームのBGMが小気味よく耳に響く。

 部屋は二人でいるには手狭だった。それもそうだ。都内の安アパートなのだから。

「兄貴、今週のジャンプ読んだ?」

「読んでない。俺は単行本派だしな」

「僕の友達に漫画描いてるやつがいたろ?そいつの漫画がジャンプに載ってるんだ」

「へえ」

「読んでみてよ。すごく面白いよ」

「読まねえ」

「どうして?」

 兄貴は僕の問いを無視した。機嫌が悪いのだろうか。

「実は俺・・・仕事辞める」

「え?」

「まあ、そういうことだ」

 兄は家電量販店で働いていた。社員になってから三年になると思う。

「どうして」

「いや、まあ、馴染めなかったんだよ、職場の雰囲気にさ。それにやりたいこともあるし」

「やりたいこと?」

「ああ。今はちょっと言えないけどな」

「これからどうするの」

「バイトしながら、って感じだな」

「やりたいことって何なの」

「それはまあ、今はいいだろ」

「よくないよ」

 兄は黙り込んだ。兄は都合が悪くなるとすぐに黙り込む。僕はこの兄の癖が好きではなかった。

「サキさんのことはどうするの」

 やはり沈黙だ。

 僕はため息をついて、自分の部屋に入った。こうなると兄は意固地で、結局先に折れるのは僕の方なのだ。

 部屋でもう一度ジャンプを読んだ。親友が描いた作品は、面白いと思ったけれど、他のプロの作品と見比べてみると、展開の雑な感じが目立ったし、画力もアマチュアの域を出ないという感じがした。冷静に批評すると、あと一歩だという感じがした。あともう少し何かがあれば、より感動的な作品になる。でもその何かが僕にはわからなかった。

 立ち読みした時には泣くほど感動したのに、今となってはそれほどの感動はない。どうしてだろう。立ち読みの時は親友だという補正がかかってしまっていたのかもしれない。

 僕はため息をついた。何だかつまらない感情になってしまったな。兄の話を聞いたからかもしれない。批判的な感情になってしまっている。これはよくない。この感情のままでは、素晴らしいものでも下らないと唾を吐いてしまうだろう。

 僕は床に寝転んだ。硬い床は冷たくて、僕が甘えているのを責めているように感じられた。どうして僕は自己批判を繰り返しているのだ。深呼吸をして落ち着こうと思った。

 息を吸って、吐く。これを三回繰り返す。だんだん気分が落ち着いてくる。

 もう一度ジャンプを読んでみる。今度は親友の作品がそれほど悪くない作品だと思えた。

 

 夜。ベランダで夜景を眺める。それほどたいした夜景ではない。実際、何の感慨もなくその夜景を眺めていた。

 例えば、僕が恋をしていたのならどうだろう。きっとこの景色は素敵なものとして映るのだろう。

 例えば、僕が人生に絶望していたら、この景色はくだらないものとして映るのだろう。

 今の僕の気持ちは、どこまでも灰色だった。様々な色が混じり合い、作り出される灰色。元々どんな感情を持っていたのか、忘れてしまうくらい、どこまでも灰色の心だった。

 僕らは何のために生きているのだろう。どうして生きて、死んでいかなければならないのだろう。死はある一瞬間に突然訪れるものではなく、今この瞬間にも近づいてきている。皆その事実に気づかないふりをしているか、あるいは目の前の仕事に追われて忘れている。でもふとした時に思うのだ、死と生は隣り合わせなのだと。案外、両者の間にはそれほどの差はないのだと。


 部屋に戻る。兄貴は煙草を吸いながら、缶ビールを飲んでいた。

「兄貴、これからどうするの」

「何度も聞くな」

 やはり何も答えてくれない。これからどうするのだろう。僕は自分の将来さえも知らないのだから、兄の将来なんてもっと推しはかりようがないのだ。何も答えてくれない限り、僕は不安を抱き続けることになる。

 テレビが二人の静寂を埋める。見ると、ホームドラマをやっていた。

「ある歌を聴いたんだ」

 兄が唐突に言った。

「歌?」

「うん。歌。名前も知らないバンドの歌。ラジオから流れてきたんだ。俺は先週、この歌を聴いた」

 何の話をしているのだ?

「人生は美しく生きるためにある」

「え?」

「つまり、そういうことだよ」

 僕には兄の言っている言葉の意味がうまく飲み込めなかった。人生論を語っているのだろうか。兄は言葉足らずな部分があるから、どういうことを言いたいのか、こちらが考える必要がある。

「ただ生きるんじゃなくて、美しく生きるんだ」

「それで、仕事をやめたの?」

 兄は黙って煙草を吹かしていた。きっと、返事は要らないと思っているのだろう。

「ちゃんと答えてくれよ」

 兄はビールを一口飲み、そして言った。

「俺は今まで怠惰に生きてきた。その自覚がある。俺は自分の人生を生きてはいなかった。ただ、徒らに生を費やしてきた。でもある時気づいたんだ。人生は有限だと。自分のやりたくないことに時間を費やしている場合じゃない」

 兄はビールを飲み干した。

「お前の親友が一歩ずつ夢に近づいているということを知るのが怖かったんだ。俺は全然夢に近づけていないから。そもそも、夢を追うなんて、ガキじゃないんだから、と思った。でも違うんだ。大人こそ夢を見るべきなんだ。夢を現実的に叶えられるのは、大人の方なんだ。子どもにどれだけの力がある?大人の方が圧倒的に力を持っている。大人の方が夢を叶えやすいはずさ。何度も失敗して、何度も挑戦して、一歩ずつ夢に近づいていく。そんなガキみたいな、泥臭いことを、俺は今から全力でやりたいと思うんだ」

「例えば、周りを犠牲にしてでも成し遂げるというの?」

「それは何度も考えたさ。でも俺が夢を追わなかった時の自分を想像すると、結局周りの受ける被害は夢を追った時の方が軽いのではないかと思う」

「それは兄貴の勝手な推測じゃないか」

「お金は自分で何とかするから安心しろ」

「安心できないよ」

 兄は黙り込んだ。代わりに僕は言った。

「兄貴の考えている美しさと、僕の考えている美しさは違うのだと思う」

 兄は席を立った。

「それでいい。俺の美しさはどこまでも俺のものだ」

 兄はアパートを出て、それきり帰ってくることはなかった。


 あれから六年経った。兄とは一度も顔を合わせることがなかった。親父の葬式にも兄は出席しなかった。

 僕の親友はジャンプで連載を持ったものの、ヒットせず、現在は保険会社の営業をやっているという。彼と時々喫茶店で会って話をすると、漫画への未練の話ばかりなので、少々うんざりしている。

 僕はお菓子メーカーに勤め、開発部署に配属された。なかなか大変なことばかりだけれど、毎日充実している。彼女とも結婚間近で、公私ともに順調な日々だ。

 ある日、コンビニに立ち寄ったので、雑誌コーナーを覗いてみることにした。とある音楽雑誌を手に取った。

 すると、兄が所属するバンドのインタビューが載っていた。

 兄貴、音楽をやっていたのか。僕は衝撃を受けた。兄から音楽の話を聞いたことが一切なかったからだ。インタビューを読むと、兄が作詞作曲を行っているようで、特に作詞センスについて高く評価されているようだった。

 それにしても、僕は立ち読みをするたび、驚かなければならないのだろうか。僕は苦笑した。

 音楽雑誌を棚に戻す時、週刊誌の表紙に兄の名前が載っていることに気がついた。急いで手に取り、ページを捲ると、兄の浮気についての報道が載っていた。人気上昇中のバンドだから、それなりにバッシングを受けているらしい。僕は複雑な気持ちになった。兄を褒める言葉と、兄を貶す言葉を両方目にして、僕は何とも言えない気持ちになった。頭が混乱した。僕は週刊誌を棚に戻して、何も買わずにコンビニを出た。

「この気持ちはいったい何だろう」

 帰りがけ、僕は思わず呟いた。


 アパートに戻って、ラジオをつけた。音楽が流れていた。毛皮のマリーズの「ビューティフル」という歌だった。

「本当の美しさとはいったい何だろう」

 その歌を聴きながら、僕はそう思った。


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ビューティフル 春雷 @syunrai3333

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