13 船出

「それで避難できたのはお前達だけか? それならそこにある防護服を使って──」

「いいえ。私達だけじゃありません。他の人達も一緒です。ここにある防護服だけではとても数が足りません」

 屋上に避難した美鈴はその場に妹が来ていることを確かめた上で、隠してあったコンテナボックスを室外機の下から探し出すと、そこに入っていたハンディ無線機で智哉との連絡を試みた。ボックス内には厳重にビニール袋に包まれた無線機の他に、化学防護服や避難用の縄梯子、僅かな水と食糧、簡易テント、それと恐らく護身用と思われるサバイバルナイフも収納されていた。防護服が数組しか用意されていなかったところを見ると少数での脱出を智哉は想定していたことがわかる。だが、実際に屋上に逃げ込んだのは総勢で二十四人もいた。その中には美鈴のことを知る日奈子や高瀬がいるのはともかくとして、智哉も無線で知って意外に感じたらしい三上の姿まであった。誰も聞いていないと思われた美鈴の呼びかけが、思いの外大勢の人間を動かしたことになる。もっとも智哉にとってそれは計算外だったようだ。

 本来なら送受信には最適であるはずの高台から呼びかけたにも関わらず、距離のせいかなかなか思うように繋がらなかった無線に漸く応答があり、現状を報告すると、急いでこちらに向かうと告げた智哉だが、到着には準備と天候次第で一日二日はかかると言う。それまではドアから離れゾンビを刺激せず、なるべくじっとして体力の消耗を抑えるようにと指示された。ただ、具体的な脱出の方法については何の言及もなかった。まだ思い付かずにいるのかも知れない。近くまで来たらまた連絡する、そう言って交信は途切れた。

「本当に助けに来るのか? 只の出任せじゃないって保証がどこにあるんだ?」

 当初は屋上の思い思いの場所に陣取って大人しくしていた生存者達も避難から半日ほどが過ぎると、徐々に不安と不満を募らせていった。その間に一度、どこかで爆発が起きたが、それも結束を促すまでには至らなかった。中でも三上本人は何も発しなかったものの、彼が引き連れて来たと思われる若者を中心とした六人ほどのグループが盛んに不平を口にし始める。その矛先は当然のように美鈴に向けられた。自分達の判断で避難の呼びかけに応じ、水と食糧は揉めることがないよう予め全員に公平に分配してあるのだから美鈴が責められる謂れはないはずだが、そんな道理は彼らには通用しないらしい。

「保証は……ありません。信じて待つしかないです」

 美鈴にはそう答えるよりなかった。

「自分が誘導しておいて、何の策も用意してないなんて無責任じゃないか」

 尚もそう詰め寄る若者に、見かねた木村が口を挟む。

「だったら放って置かれた方が良かったって言うのか? 周りを見てみろ」

 美鈴達が屋上に避難してから僅か数時間のうちに、建物から溢れ出たゾンビは屋外に逃げた人々を追い詰め、次々と犠牲にしていった。そこには暴走した警備の連中も含まれていたのだから、彼らのしたことが如何に無駄だったのか証明できよう。幾人かは車や徒歩で敷地外に脱出を図ったようだが、騒ぎを聞き付け近隣から集まったゾンビに行く手を阻まれて恐らく無事に逃げ果せた者は皆無だったに違いない。少なくとも今現在はここから見える範囲に生きた人間の姿を確認することはできない。

 木村にそのことを指摘された若者はそれ以上の言いがかりを諦め、これ見よがしに舌打ちすると屋上から身を乗り出し、自分達で持ち込んだ自動小銃を構えて敷地内を彷徨くゾンビを狙い撃とうとした。

「駄目。撃たないで」

 慌てて美鈴が叫んで制止する。オープンサイトから顔を上げた若者が不服そうに美鈴を睨み付け言う。

「どうして止めるんだ? 練習くらいしたっていいだろ。いざという時、外したらどうしてくれる? どうせ他に生存者なんていないんだ。まさか知り合いだから殺したら可哀想なんて言いやしないだろうな? 相手はゾンビなんだぜ」

「そういう問題じゃありません。死体を作ればそれに惹かれてさらにゾンビがやって来ます」

 美鈴のその反論に若者は鼻を鳴らして小馬鹿にしたように言い返す。

「どうせもう集まって来ているじゃないか。それに死体だってそこら中に転がっている。今更、多少増えたところで変わらないだろ」

 投げやりに答える若者に、それでも美鈴は、それは違います、と辛抱強く説得を重ねた。

「例え僅かな可能性だとしても岩永さんの……助けに来てくれる人の障害になりそうなことは慎むべきです。それが私達ができる唯一のことなんですから」

(あの人は来ると言ったら絶対に来る。何の手助けもできならならせめて足を引っ張ることだけは避けなくては)

 これについては一歩も引かないという気構えの美鈴に対し、やや気圧された様子の若者が助けを求めるようにチラリと三上の方を見た。すると、そのやり取りを無言で見守っていた三上が若者に向かって漸く口を開いた。

「そのお嬢さんの言う通りだ。リスクは増やすべきじゃない。それが殆ど意味のないことだとしてもな。何、銃の練習などする必要はないさ。じっと待っていればそのうち助けが来ると言うんだからな。せいぜい皆の忍耐力がそれまで保つか見させて貰おうじゃないか」

 そう言われて若者は渋々従う体でその場を離れて行ったが、美鈴の目にはむしろ矛を収めるきっかけができて内心ではホッとしたように見えた。その口論の間も、あるいは美鈴が智哉と無線で交信している時も、弘樹は他の人とは離れた場所に一人で坐り、ずっと無関心を装っていた。以前の弘樹なら美鈴が揉めているのを見過ごすことなどあり得なかっただろう。真っ先に駆け付けて擁護してくれたはずだ。そんな弘樹の変化に美鈴の方もどう声をかけて良いのかわからず、結果そのままになっていた。それとは対照的に、七瀬には奇妙な親近感のようなものを抱き始めていた。智哉との関係は気になるところだが、それさえなければ良い友達になれそうな気がする。今も美鈴の負担を極力減らそうと日奈子と共に進んで手伝いを買って出てくれた。看護師である日奈子の方はここにいない由加里の分まで役に立とうと内心の悲しみを打ち消すように励んでいるのが手に取るように理解できた。

 そんな七瀬と日奈子に美鈴はさりげなく屋上の片隅に呼ばれた。

「美鈴さんの耳に入れておきたいことがあるんだけど、驚かないで聞いて頂戴」

 七瀬が何気ない仕草で顔を近付け、声を潜めて耳打ちする。日奈子はそれを他の避難者の視線から隠すような位置に自然と立った。傍から見れば単なる打ち合わせにしか見えないだろう。そうまでして誰かに悟られたくないことみたいだ。

「あの人達には気を付けた方がいいわ」

 反対側に集まる三上達一行をそれとなく指し示しながら七瀬はそう告げた。

「それってどういう……?」

 確かにあまり近寄りたくない連中ではある。だが、先だっての出来事についてなら、あの程度の非難は覚悟の上だ。何ら心配には及ばない。しかし、七瀬が口にしたのはそれだけではなかった。

「さっきの一件だけど、あの三上って人が治めたみたいになっているじゃない。でも信用しちゃ駄目よ。実は騒ぎの少し前に偶然見ちゃったの。あの人が指示しているところをね。その時は何のことかわからなかったけど、今思うと間違いない。あの人がやらせたのよ」

 それは聞き捨てならないことである。では、あの揉め事はわざとだったのか?

「……でも、どうしてそんな真似を?」

「さあ、そこまでは。もしかしたら美鈴さんじゃまとめ切れないことを見せつけようとしているのかも知れないし、音を上げて頼って来るのを待っているのかも知れないわね」

「そんな……」

 大体が好き好んでこんな役割をしているわけではないのだ。声をかけた手前、素知らぬ顔をできなかっただけである。代わってくれるならどうぞ御勝手にと言いたいところだが、智哉との連絡役は譲る気がない以上そうもいかない。

「このままのさばらせておくのは問題だけど、今追及してもしらばっくれるだけって気がするのよね。暫く様子を見守るしかないけど、用心するのに越したことはないんじゃない」

 結論を導くように日奈子がそう話し、美鈴と七瀬は顔を見合わせて頷いた。こんな時に助けになる仲間がいてくれて、これほど心強く思ったことはない。そのありがたみを噛み締めていると、草臥れた表情の高瀬が歩み寄って来た。三人で話していたのが気になったのか、どうかしたか、と訊いてきた。

 現時点ではあまり大事にしたくないという考えで一致していた美鈴達は、何でもないと曖昧に胡麻化した。それで男には立ち入り辛い話題とでも考えたのか、それ以上高瀬がしつこく詮索してくることはなかった。代わりに別のことを口にした。

「みんな、失っちまったな」

 その呟きを春に向けて準備してきた畑や農作物のことだと解釈した美鈴は、屋上から無残に踏み散らかされたそれらの残骸を見下ろしながら頷いた。

「折角、頑張って耕した畑も苦労して建てたビニールハウスも全部使えなくなってしまいましたね」

 美鈴としては精一杯、高瀬に共感したつもりだった。僅かふた月ほどに過ぎないとはいえ、共に作業をしてきた高瀬の嘆きは充分に理解できる、そう思っていた。だが、彼の言ったことは美鈴の想像とは違っていた。

「そうじゃねえよ。畑やハウスなんて潰れたらまた作り直しゃいいだけだ。けど、死んじまった奴らはどうにもならねえ」

 高瀬のその発言に美鈴はハッとさせられる。あまりに慣れ過ぎて、この数時間のうちに七百人近い人間が死んだという現実感を見失っていたらしい。もちろん、全員が顔見知りというわけではなかったが、幾人かはそれなりに親交のあった者達もいる。友里恵や由加里は言うに及ばず、同じ食糧自給班の仲間や建物に向かう途中でゾンビが現れたと教えてくれた女の子などだ。彼らや彼女らに会うことはもう二度とないのである。そのことを高瀬は言いたかったのだろう。

 もっともその高瀬にしても殊更感傷に耽るというよりは、単にじっとしていられなかっただけのようである。そうなる気持ちは美鈴にもわからなくはない。何もすることがないのが精神的に最も応えるのは経験済みだ。まだ動いていた方が気は紛れる。しかし、今は智哉の言うように脱出に備えて体力を温存すべき時なのだ。その智哉からは数時間置きに無事を確認する定期的な連絡が入るだけで、相変わらず具体的な指示は一切なかった。美鈴達にやれることが何もないのは明白だった。果たしてこの状態があとどれくらい続くのか、それを知る者は誰もいない。


 美鈴からの無線連絡を受けて状況を把握した智哉は、直ちに避難所へ戻ることを決意した。まさかいきなり観光船を使うことになるとは思わなかったが、智哉の予定に反して屋上に逃げ込んだのが二十人以上もいたのでは冷凍車で移動するわけにもいかず、そうするより外に手はなさそうだった。考えようによっては船の準備が間に合って良かったとも言える。ただし、すぐに出港するというわけにもいかなかった。まずは燃料の問題がある。智哉達の操船技術ではスピードを出すのは危険なため、巡航速度を抑えて進むしかないが、その分燃費の悪さを覚悟しなければならない。計算上、満タンにしておけば避難所近くの漁港までなら無給油で辿り着けるはずだが、余裕はないので最悪そこで燃料切れに陥る恐れもある。そうなれば何のために船を使ったかわからない。着いた先の漁港で給油できれば一番だが、その保証もない。途中で給油地を捜しながら行くとしても万一を考えて予備の燃料を携行タンクで積んでいくことにした。これならいざとなれば海上で補給できる。その準備に若干、手間取ったことが出発の遅れた理由の一つ。さらに天候も考慮しなければならなかった。操船に慣れた者にとっては大したことのない風や波でも初心者の智哉達からすれば慎重を期す必要があるからだ。ましてや従来は当たり前であったはずの予報を聞くことはできない。常に天気の変化に気を配り、少しでも海上が荒れそうならすぐに近くの湾岸に退避することを心がけて行くしかない。また海岸に人工的な灯りが消えた現在では、地形レーダーの読み方に慣れていない以上、夜間の航海は極力控えるべきだった。陸地と違い海での経験は乏しく、些細なことが命取りになりかねないのだ。それらのことを考え合わせると、どれほど急いでも到着までに丸一日以上はかかる。天候によってはもっと遅れる可能性も少なくなかった。救いとしては美鈴達が立て籠もる屋上の扉の頑強さなら幾ら足止めを喰らっても破られる心配はまずないことだが、避難している人間の方はそうはいくまい。そもそもそれほどの大人数になるとは想定していなかったので、水も食糧も充分とは言えず、長期に及ぶ避難所生活で弱り切った体力ではどれほど籠城に耐えられるのかも予想が付かなかった。早期に救助できるに越したことはないのである。とはいったものの、今のところ、避難所近くに船を着けてもそこまでどう連れて来るかについては何の妙案も浮かんでこなかった。実際に向こうに行って利用できるものがないか探すしかなさそうだ。

「出航の準備はできたわよ。いつでも出られるわ」

 早朝から智哉が燃料の調達を開始し昼前には準備を整えて操舵席に着いたところで、船体の最終チェックをしていた絵梨香がそう声をかけた。もうすっかり落ち着いた様子で、表面上は元通りに振る舞っている。ただし、あれ以来、船外では片時も銃を手放さなくなった。準備はできたが、このまま出港するとなると問題が一つ残る。ここまで乗って来た冷凍車を放置しなければならないことだ。あとから智哉が回収に来るにしろ、少なくとも当分は使えない。絵梨香には船に残って貰い、美鈴達の救助は智哉一人でやるしかないだろう。

 それを覚悟の上で、もやいを解くよう絵梨香に言って、総トン数十九トンの定期観光船「レインボー丸」を練習通り慎重に智哉は離岸させた。そのまま沖合に出る。途中までは幾度も往復した区域なので、さほど緊張せずに航行することができた。近海に出てからは数時間置きに絵梨香と交代しながら船を進め、初日は夕方近くに風が出てきたこともあり、早めにゾンビが避けられそうな停泊場所を探して船を着ける。建物の少ない海岸沿いではゾンビに出遭う機会は珍しく、油断さえしなければ問題なさそうだった。翌日の朝一番で再び出航し、航海中にはマリーナで給油設備も見つけて無事に燃料補給を行う。幸いこの日は天候にも恵まれて海が荒れることもなく、終始穏やかなベタ凪で、無線連絡を受けてから約四十時間後の昼過ぎには避難所がある半島先端の漁港に到着した。ここから美鈴達がいる休暇村までは凡そ四キロ。その間の移動手段をこれから講じなければならない。

 港に辿り着くと、とりあえず智哉は美鈴に連絡を取ってみた。状況に取り立てて変化はないそうである。船着き場に長く係留し続けると、またゾンビを寄せ付けかねないため、智哉を下ろして船は沖で待機させることにした。上陸した智哉は一旦、偽装用の化学防護服と空気タンクの入った大型ダッフルバッグを港に残して、愛銃のベネリM3だけを肩に掛け、無線機や双眼鏡など最低限の装備だけを携えると歩いて避難所に向かった。敷地の手前五百メートルほどまで接近し、聞いた通り激しい戦闘跡が残る林の中に身を潜め、施設周辺を観察する。屋外だけでもかなりの数のゾンビが確認できた。避難所で犠牲になった者だけでなく、近隣から集まったゾンビも多く含まれているようだ。外からは見えないが、建物内にも相当数がひしめいているものと思われた。当然ながらそれら全てを排除するのは如何な智哉といえども不可能である。

 続いて美鈴達が避難しているはずの屋上を眺めてみると、全員の姿は確認できなかったものの、何人か立ち上がって歩く様子が見て取れた。やはりあそこから連れ出すのは一筋縄ではいきそうにない。

 元々、智哉が考えていた脱出のプランは救助する者に化学防護服を着用させ、縄梯子を使って地上に下ろしたのち、冷凍車に乗せて出て行くというシンプル極まりないものだった。細部は状況に応じて煮詰めるつもりだったが、基本としてはそんな感じだ。対象としていたのは普段行動を共にしている絵梨香を除くと美鈴と加奈と七瀬、他にはせいぜい由加里や日奈子、医者である武藤辺りの誰かがいれば良しとしていたに過ぎない。まずは親しい者を確実に救うことを優先としたためだ。従って防護服も数えるほどしか用意していなかった。これには装備を隠せる場所が限られていたことと、もしも足りなくとも数着程度であればすぐに用意できると考えてのことである。それが二十人分以上ともなれば確保するのも大変ながら届けるのも智哉一人では一苦労だ。その上、冷凍車は置いて来てしまっているので、道路を行く代替の手段も見つけなければならない。唯一、本来の計画よりマシになったと言えば、地上を移動するのが港までの四キロほどと短い距離で済むようになったことくらいであろう。

 現状を自分の目で確認し終えた智哉は、再び港に戻ると、その周辺で使えそうな車両を物色し始めた。条件は最低でも移動中はゾンビの襲撃に耐えられるものでなければならない。その結果、交差点で乗り捨てられていた深あおりダンプと呼ばれる四トン級のダンプトラックに目を付けた。これは土砂等積載禁止車(通称、土砂禁ダンプ)とも呼ばれるもので、その呼び名が示す通り土砂などは運搬できず積載物は飼料や石灰などに限定されているが、それらが飛散するのを防ぐ目的で荷台を取り囲む壁が通常のダンプに比べかなり高くなっているのが特徴だ。智哉が見つけたものでも軽く大人の胸ほどはあるので、これなら走行していればゾンビも容易く荷台に乗り込むことはできまい。四キロ程度の距離なら充分に防ぎ切れると思われた。早速、試乗してみて走行に支障がないことを確認した上で、絵梨香に連絡して船までの移動にはダンプを使うことを告げる。細かい打ち合わせを済ませた後、再度無線で美鈴を呼び出した。

「凡その手筈は整えた。今から迎えに行くから準備をしろ」

「はい。私達は何をしたら良いでしょう?」

「裏庭の真下にダンプを着ける。そうしたら縄梯子を垂らして荷台に下りて来い」

「それだけ……ですか?」

「いや、化学防護服も使う。お前と加奈と七瀬、それから吉野看護師が着ろ。まずはその四人を先に救助する。近くの漁港に船が用意してあるからそこまで連れて行く。船に乗って沖に出てしまえば一先ずは安全だ。残りの者はその後また迎えに来る」

 用意した化学防護服を活かそうと思えばそれしかない。問題は二十キロ以上にもなる防護服を着て縄梯子を下りなければならないことだが、それは四人に頑張って貰う外なかった。

 智哉がそう告げると、無線の向こうで美鈴が戸惑う気配が伝わってきた。全員が一斉に脱出するものと思っていたのだろう。最初は智哉も普通にそう考えたが、可能な限りリスクを回避しようと思えばこの方法が一番との結論に達したのだ。人選はもちろん、智哉が勝手に決めた。当然、反発も予想できたが知ったことではない。案の定、無線の先が騒がしくなったかと思うと、聞いたことのない男の声が話しかけてきた。

「ちょっと待ってくれ。今の提案はこっちとしては承服しかねる。全員を均等に扱って欲しい」

「お前は誰だ? 美鈴はどうした?」

「俺は総務班の森本って者だ。彼女なら隣にいるよ。頼んで変わって貰ったんだ」

「ふん、三上の代打か。本人が出ないのは懸命だな。まあ、どうでもいい。俺が言ったのは提案じゃない。救助の段取りを説明しただけだ。そちらの意見は訊いていない」

 予想通りの反応に智哉は冷たく突き放すようにそう言った。だが、向こうも簡単には折れる気がないらしい。

「そんな乱暴な話が通用するかよ。全員を一度に脱出させるか、防護服を着せた者だけ先に助けるというならその人選はこちらに任せて貰うかの二択だ」

 そう言い出すのではないかと思っていた。もっとも智哉の方に妥協するつもりは一切なく、

「駄目だ。最初に言った四人からだ。それ以外は認めない」

 と言い切った。

「その四人を助けたらあとは見捨てる気じゃないのか? そうじゃないってどう保証する?」

 今の段階では全員を助ける気ではいるが、確かに状況次第では絶対にそうならないとは限らない。ただし、それを馬鹿正直に告白するほど智哉もお人好しではないので、

「信じて貰うしかないな」

 と答えるに留めた。それで納得するとは期待していなかったが。

「無理だ。とても信用できない」

 果たして予期した通りの返事が繰り出された。

「だったらどうするんだ? 俺が迎えに行かなきゃお前達はそこから一歩も動けないんだぞ。こんな話をしている間も陽は傾いていく。暗くなれば救助は明日に持ち越すしかなくなる。その明日も救助に適した天候になるとは限らないんだぞ」

 それは真実だった。特に海が荒れれば船での脱出そのものが困難になるという事態もあり得た。こんな押し問答をしていること自体が自分達の首を絞めているのだ。

(そんなことも理解できないのか)

 さすがに智哉が苛立ちを覚え始めると、ちょっと待ってくれ、と言って暫しの沈黙の後、もう一度無線機から美鈴の声が流れた。

「岩永さん、彼らの意見に従ってください。そうすれば加奈だけは先に防護服を使わせてくれるそうです。私は妹が安全なら後からでも構いません。七瀬さんや吉野さんもそれで良いと言ってくれました」

 どうやら妹を優先することと引き換えに、美鈴から説得させる方針に転換したらしい。それなら智哉も再考せざるを得ないと思ったのだろう。とんだ見込み違いだ。

「そっちの都合は聞いていないと言っただろ。それにはお前の意見も含まれる」

「ええ。私もそう言ったんですけど、信じて貰えなかったみたいで。一応は言われた通りに伝えただけですから、あとは岩永さんが──」

 突然、キャッ、という短い悲鳴が無線を通して聞こえた。続いて慌てた様子の美鈴の声が響く。

「何をするんですか? 止めてください。駄目──」

 そこで通話は途切れる。何らかの事情で無線に出られなくなったようで、呼びかけるも何の応答もない。ジリジリと焦れて待つこと五分。やっと聞き覚えのある声が交信に応じた。

「岩永さん、聞こえているか? こちらは警備班の木村だ。待たせて済まなかった。無線機を落としてしまって直すのに手間取ったんだ。壊れてなきゃいいんだが。それはそうとしてまずいことが起きた。あんたの計画は実行できなくなったよ」

 嫌な予感を覚えつつ、聞こえている、何があったのかと智哉は問い直した。只でさえ予定外の事態が続いているのだ。これ以上、面倒なことになるのは願い下げであるが、どうやらその思いは通じなかったと見える。

「交信を聞いていた生存者の一人が血迷って防護服をナイフで切り裂いた。誰も使えなくなれば全員同時に助けて貰えると思ったらしい。すまない、突然のことで俺達も止めようがなかったよ。今、確認している最中だが、恐らくここにある防護服はもう使えない。最初のプランは諦めてくれ。それに他にもまだ伝えなきゃならないことがある」

 何だ、早く言え、と智哉は胸のざわつきを抑えて訊いた。

「そいつの行動にいち早く気付いた彼女──美鈴さんだったか? あの娘が止めようとして怪我をした」

「何?」

 一瞬、智哉は頭から血の気が引くのがわかった。思いの外、動転していることに気付き、落ち着けと自分に言い聞かせる。声の調子に狼狽が現れないよう注意しながら再び口を開く。

「それでどうなった?」

「怪我は掌を切っただけだから命にかかわるものじゃない。今、手当てを受けているよ。ただ、あの怪我じゃ仮に防護服が無事だったとしてもボンベを背負って縄梯子を下りるのは無理だろうな。それと、この件であんたと話したいという人間がいるんだが替わってもいいか?」

 何となく予想は付いたので、誰とは聞かずに、ああ、と智哉は答えた。

 木村に替わって無線に出たのは智哉が思った通りの人物だった。

「三上だ。私と話すのは不愉快だろうが、一先ず聞いて欲しい。まずは君に謝らせてくれ。この騒動を引き起こしたのは私が連れて来た者なんだ。もちろん、こんなことをするとは思ってもみなかった。誓って言うが、私がやらせたわけじゃない。脱出を妨げるメリットは何もないのだからね。どうやら相当、精神的に参っていたようだ。それに気付けなかったのは私の落ち度には違いない。本当に申し訳なかった。君の計画を台無しにしてしまったことを心より謝罪する」

 それが本心なのかは不明だが、ここで三上を責めても起きてしまったことはもうどうしようもない。とにかく今できるのは状況を整理して、狂った計画をどうにか立て直すことだけだ。

「……そちらの話は了解した。過ぎたことはもういい。そいつから二度と目を離さないでくれ。当然、誰にも近付けさせず武器も持たせるな。言いたいことがそれだけなら木村に戻してくれ」

 僅かな間があって、再び木村が無線に出た。

「話は聞いていたよ。それでこれからどうする?」

 やはり化学防護服はどれも使いものにならなくなったそうだ。木村からさらに詳細な情報を聞くと共に、美鈴とも話して無事を確認した。

「防護服は使えなくとも屋上から縄梯子でダンプの荷台に移るという基本方針は変えようがない。問題はその間、ゾンビをどう近寄らせないかだ」

 外部に空気を洩らさないよう工夫をした化学防護服があればとりあえずその問題はクリアできていたのだが、もう済んだ話だ。恐らく防護服無しではすぐにゾンビは気付いて襲って来るだろう。幾ら荷台を高くした深ダンプといっても停車したままではその全てを退けることはできない。ゾンビを避ける方法が思い浮かんでいないわけではなかったが、過酷過ぎて口にするのは些か憚られた。そんな智哉の一瞬の逡巡を見抜いたかのように、俺が囮になる、と木村が申し出た。

「たぶん、岩永さんもそう考えていたんじゃないか? 防護服を着ていない者の救助には誰かが囮になるしかないって」

 図星であった。ただ、引き受ける者はいないだろうと思っていた。誰がなるかで紛糾するのは目に見えていたので、それに巻き込ませない意味でも美鈴達を先に脱出させる必要があったのだ。

「その役目は俺がやるよ」

「……いいのか? 言うまでもないが損な役回りだぞ。ただ危険というだけじゃない。できるだけ回収するように努めるが、全員に危害が及ぶようなら置いて行くこともあり得る。何なら美鈴を襲った奴に懲罰としてやらせても良いんだぞ」

 智哉にしては珍しく言うつもりのなかった本心まで語った。木村にはそうする必要があると感じたのだ。あんな奴じゃ信用できないだろ? 途中で放り出すに決まっている、木村は苦笑いを浮かべて──無論、無線を通じてなので想像だが──答えた。

 結局、他に良い代案も浮かばず木村の意見を採用するしかなかった。あとは二人で詳細を詰めていく。それは具体的にはこのようなものとなった。まずは木村が本館から張り出すようにして玄関アプローチを覆う庇の上に下り立ち、そこでなるべく多くのゾンビを惹き寄せる。これはただ突っ立っているだけで事足りる。獲物の存在は周囲へ伝播されていくので、放って置いてもゾンビは勝手に集まって来るはずだからだ。庇の高さは優に三メートルは超えており、登る足がかりもないため、下から襲われる可能性はまずないと考えて良いだろう。その間に他の者は屋上から縄梯子を伝ってダンプに乗り移る。全員が移乗後、木村は屋根伝いに走って移動し、正面ゲートへ向かうダンプと合流する。ただし、停車して乗り移る余裕はないことから、並走するダンプの荷台に飛び込まなくてはならない。上手くいったとしても骨折するくらいの覚悟は必要だ。荷台にいる人間にぶつかって怪我をさせる恐れもあるが、それも無事に飛び乗れたらの話である。着地点を見誤って地面に落ちれば、即刻ゾンビに取り囲まれることは言うまでもない。そうなれば見捨てるしかなくなる。また、合流のタイミングが合わないことも考えられたが、その時は無理をせずに一旦、木村を置いてその場を離れ、全員を港に降ろしたのちに再び迎えに行くことが二人の間で取り決められた。

 夕刻までにあまり時間はなくなっていたが、明日になれば天候がどう変わっているかわからない状況では波の穏やかな今日中に多少無理をしてでも成し遂げるべきだった。準備に充分な時間がかけられなかったことに一抹の不安を覚えないでもなかったが、それを頭から振り払い、即時の決行を絵梨香にも伝える。智哉は一応、ダミーの防護服を身に着けたが、状況次第ではバレても構わない覚悟でいつでも脱ぎ捨てられるようにした。ダンプの運転感覚はすっかり扱いが板に付いた冷凍車とさほど変わらないことは先程の試走で確認済みである。荷台を操作する必要もないので、よくわからないレバーやボタンは無視すれば良いだけだ。燃料も入っていることを確認して、智哉はダンプを発進させた。海岸沿いの道路から休暇村に続く山道へと乗り入れる。所々でゾンビを見かけるが、通行の邪魔にならない限りは放って置く。下手に跳ねると飛び散った肉片や体液がフロントのラジエターグリルを詰まらせてオーバーヒートの原因になりかねないためだ。順調に山道を走り抜け、正面ゲートが見えるところまで辿り着く。普段ならゲートは閉じられているが、この時は誰かが敷地外に脱出した名残なのだろう、開いたままになっていて難なく通過した。敷地に入ってからはさすがにゾンビを避けて通るのは難しくなった。無理をしてハンドル操作を誤るよりはマシだろうとの判断で、構わず跳ねながら突き進む。転がったゾンビを車輪に巻き込むたびに、腐ったトマトを踏み潰すような不快な響きが耳朶を打つが、もはやそれにも慣れた。恐らくこの光景を屋上から目にしている人々には別の映り方をしているだろうが、今の智哉にとって地面に撒き散らされた内臓や脂肪はタイヤをスリップさせないかを心配させるだけの単なる障害に過ぎなかった。

 そのような用心深さの甲斐もあって、智哉は何事もなく裏庭にダンプを滑り込ませることができた。当然、周囲のゾンビが襲って来る気配は今のところない。美鈴以外には化学防護服の効果と誤認されているであろう特異体質のおかげだ。裏庭ではバックで切り返し建物の端ギリギリまで荷台を寄せて停車する。ここまではほぼ予定通りと言える。胸に固定した通信端末のプレストークボタンを防護服の分厚い手袋越しに押して屋上に呼びかけた。

「こっちは配置に着いた。そちらの用意が良ければ始めてくれ」

 了解、開始する、との返事を聞いて、智哉はダンプの運転席を降りると、荷台との隙間にある備え付けのラダーを使い、化学防護服姿のまま苦労してキャビンの屋根に上がった。そこで縄梯子を下りて来る生存者を見守りつつ近付くゾンビがあれば散弾銃で撃退するつもりだった。囮役の木村がゾンビを惹き寄せるのは正面側なので、ここからはまったく見えない。無線により逐一報告される内容だけが状況を知る唯一の手掛かりだ。それを担当する井上から木村が縄梯子を使って玄関アプローチの庇に下りた旨が伝えられる。一度、縄梯子は引き上げられて再度裏庭に垂らされる段取りになっていた。よって全員が下りてしまえば木村が屋上に戻る手段はなくなる。誰かが居残り縄梯子を付け替えて木村が戻るのを待つということも考えられなくはなかったが、それには皆を危険に晒す必要があり却下せざるを得なかった。やはり木村には自力で合流して貰う外ない。

 あとは木村がどれほどのゾンビを集められるかが鍵だったが、暫く静観していると、裏庭のゾンビが一斉に移動し始めた。獲物の存在を嗅ぎ取った証である興奮状態を示して正面玄関方向へ突進して行く。囮作戦は上手くいったらしい。さらに五分ほど待って周囲のゾンビが完全にいなくなったのを見計らってから智哉は無線に告げた。

「いいぞ。こちらは上手くいきそうだ、木村の方はどうか?」

「思った以上にゾンビが集まって来ています。まるで人気アーティストの野外フェス会場みたいですよ。本当にこれで木村さんは逃げ出せるんでしょうか?」

「先のことを今考えても仕方がない。やれることを一つずつこなす。わかっているだろうが、途中でゾンビが戻って来たらそこで一旦救助は中止だ。乗り移れた者だけで一先ず脱出するからな。まずは怪我人からだ」

 それを合図に、屋上から縄梯子が垂らされる。荷台に接地したのを確認すると、長野の手を借りた美鈴が淵から身を乗り出し始めた。辛うじて梯子に取り付くが、掌を切って満足に握れないらしく肘をかけるようにしてゆっくりと下って来る。下から見ていてもハラハラする危なっかしさだ。それでも何とか荷台に降り立つと、振り向いて智哉と視線を交わす。右手に巻いた包帯には薄っすらと血が滲んでいたが、何でもないというように左手を振って見せた。それを確かめたところで智哉は再び頭上に目を向ける。続いて妹の加奈が下りて来ようとしていた。こちらは姉と違い器用に縄梯子に掴まりながら、危なげなく着地した。荷台で姉妹が無事を喜び合っている間にも続々と生存者達が梯子を伝って降下して来る。七瀬や日奈子の他に高瀬や杉村弘樹といった見知った顔もあったが、無論のんびりと会話を交わす余裕などない。そうして残すは殿しんがりを買って出た長野と井上、それと三上達のグループだけになった。三上達は防護服を使えなくした責任から、わざわざ最後で良いと申し出ていたのだ。その中でもやはり最初に下りて来たのは三上だった。奴が意外にも軽快な動作で荷台に降り立ったところで、井上から無線連絡が入った。

「まずいです。ゾンビが集まり過ぎていて木村さんが──」

 そこで一度、無線が途切れる。

「どうした? 何があった?」

 再度繋がり聞けば玄関アプローチ付近には予想を超えるゾンビが集まっていて、尚も増え続けていると言う。現段階では屋根まで上がられそうな雰囲気はないが、押し合う圧力に支柱が巻き込まれて庇全体が揺れ始めているらしい。その激しさは徐々に増して、もはや上に乗る木村が立っていられないほどだそうだ。庇が倒壊するのも時間の問題だろうと井上は報告した。智哉はこのまま救助を続行するか、予定を変更して木村を屋上に戻すべきか迷った。屋上に戻した場合は直ちにこの場を離れないと、今荷台にいる者達の身に危機が迫ることになる。その上、救助できた者を無事に港に送り続けた後、屋上に取り残された者を再び迎えに来るとしてもその時はもう囮作戦は使えない。押し寄せるゾンビの群れを蹴散らしつつ強引に突破を図るしかないだろう。それでも最終的には木村を見殺しにできないということで、智哉は井上に梯子を架け替えるよう指示しようとしたその矢先、俺が行く、と言う声がレシーバーから告げられた。

「こちら長野。岩永さんはそのまま救助を続けてくれ。木村さんは俺が迎えに行く」

「迎えに行くとはどうする気だ? 皆を危険な目に遭わせるようなことなら許可できないぞ」

「わかっている。説明は下に着いてからする。悪いが先に降ろさせて貰う」

 そう言ったかと思うと、長野はさすがの身軽さで先に下り始めていた三上グループの若者を跨ぐようにして、あっという間に荷台へ滑り降りて来た。そして智哉の足許まで来ると、簡潔に説明し始める。

「あそこに放置してある偵察用オートバイが見えるだろ? あれを使って木村さんからゾンビの注意を逸らしてみる。それで上手くいけば木村さんを乗せて脱出する。それが駄目でもゾンビの圧力が分散されれば少しは揺れも収まって時間が稼げるはずだ」

 長野は裏庭の片隅に置かれた自衛隊のオフロードバイクを指差した。全体がオリーブドラブ色で塗られた、車種は恐らくカワサキのKLX250。

「乗れるのか?」

 初耳だった智哉が思わずそう訊いた。長野は若干誇らしげに、俺は元々情報小隊にいたんだ、と言った。

「普通科の中でも偵察が主な任務の隊だ。バイクでの斥候にも慣れている。任せてくれ」

 情報小隊がどういうものか智哉は知らなかったが、長野がバイクの扱いに自信があるのはわかった。ここで議論していても時間を浪費するだけなので、智哉は彼の判断に任せることにした。

 軽い身のこなしで荷台を下りた長野は素早くオートバイに駆け寄ると、何やら手許で作業をし始めた。キーシリンダーを壊して鍵無しでエンジンを始動するつもりだろうと智哉は推測した。キーを抜いただけのハンドルロックもされていない状態だったので、程なくしてその試みは成功する。エンジンの調子を確かめるように二、三度軽くアクセルを吹かすと、智哉に自慢のテクニックを披露して安心させるようとでもいうのか、華麗なアクセルターンを決めて瞬く間に飛び出して行った。

 その後も三上の仲間達が次々と下りて来る中、一番後に梯子を伝って来たのが防護服を使えなくして美鈴に怪我を負わせた張本人らしい。その行動から粗暴な姿を想像していたが、どちらかというと真面目で神経質そうな若者に見える。智哉の方を一度も顧みることなく、他の仲間達に取り囲まれるようにして荷台の片隅に納まった。

 最後の井上が縄梯子に掴まるのを見て、智哉はキャビンの屋根から下り、運転席に舞い戻った。いつでも発進できるようにエンジンをかけて、井上の到着を待つ。約十秒後に井上の着地をサイドミラー越しに見届けた智哉は、木村に発車を知らせるべくクラクションを短く三度鳴らした。それが済むと急いで走り出したい衝動を抑え、ここは慎重にスタートさせる。荷台の乗り心地を検証している暇がなかったため、荷物扱いされた人々がどうなるかわからなかった故だが、そうした配慮にも関わらず背後から幾つかの悲鳴が洩れ聞こえた。どうやら掴まるものが何もない荷台で立っているのは相当に困難なようだ。しかし、それに気付かう余裕は智哉の方でもすぐに無くなった。裏庭を出て次の角を曲がった途端、目の前にゾンビが飛び出して来る。咄嗟のことで避けることも叶わず跳ね飛ばすしかなかったのだが、それでまた新たな悲鳴が上がる。そこからは同じことの繰り返しだった。荷台の生存者達を嗅ぎ付けて次々と群がるゾンビを押し退けながら進むが、ダンプトラックといえども元は人間だったものにぶつかれば衝撃を感じないわけにはいかない。少しでも気を抜こうものなら即刻制御を失いかねない危うい状況が続く。いつしか荷台に人を乗せているという意識は薄れ、ハンドル捌きのみに集中していく。やがて正面玄関が視界に入ると、智哉は思わず目を奪われた。そこには無数と思えるほどのゾンビがアプローチ付近を中心に辺り一帯を埋め尽くしていた。さながら蠢く絨毯だ。さらにその上空には不安定に揺れる庇と、そこから転げ落ちないよう必死でしがみ付く木村の姿があった。そのゾンビの外縁では長野が巧みにバイクを操り、何とか自分に注意を向けさせようと無謀な挑発を繰り返している。手放しで立ち乗りし、疾走しながら射撃までしてのける技量は同じバイク乗りである智哉も舌を巻くしかない。長野の狙いはアプローチ付近からゾンビを引き離し、木村に脱出の機会を与えることにあるのだろう。が、如何せん数が多過ぎた。圧倒的な群れの前では焼け石に水という状態である。それどころか、長野自身が次第に逃げ回るコースを失っていく。無論、その様子を木村もただ黙って眺めていたわけではなかった。どの途、当初の目論見は外れ、その場に留まり続けることは死刑宣告を受けるに等しい。ならばと一か八かで離脱する道を選んだに違いなく、揺れが軽減した一瞬のタイミングを見計らい、建物に沿って備え付けられた別の庇に飛び移るのに成功した。その屋根伝いに移動して、ゾンビの密集率が低い場所を見つけ出し飛び降りる気のようだ。ところが今度は二階の窓に近付き過ぎたせいで、建物内からゾンビが湧き出して来る。既に建物から離れてしまったダンプに木村が追いつく可能性はゼロだ。あとは長野に任せるしかない。それがわかっているからこそ、長野も危険を承知で木村の追従を止めないのだろう。だが、このままでは木村が逃げ切れないと悟ったのか、突如、長野がバイクを急加速させると、今までにない動きを見せた。群れの端ギリギリを掠めるようにバイクを走らせたのだ。ほんの少し手を伸ばせば捕まえられる距離の獲物にゾンビが気を取られた瞬間、集団に僅かな綻びが生じる。その束の間のタイミングを見逃すことなく木村が地面に飛び降りた。二転三転、砂塵を巻き上げながら転がるもそれは着地の衝撃を和らげるためのものだったらしく即座に立ち上がると、ちょうど真横に位置することになったゾンビの顎に強化プラスチック製の銃床による一撃を加える。もんどり打って倒れるゾンビを尻目に駆け出そうとするが、その前方に別のゾンビが立ち塞がる。そこへ長野がバイクの両輪をスライドさせながら横倒しに突っ込んで来る。そいつらを跳ね飛ばすと、素早くバイクを立て直し木村を後部シートに乗せた。それら一連の行動をサイドミラー越しに全て見ていた智哉は、二人が合流できたことにホッと胸を撫で下ろす。前方へ意識を戻そうとした次の瞬間、サイドミラーを横切るように灰色の影が走ったように見えた。それが一体のゾンビだと気付くより早く、影の突進を受けた長野と木村はバイクから放り出され、無情にも地面に転がる。こうなってしまえば二人に成す術はない。積み重ねてきた訓練の成果も、華麗なバイクテクニックも、一瞬で価値を失った。夥しい数のゾンビが両者に殺到するのが視界の片隅に映った。その姿は雪崩に巻き込まれでもしたように瞬く間に人垣の中へ消え去った。

 茫然としている暇もなく、目前に正面ゲートが迫って来ていた。智哉は一度だけ頭を振ると、今し方見た木村達の光景は頭の隅に遠ざけた。サイドミラーから視線も外す。すると、バイクのエンジン音が途切れたことを不審に思ったらしい井上から通信が入る。

「えっと、井上です。ここからじゃ外の様子は見えないんですが、木村さん達はどうなりましたか?」

 二人共駄目だった、と智哉は感情を交えずに答えた。今はそう言うしかない。荷台で井上が絶句したのがわかる。この交信はレインボー丸にも届いているはずなので、絵梨香も耳にしたに違いない。元部下である二人の死をどう受け取ったのか、それを推し量る時間もないまま同じチャンネル周波数を使って彼女を呼び出した。

「レインボー丸、あと五分で港に到着する。迎えの準備を頼む」

「……ザッ……こちらレインボー、了解。所定の場所で待つ」

 少なくとも応答する声のトーンに動揺は感じられない。恐らく必死で自制しているのだろう。何しろ、この先には最後の難関となる仕掛けが待ち受けている。幾ら港に到着しようと、周囲をゾンビに取り囲まれていては船に乗り移ることはできない。仕掛けはそれを可能にするためのものだ。ただし、それにはまずもって智哉と絵梨香のタイミングを合わせることが重要となる。その上、一度もテストしていないぶっつけ本番だが致し方ない。

 ワインディングが続く峠の坂道を質量の大きなダンプで下るのはかなりの冷や汗ものだったが、何とか無事海岸線の幹線道路に出ると、そこからは思い切って速度を上げた。それでもゾンビはそこかしこから出没する。海岸に沿って大きく回り込まなければならないダンプに対し、ゾンビは林や民家を突っ切ってほぼ直線で走ってくるため、簡単に追いつかれてしまうのだ。この状況はたぶん港まで変わらない。そこで智哉は漁港の船着き場を目指すのではなく、その手前の防波堤に向かっている。そこが智哉の選んだ最終目的地だった。防波堤はコンクリートの堤体に高さ一・五メートルほどのパラペットと呼ばれる突起部と、ダンプの車幅ギリギリの通路が沖合いに向けて二百メートルほど突き出た形だ。狭いとはいえ真っ直ぐなので、全速で飛ばしてゾンビを引き離すには最適のコースと考えてのことだった。無論、船は先端に待機させる。それで乗り込む時間を稼ごうというのが智哉の企図するところだ。

 もっともこれまで散々な想定外に見舞われてきた智哉である。今度も目論見通りにいくとはあまり期待していなかった。ただ、ここまで来て引き返すわけにもいかず、成るように成れと開き直る外ないのが実情と言えた。

「もうすぐ到着する。降りる準備をしておけ」

 無線と窓を開けた直接の掛け声の両方で荷台に知らせながら智哉も腹を括る。だが、そんな決意に水を差すかのように、防波堤に侵入する直前でダンプを停車させざるを得なかった。予定では突端で待機しているべきレインボー丸が、未だに船を寄せ切れずにいたのだ。どうやら本来、船を着ける場所ではない堤防の先端付近には見た目ではわからない複雑な潮の流れがあるらしく、操船に不慣れな絵梨香の腕では近寄っては押し戻されてを繰り返す羽目になっている。

(まずいぞ。あんな不安定じゃ乗り移れない)

 無線で絵梨香に呼びかけてみるが、応答はない。一人での操船に手一杯で応える余裕がないのだろう。智哉はどうするか迷った。一度、防波堤に突っ込んでしまえば方向転換は不可能で事実上、後戻りはできなくなる。合流地点を変更するとしたら今しかない。しかし、躊躇する時間さえ残されていなかった。

「岩永さん、やばいです。後ろからゾンビが迫って来ている」

 荷台から後方を覗き見でもしたのだろう、井上が切羽詰まった口調で知らせてくる。智哉は迷いを断ち切り、再びアクセルを踏み込んだ。何かしらの勝算があってのことではない。もはや一秒たりともこの場に留まっていられなかったからで、追い立てられるようにして入口を塞ぐフェンスを押し倒し防波堤に突入する。こうなれば絵梨香の操船技術に賭けるしかない。そう考えて思い切り加速しかけたその時──。

「待って、弘樹。何をするつもりなの?」

 開け放したサイドウインドウから海風に乗って確かに美鈴の声がそう聞こえた。しかし、何事か確かめている余裕はない。無視して走り続けていると、それまで死角になっていた後方がサイドミラーに映し出され、智哉は何が起きたかを悟った。コンクリートブロック上に誰かか倒れ込んでいる。よろよろと立ち上がりかけた顔を見て、それが美鈴を怪我させた若者だと気付く。足を挫くか骨折でもした様子で何とか起き上がりはしたものの、片足を引きずっている。それでも懸命に前方へ手を伸ばして必死で追いすがろうとしていた。その後ろを容赦ない勢いでゾンビが差し迫る。思わずアクセルを緩ませかけた途端、停まるな! という鋭い声が背後から浴びせられた。振り返って確認するまでもない。杉村弘樹のもので間違いなかった。幾ら急発進したとはいえ、自分の胸ほどの高さがある荷台から若者が偶然に落ちたとは考えにくく、誰かに突き落とされたとみるのが妥当だろう。それに加えて先程の美鈴の言葉。やったのが杉村弘樹であるのは明らかだ。理由も容易に想像が付く。恐らくこのままではゾンビに追いつかれると思い、時間稼ぎをしようと考えてのことに相違ない。その生贄として美鈴を傷つけたあの若者を選んだ。杉村弘樹とすれば当然の選択だったのだろう。それが明確な殺意によるものなのか、止むに止まれぬ考えによってのことだったのかは現時点では知りようがない。どちらにせよ、彼を救う手段がもう残されていないことだけは確かだった。引き返すことはもちろん、立ち止まることも許されない。智哉は全ての事情を鑑みて非情に徹することにした。再び加速し始めたのとほぼ同時に、若者の絶叫が防波堤に木霊する。

 杉村弘樹の所業はさておき、若者の犠牲により数十秒は時間が稼げたことは間違いない。若者に群がるゾンビを置いて、ダンプは防波堤の先端まで辿り着く。ズズッとタイヤを滑らせながら海中に落ちる手前数十センチで急停車させたダンプから飛び降りると、その場で邪魔な化学防護服と呼吸器を脱ぎ捨てた。これだけ狭い範囲に寄り集まっていれば、誰が狙われているかなど見分けが付かないだろうと考えてのことだ。身軽になったところで後ろに回って荷台のテールゲートを開いた。真っ先に顔面を蒼白にして口許を手で覆う美鈴の姿が目に入った。その顔色は恐らく荷台で揺られたせいばかりではないはずだ。肝心の杉村弘樹の方は自分の両手をじっと見詰めて周囲に目を向けようともしない。とりあえず他の者に危害を加える気配はなさそうなので詮議は後回しにして、美鈴達に手を貸し地面に降り立たせる。他でも同様に先に降りた者が続く者を手助けしたりして、杉村弘樹を含む全員が降車した。だが、その先は行き止まりだった。ダンプの前方はプツリと海上で途切れている。船はまだそこから十メートルほど先の波間を漂ったままだ。二階のブリッジに見える絵梨香の表情はきつく唇を噛み締め、必死の形相になっていた。何とか船を近付けようとしているが、いつの間にか風も出て来て波も荒くなっている。しかも、これまで練習してきた浮き桟橋と違い海底に固定された防波堤では僅かな接触でも船体を大きく傷つける恐れがあるだけに、一層慎重にならざるを得ないのだ。この状況では声をかけても気を逸らさせるだけだろうと思い、無言で眺めるに留めた。その顔に岸壁に打ち当たって跳ねた飛沫が容赦なく降りかかるも気にしていられない。やがて、来た方向を振り返ると、若者が落ちた場所を中心に二十体ほどのゾンビが群れ集まっているのが見える。距離は防波堤の中間付近で百メートルほど。その後方からも更なるゾンビが押し寄せて来るのが否が応でも目に入った。

「畜生、何をもたもたしてやがる」

 誰かの罵声が響く。すると、それがきっかけだったかのように、若者に群がり今までこちらを見向きもしなかったゾンビの一体が顔を上げて智哉達の方を眺めた。明らかに新たな獲物を認識したことが伝わる。それに釣られて他のゾンビまで一斉に向き直った。

「岩永さん、海に飛び込もう」

 堪え切れなくなったように井上がそう言うが、智哉は首を横に振った。

「駄目だ。自力じゃ船には上がれない。絵梨香は操船に手一杯で、他には誰も乗っていないんだ。それに今、飛び込んだら船と防波堤の間に挟まれて押し潰されるぞ。運良くそれを免れたとしてもゾンビが海に飛び込んできたら組み付かれてお終いだ」

 じゃあ、どうすれば、と言う井上の会話を途中で遮って、智哉は素早くチャージングハンドルを引くとベネリM3を視線の高さに構えた。立ち上がったゾンビ達がこちらに駆け寄って来るのが見えたからだ。慌てて井上も隣に並んで八九式小銃をそちらに向ける。装填しているのは比較的長距離向きのスラッグ弾とはいえ、散弾銃の射程にはまだ遠かったので、任せていいか、と構えを解かずに智哉が訊くと、了解です、と井上は請け負った。直後に乾いた銃声が轟き、仰け反るようにして先頭のゾンビが倒れた。当然ながら他のゾンビ達がそれに怯んだ様子はない。三上達のグループも前に出て手にした銃で各々射撃を始めるが、正確に頭部を捉えているのは殆どが井上の放ったものだ。その井上も三発に一発は致命傷を外す。智哉はそうして弾雨を抜けて散弾銃の射程内に入ったゾンビを狙い撃つように努めた。だが、何とか撃退できていたのは初めのうちだけで、リロードします! と井上が叫んで弾倉を交換している僅かな隙に、ゾンビ共は一気に距離を詰めてくる。智哉もマガジンチューブ内の七発を全て撃ち尽くし、あとは排莢口から一発ずつ装填しながらの射撃でペースが格段に落ちる。遂には二十メートルほどまで接近を許したことで、三上グループがじりじりと後退し始めた。といっても下がったところで行き場はないのだが。一瞬、船に視線を投げかけた智哉は、防波堤まで五メートルほどまで迫っているのを見て、ここしかないと踏み、無線の通話ボタンをオンにすると、ありったけの勢いを込めて絵梨香に向かって叫んだ。

「壊れてもいい。ぶつけるつもりで思い切り突っ込ませろ」

 船の側面には未熟な智哉達の腕前をカヴァーする目的で、わざわざ他船から取り外した緩衝材をこれでもかと言うほど取り付けてある。だからといって過信はできないが、今はそれが衝撃を抑えてくれると信じるしかない。ひと際エンジン音が高くなったかと思うと、智哉の指示に従い絵梨香がここぞとばかりに船を突進させて来た。先端付近に身を寄せ合っていた美鈴達が慌てて飛び退くほどの勢いで、岸壁に側面を擦り付けながら前進する。ガラスをコンクリートの塊で引っ掻くようなけたたましい音がして、緩衝材の幾つかが目の前で弾け飛んだ。それでも何とか接岸することができたようだ。今の衝撃で船体にダメージがないことを祈りつつ、智哉は直ちに乗船するよう指示した。強引に船を押し付けていないとすぐに防波堤から離れて行ってしまうのだろう。生存者が次々と乗り込んで行く間も船体が軋む音は絶えず続いていた。やがて智哉と井上を残し、最後の一人となった杉村弘樹が飛び移ったところで、一段と高い波がやって来た。それに煽られて船が再び流される。瞬く間に一メートル近い間隔が防波堤との間に開いて、尚も離れようとしていた。

「先に行ってください!」

 隣で井上がそう叫び、智哉は自分がゾンビに襲われないと告げるのももどかしく、無言で身を翻すと防波堤の淵に駆け寄った。そのままの勢いで思い切ってジャンプし、際どくフォアデッキに転がり込む。着地の際、どこかにぶつけたらしく肩に鈍い痛みを覚えたが構わず立ち上がると、井上を振り返った。井上もこちらに駆け出したところだった。その僅か数十センチ向こうにはゾンビがいる。それを振り切るように力強い走りで一歩二歩足を踏み出し、智哉がしたように岸壁の端ギリギリで踏み切ろうとしたまさにその時、再び大波が船を攫って大きく傾かせた。甲板上の智哉が思わずよろけ、何人かが盛大に尻餅をついて転倒する中──。

 ゴツン。重い木槌で殴られたような低く鈍い音が響いた。本来なら着地する場所にあるはずだった甲板が急に跳ね上がったことで、井上は壁のように立ち塞がった船腹に顔面から思い切り突っ込む羽目になったのだ。その結果、ピンポン玉のように弾かれて落水する。慌ててデッキから身を乗り出し海面を覗き込んだ智哉は、恐らく折れたであろう鼻から血を噴き出して気を失い、今にも沈んでいきそうな井上を見つける。だが、助けに飛び込む間もなく、防波堤から次々とゾンビが海面に躍り出て、そのうちの何体かが井上に取り付いた。ゾンビに抱き付かれるようにして井上は海中へと没していく。その様子を智哉は成す術もなく見送るしかなかった。その間にも船は岸壁を離れ沖へ沖へと押し出されていき、デッキに乗り移ろうというゾンビの手を辛うじてすり抜けた。操船する絵梨香にも井上を救うのはもはや手遅れとわかったようだ。智哉が命じるまでもなく、そのままゆっくりと後進を始める。舳先から波に混じって白い航跡が引かれていくのを智哉はぼんやりと見守った。それが続いて行く先を今の己が知る由はない。乾いた双眸に映るのは、どこまでも続く蒼い溟海だ。それはこれまで智哉が見た如何なる水面より不透明さを感じさせた。


第三部〈避難篇〉終わり 第四部〈復活篇〉へ続く

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