12 失楽園(パラダイス・ロスト)
智哉達が操船技術の習得を目指して港を訪れたちょうどその頃、避難所ではある報告が警備班班長の小野寺と、同副班長の植松元三等陸尉の下にもたらされていた。
「何? 吉岡達がゾンビを引き連れて戻って来ただと?」
そう言ったのは年下ではあるが警備の実務を取り仕切る植松の方だ。年長者で他班との調整や渉外役を主にこなしている小野寺は、無線機のスピーカーから伝えられた報告を聞くなり、読んでいた雑誌を放り出して腕組みをしたままじっと黙り込む。
「どういうことだ? 落ち着いてわかるように話せ」
焦った様子で事態を伝えようとする監視係に対して、植松は努めて冷静な声でそう告げた。その報告によると、明け方になって陽が昇り始めたところで麓からこちらを目指してやって来るゾンビの一団を発見したらしい。数は凡そ四、五十体。その先頭に立つのが約二週間前、調達に出たきり行方不明となり、のちに裏切りが発覚した吉岡ら元遠征組の面々だそうだ。訊くまでもないことだったが念のために確認すると、やはり全員がゾンビになっていると言う。
「結局、やられたのか。愚かな連中だ。それにしても今頃になって里心が付いて戻って来るとはな。そういう習性があるのは知っていたが、他のゾンビが一緒というのはどういうわけだ? そんな話は聞いてないぞ」
その植松の言葉に、無言で報告を聞いていた小野寺が漸く腕組みを解いて言った。
「詮索は後回しだ、副班長。急いで対策を講じてくれ。現場の指揮は任せる。私は市長に報告して、他の班と協力しながら避難者の安全確保に当たる」
「了解しました」
それだけの会話を交わすと、二人共慌ただしく行動を開始した。
まず植松はシフト外で待機中だった者を含め、警備班全員に緊急招集を命じた。完全武装の上、予め定められていた行動計画に基づき各自を持ち場に着かせる。監視係からの連絡によれば、ゾンビの集団は正面ゲートまで約一キロほどの距離まで迫って来ているとのこと。今のところ、まだのんびりと歩いている最中だが、接近して敷地内の人間に気付けば一斉に駆け出すに違いない。麓からの山道を真っ直ぐにこちら目指して上がって来ているということで、到達までの猶予は十分ほどしかないだろう。その間に迎撃態勢を整える必要があったが、日頃の訓練通りにやれば充分に間に合う時間だ。また、
「ハンマー(L16の愛称)を用意しろ」
近くにいた元自衛官の部下にそう伝える。さすがに後から加入した民間人に迫撃砲の訓練までは施していないので、彼らには砲撃を掻い潜って接近するゾンビを狙い撃つよう命じた。
暫くして照準器を覗き込んでいた部下から「準備よし」の声が掛かる。植松は直ちに砲撃を始めるように指示した。「半装填」の合図で弾薬手から信管を取り付けた砲弾を受け取った装填手が両手でそれを保持しながら斜めに立てかけられた迫撃砲の砲口に上から半分ほどを挿し入れる。
「半装填よし」
砲撃を指揮する部下の「よーい、撃て」の号令で装填手は砲弾を手放し、発射の衝撃を避けるために素早く背を向けた。支えがなくなり、自由落下の法則で筒内を滑り落ちた砲弾は、底板にぶつかると同時に尾部に仕込まれた装薬を爆発させ、噴出した圧力によって一気に押し出されると目標地点に運ばれていく。
最初の一撃は集団の左側の林の中にやや逸れたが、それを参考にして方向と角度が修正され、二撃目からは狙い通りに一群の先頭辺りに落ちて、真っ先に吉岡を吹き飛ばした。その様子を見た民間人の班員達から「すげぇ」の声が上がる。ただし、それをきっかけにゾンビ達も一斉にこちらに向けて疾走し出した。だが想定内の反応だ。待ちかねたように周囲から盛大に銃声が響き始めた。
こうして始まったこの避難所開設以来初の大規模な戦闘は、守備側がありったけの火力を出し惜しみすることなく投じた甲斐があって、智哉の知らないうちに僅か二十分足らずの間で呆気なく終了した。結果だけ見れば守備側の圧勝である。しかし、貴重な弾薬を多量に消費した挙句、それが新たな悲劇の幕開けになろうとはこの時まだ誰も予想していなかった──。
道路脇の木立の間を二人組の若者が小走りで駆け抜けて行く。どちらもまだ二十代前半とおぼしき年齢だ。微かにあどけなさが残る表情には、緊張と今し方経験したばかりの戦闘の余韻が昂揚感となって現れていた。その上気した顔とは裏腹に、異臭漂う林の奥深くに進むに連れ、視界に映る光景は次第に抉られた地面からプスプスと煙が立ち上るような戦闘の生々しさを物語る様子へと変化していく。
「おい。ビビッて貴重な燃料を零すんじゃねえぞ」
先を行く、言葉遣いからして恐らく先輩であろう若者が、もう一人の若者に向かってそう声をかけた。二人は重さにして約三・五キロの八九式小銃を肩にかけ、手には二十リットル入りのガソリン携行缶を提げている。先輩としては不慣れな後輩を気遣ったつもりだろうが、声をかけられた側の若者は苛立ちげにこっそりと舌打ちした。同い年でありながら少しばかり先に警備班に入ったからといって、何かと先輩風を吹かせるこの男が気に入らなかったのである。声にもその感情が滲む。
「わかってますよ。いちいち言われなくたって」
先導する若者は、年が一緒とはいえ後から入った後輩のこの態度に一瞬ムッとしかけたが、ここは先輩としての度量の大きさを示そうと何とか口論を思い留まった。第一、今はそんなことで言い争っている場合ではないのだ。一刻も早く死体を処理してフェンスの内側に戻らなければ自分達の身も危うい。ここでもたついている間に万一新たなゾンビに遭遇でもすれば、疲れ知らずでいつまでも全力疾走し続ける奴らを振り切るのは途轍もなく困難だ。それがわからぬほど背後の若者が愚かでないことに期待する外なかった。
そうこうしているうちに二人は避難所から八百メートルほど離れた目的の場所に到達し、そこからは互いにひと言も口を利くことなく作業を開始した。これほど安全地帯を遠ざかるのはどちらも避難して来て以来初めてである。作業そのものはゾンビの死体を見つけ、ガソリンを振りかけて焼き払うというだけの単純なものだった。ただし、時間がかかるほど他からゾンビを引き寄せることになるので手早く済ませなければならないのはもちろんだが、かといって死体の一部でも残せばやはりゾンビを招く原因になるため丁寧さも必要となる。どちらも疎かにはできない。幸い、林の中に立ち上がる者がいないことは観測係が確認している。それでも稀に下半身を失ったまま地面を這いずるゾンビに出喰わしたりするので気は抜けないが、その時は習った通りに手持ちの銃で落ち着いて対処すれば良いだけだ。時折聞こえる銃声は、それを誰かが実行した合図であると共に、立ち込める煙で視界が遮られ姿が見えない中でも同様の作業をしている者が他にもいることの証明でもあった。
若者二人も他の組に負けじと死体を発見次第、次々と火にかけていく。中でも一刻も早く戻りたいという気持ちが先走り過ぎて作業を急いだせいか、先輩である若者はいつの間にか後輩の姿を見失っていた。そこでふと不安がよぎる。もし後輩が何らかのアクシデントで感染すれば真っ先に狙われるのは自分だということに遅ればせながら気付いたのだ。二人一組にしているのは何も助け合うばかりが目的ではなく、相互に監視するという意図も秘められているのではないかと悟った。だとすれば、一時でも目を離すのはまずい気がする。そう考え、手を休めて周囲を見回す。少し離れたところにぼんやりと動く人影を見つけたことで安堵した若者は一瞬気を抜いた。俺から離れるな、と釘を刺しておかなければなどと考えつつ、その影に向かい一歩踏み出そうとした瞬間、頭上から何かが落ちて来て若者の肩にぶつかった。驚いて反射的に振り払おうとするが、若者の肩にへばり付いて離れずぶら下がったそれは最初何かの肉の塊のように見え、よく目を凝らすと胸から下と顔の半分を失い、辛うじて右手と首が繋がっているだけのゾンビだとわかった。腹から垂れて地面を引きずる腸が巨大な蚯蚓を連想させる。それでもゾンビは生きていた。生きていたという表現は適切でないかも知れないが、少なくとも今、若者にそれを考える余裕はなく、咄嗟にそう思うので精一杯だった。恐らくは爆風で身を引き裂かれて、上半身だけが木の枝に引っかかっていたのだろう。そこへ若者が通りかかり、動いた拍子に枝から外れたに違いない。そいつが偶然肩に乗って、四肢のうちで唯一残る右手で掴まりながら若者に襲いかかろうとする。若者は懸命に抵抗を試みるが、動揺しているせいか思うように振り落とせない。自分では気付いていなかったが意味不明な叫び声を上げて闇雲に腕を払うのに必死だ。そこへ悲鳴を聞き付けた後輩が駆け付ける。目の前で繰り広げられる光景にただ立ち尽くしていたが、若者が助けを求めて一歩足を踏み出すと、後輩は突然銃を構えた。その銃口は真っ直ぐ若者に据えられている。こいつは俺を殺すつもりだ、そう思った途端、猛烈な怒りが若者に湧いてきた。馬鹿野郎、思わずそう怒鳴りつけると、両手でゾンビを掴んで強引に肩から引き剥がす。そのまま地面に叩き付けた。その後は後輩に向かって、撃て撃て撃て、とひたすら連呼する。若干もたつきながらも後輩がゾンビに銃弾を撃ち込み、完全に停止したのを見届けてから、どっかりと木の根元に坐り込んだ。先程一瞬殺しかけたことも忘れたように、大丈夫ですか、と後輩が心配した素振りで声をかけてくるが、その指がまだ銃の引き金に掛かったままなのを目敏く見留めた若者が荒い息遣いで絞り出すように口にする。
「俺は無事だ。さっさと引き金から指を離しやがれ」
それを聞き、漸く後輩も引き金から指を外す。やや嘲笑混じりのニュアンスで、勝手に先に行くからそうなるんですよ、と先輩である若者に言ってのけた。普段の若者なら間違いなく言い返していただろうが、そんなことはもうどうでも良い。何故なら戻ったらその足で即、班替えを申請しようと決めていたからだ。それほどまでに若者の心は折れていた。こんな思いをするのは二度と御免である。そのためなら幾ら馬鹿にされようと構わなかった。
「それにしても口がなくてラッキーでしたね。あれば確実に噛まれてましたよ」
後輩にそう言われ改めてゾンビの死体を見返してみて初めて若者はそのことに気付いた。確かにゾンビは鼻から下顎にかけてがごっそりと削げ落ちている。後輩の言う通り、噛まれずに済んだのはそれでらしい。わかっていればもっと冷静な対処ができていたかも知れないが、あの時は無我夢中で落ち着いて事態を見極めるなど不可能だった。それは経験してみなければ理解できないことだろう。だから若者は何も言わなかった。
だが、作業がこれで終わったわけではない。恐ろしい体験をした直後だったが、愚図愚図していられない状況に変わりはなかったので、何とか残った気力を掻き集めて若者は立ち上がり、作業を再開した。自分を襲ったゾンビにガソリンを振り撒こうとして、肩の辺りの微かな疼きに気付く。後輩に悟られないよう、そっと襟首を捲くって確かめると、薄っすらと血が滲んだ引っ掻き傷の痕が残っていた。引き剥がす時にでも付いたもののようだ。反射的に若者は傷口を覆い隠すように服を戻した。急に心臓が締め付けられたような感じがして、背筋を冷たい汗が伝う。目の前が薄暗くなって、胃がキリキリと痛み出した。それでも若者は自らにこう言い聞かせた。
(大丈夫だ。噛まれたわけじゃない。俺は感染なんかしていない──)
美鈴は大いに迷っていた。それも昨日今日に始まったことではない。この約二ヶ月間──正しくは智哉と離れて暮らすようになって以来、ずっと心の中にわだかまっているものが一向に晴れる気配がなかったのだ。
自分は智哉に想いを寄せている。それはもう胡麻化しようのない事実として受け容れざるを得なくなっていた。その一方で弘樹を傷つけたくないという気持ちも嘘偽りなく本物だ。これがもし元の世界で弘樹以外の誰かと普通に恋愛しただけだったら、たぶんここまで思い悩むことはなかったのではないかと思う。弘樹にしても納得するまでに時間はかかるにせよ、最後には応援してくれた気がする。逆の立場ならやはり自分もそうするだろうから。もしかすると世界がこうならなければ幼なじみのままで気持ちを明かすことすらなかったかも知れない。そしてお互いに家庭を持ったりして何十年かした後に、「実は好きだったんだぜ」みたいなことを言い合うのだろう。それが普通だと思う。だが、智哉との関係は普通とは言えなかった。ありきたりの恋愛とするには無理があり過ぎる。一時は全て過ぎたこととして帳消しにできるかとも思ったが、何もなかったことになどできようはずがない。離れて暮らしてみて尚のこと強くそう感じる。自分は生涯あの恥辱の日々を忘れることはないだろう。許す、許さないではなく、それこそが自分と智哉を結ぶ唯一の接点と感じるからだ。ああいう形で巡り合わなければ恨みにも思わなかっただろうが、同時に関心を払うこともなかったはずだ。それを否定することは一切の虚栄や自尊心を剥ぎ取られ、裸の己自身と向き合ったことまで忘れることを意味する。それは何としても嫌だった。今の自分があるのは良くも悪くも智哉がいたからだ。美鈴の人生にこれほどまでに影響を与えた人物は物心が付いて以降他に見当たらない。だから美鈴は智哉に抱いた憎しみや嫌悪も記憶から消すつもりはなかった。それすら生き抜く上で必要な糧だったと思える。例え智哉にとって自分が性的な欲求を充たすためだけの相手だったとしても。
ただ、そのことは話したところで誰からも理解されないだろうし、美鈴自身もどう説明して良いのか皆目見当が付かない。今日まで弘樹に何も告げられなかったのはまさしくそのせいだ。
しかも、美鈴の心境をより複雑にしていることが他にもあった。弘樹がここへ一緒にやって来た相手、藤川七瀬と只ならぬ関係にあるのはひと目で見抜いた。無論、それをどうこういう言う気はない。そんな資格がないことは充分に承知しているし、二人がそうなった理由も朧気ながら理解できる。それでも波立つ感情を抑え切れなかったのは、自分でも意外なことに弘樹への恋慕がまだ残っていたからに外あるまい。美鈴としては上手く隠し果せたつもりだったが、ひょっとしたらそのことが弘樹に伝わってしまったのだろうか。それで結果的に彼女を追い出したとしたら美鈴にも非があると言えよう。いずれにしても、このまま一緒に居ても七瀬には辛くなるだけだ、と言われたら二の句が継げなかったのは確かである。その七瀬は現在、智哉と頻繁に会っているらしい。たぶん弘樹の耳にも噂は届いているだろう。どうしてそうなったのかはわからないが、それを知ってますます平静でいられなくなったのは間違いない。今のところ、弘樹はそんな美鈴の心境を慮ってか無理に恋人として振る舞うことはして来ないが、それもいつまで我慢できるかは不明だ。もし強引に関係を求められれば拒めるという自信は正直に言って今の美鈴にはない。そうなる前に彼の下を離れるべきと思うが、どこか危うい精神状態に見える弘樹を放っておけずに、ずっと踏ん切りが付かなかったのだ。
だが、それも昨日までのことだ。漸く美鈴は決心していた。これ以上、自分の気持ちに背いて弘樹と一緒に居ることはできないと。例え智哉の下に戻ることは叶わないとしても離れるべきなのだ。そう決意するきっかけとなったのは三日前、智哉不在の中で起きたゾンビの襲来だった。戦闘は短時間で決着し、被害は出なかったそうだが、改めてこの世界が平穏でないことを思い知らされた。他の避難者と馴染むうちに、いつの間にかいつ死んでもおかしくないという現実を忘れていたようだ。
(護られるにしろ捨てられるにしろ、これ以上気のない相手を巻き込むわけにはいかない。どうせ迷惑となるのならせめて愛する人にそう思われよう)
それが美鈴が悩み抜いた末に導き出した答えだった。なので今日、居住区画に戻ったら弘樹にきっぱりと別れを告げる覚悟で午後の作業に当たっていた。妹の加奈はきっと賛同してくれるだろう。自分や弘樹に気を遣って何も言わないが、元々智哉の下から離れたことを快くは思っていないようだったから。
そんなことを改めて考えながら手を動かしているうちに時刻は夕方となり、程良いところで作業を切り上げて建物に戻ろうとした矢先、風に乗ってどこからか女の金切り声のようなものが聞こえた。立ち止まり周囲の物音に注意深く耳をそばだてていると、今度ははっきりとした悲鳴が届く。どうやら今し方、帰ろうとしていた建物の方向から響いて来たらしい。何事か確かめるべく小走りでそちらに向かうと、途中で顔見知りの女の子に遭った。急いで建物から出てきた様子で、ゼイゼイと肩で息をしている。彼女の呼吸が落ち着くのを待って事情を訊くと、内部に突然ゾンビが現れたのだと言う。
「感染していた人が見逃されていたみたい。いつの間にか病人の隔離に使われていた部屋がゾンビだらけになっていたんだって。今、警備の人達が向かっているわ。それで私達には建物から避難するように指示があったの」
それだけを早口に捲し立てると、美鈴にも、早く逃げた方が良い、と告げて逆方向に走り去った。
(逃げろと言っても一体どこへ? 敷地外には出られないし、ゾンビ相手に見つからない場所なんてないのに)
屋外に避難してもいずれ建物の外にまでゾンビが溢れて来れば行き場を失うのは中にいるのと同じだ。騒動が大きくなれば、すぐに周辺からもゾンビが集まって来るだろう。そうなれば全滅は必至である。ここに留まっていても意味はない。そこまでいくとしたら助かる道は一つしか思い浮かばなかった。予てより智哉が用意してくれていた屋上へ逃れる方法だ。今ならまだ戻ってもゾンビに遭遇せずに辿り着けるのではないか。それに妹は恐らく建物内にいるはずだ。それを放ってはおけない。瞬時にそう判断すると、美鈴はぽつぽつと建物から逃げて来る人の流れに逆らって前に進み始めた。ゾンビに施設が占拠されるより早く、何としてでも妹と弘樹を見つけ出し屋上に向かうために。
先程の女の子の話によれば、ゾンビの発生源は北東の角にある隔離病室とのことだった。それを信じてそこから最も遠い南側の通用口から建物内に侵入する。その辺りではまだ状況がはっきりと伝わっていないのか逃げ出すわけでもなく、一塊になって口々に不安を洩らしながら右往左往する人達が何人かいた。美鈴は彼らを無視して通り過ぎた。今はさして関わりのない人に構っている余裕はなかったためだ。それに自分の判断が現時点で正しいかもわからない。加奈や弘樹には自分を信じて付いて来て欲しいと言えても、見知らぬ人の命にまで責任を負うことはできない。彼らは彼らで生き延びる術を探す以外にないのである。所詮、自分は神様ではない。手を差し伸べられるのは手の届く範囲の人だけだ、そう割り切ることで先を急いだ。ちょうど智哉の部屋の近くだったので、一先ずそこへ向かう。
階段を駆け上がり二階の突き当りにある智哉の部屋の前に辿り着くと、預かっていた鍵を使い中に入った。自分用にと用意された散弾銃を手に取る。弾も暗証番号を解いて取り出すと、教えられた通りに銃身を折って上下に並んだ薬室に籠めた。服のポケットにも入るだけの散弾を詰め込んで、残りはやや迷った末に弾の入ったボストンバッグごと持って行くことにした。肩に掛けるとずっしりとした重さが喰い込むが、泣き言は言っていられない。やるべきことは山のように残っている。
そうして部屋を出たところで、運良く妹の加奈とばったり出喰わした。向こうも美鈴を捜していたみたいで、ここに来れば遭えるかも知れないと考えたそうだ。
「見つかって良かった。急いで逃げるのよ」
どこに? と訊ねる妹に、屋上、と短く告げて美鈴は加奈の手を取ると、階段に向かい駆け出した。走りながらこれからの行動について説明する。
「いいこと、よく聞いて。あんたを屋上に連れて行ったら私は弘樹を捜しに戻るから扉を閉めて外には出ないこと。念のため、扉には鍵を掛けておくのよ。それでもし誰かが避難して来たらゾンビに噛まれていないかを確認して入れなさい。少しでも怪しいと感じたら絶対に開けちゃ駄目。その人には悪いけど、あんたが無事でいる方が大事だから。それで万が一……あくまで万が一よ。私が戻らなかったら空調室外機の下にコンテナボックスが隠してあるはずだからそれを探すの。中に無線機が入っているそうだからそれで岩永さんに連絡を取りなさい。使い方はスーパーに居た頃に習ったから憶えているでしょ? あとのことは岩永さんの指示に従って」
いいわね? と美鈴が念を押すと、ここで押し問答をしていては姉の足を引っ張るだけと思ったのか、わかった、と加奈は今にも泣き出しそうな口調で答えた。わかった、でも絶対に戻って来てね。
階段に辿り着くと、美鈴は一応周囲を見回して弘樹の姿がないか捜した。しかし、それらしき相手は見当たらない。諦めて階段を上がりかけた時、背後から声をかけられた。
「おい、どこに行くんだ? そっちは行き止まりだぞ」
振り返ると迷彩服姿の若い──といっても当然、美鈴よりは年上だが──二人の男が立っていた。美鈴が肩から提げた散弾銃を目にして怪訝な表情を浮かべている。向こうも銃を所持しているところを見ると、たぶん警備班の人達だろう。そういえば智哉と話しているのを何度か見かけたことがある。そのうちの一人がもう一度、どこへ行く気なのか、と質した。
「建物の外に避難するよう指示が出ているのを知らないのか? 上に行っても逃げ道はないはずだが」
「指示は知っています。ですが私達は屋上に向かいます」
美鈴はきっぱりとそう答える。すると、相手は即座に否定した。
「屋上に? それは止した方が良い。一時的に逃れられてもどこにも行けなくなるだけだ」
木村は何故、こんな若い娘が銃などを手にしているのか疑問に思ったが、一旦それは脇に置き、そう諭した。自分達もついさっき休憩していたところを騒ぎに気付いて飛び出して来たばかりで、事態をはっきりと把握しているわけではないが、それでも上階に向かうのが得策でないことはわかる。火災現場と同じで上に逃げればいずれ行き止まるからだ。ましてや消防や警察が救助に駆け付けるわけではない。少しでも助かる可能性を求めるならなるべく開けた場所に出るしかない。それに間もなく一階へ様子を見に行かせた井上も戻る頃合いだ。そうすれば少しは状況も掴めて彼女達に具体的な指示も出せる。それまでは引き留めておこう、そう考えた次の瞬間、あっさりと判断を覆す言葉が彼女から発せられた。
「岩永さんの指示です」
それを聞いて、木村と長野は思わず顔を見合わせた。
「あの人の……?」
無論、自分達の命の恩人である彼の名を忘れるわけがない。そうでなくとも顔を合わせれば世間話くらいはするし、嘗ての上官である絵梨香が行動を共にしていることも知っている。ただ、ここで急にその名が出るとは思いもしなかったため、面喰ったのだ。そこに井上が階段を息急き切って駆け上がって来た。
「……一階はどんな様子だ?」
智哉のことは一先ず棚上げして、木村はそう訊ねた。井上は美鈴を見て一瞬呆けたが、長野に脇を突かれて我に返ると慌てて報告し始めた。
「かなりやばい状況です。一階の北側はゾンビだらけでもう手が付けられなくなっていますよ。駆け付けた警備班の連中にもかなりの被害が出て後退し始めています。今から俺達が応援に行ったところで焼け石に水ですね。今のところ、病室付近に取り残された避難者が結構いるみたいで、ゾンビの興味はそちらに向いているようですが、いずれその人達がいなくなれば大挙してこちら側へ押し寄せて来るんじゃないかな。逃げ出すとしたら今しかないですよ」
無線を弄っていた長野も続けて口を開く。
「やはり本部は応答しませんね。ゾンビの発生源に近いですし、巻き込まれたと見て間違いないでしょう」
「あの、私達もう行って良いですか? 他にもやらなきゃならないことがあるんで」
木村達の会話に割り込むようにして美鈴はそう言い残し、その場を立ち去ろうとする。加奈を促して階段を上がりかけたその時、報告を聞いて何か考え込んでいた木村が、よし、俺達も行くぞ、と告げた。
「行くってどこにですか?」
井上がそう訊ね、一緒に屋上に行くんだよ、と長野が木村に代わって答える。木村も黙って頷いた。
「屋上って……それじゃあ、袋の鼠じゃないですか」
その前の会話を聞いていなかった井上だけが納得いかないというように口を尖らせるが、それを無視して木村は再度、美鈴に向き直ると、念を押すように確かめた。
「あの人が屋上に避難するよう言い残したってことは、何か脱出の手立てが用意されているってことだよな?」
「はい。ですが、今は説明している暇はありません」
「わかった。あの人の言うことなら信じるよ。俺達も同行させてくれ」
実を言えば屋上に避難した後のことは美鈴もどうするのか知らない。ただ、美鈴にあるのは言われた通りにして屋上でゾンビの侵入を防いでいれば、戻って来た智哉が何とかしてくれるに違いないという確信だけだ。だから、この場で説明しろと言われたら困るところだった。普通に考えれば信じられなくても無理はない。井上が危惧しているように一時凌ぎにはなっても最終的には逃げ道を塞がれて、いずれ飢えて死ぬか、自ら命を絶つかの選択しか残されないと考えるのは当然だ。もっともそれなら無理に付き合って貰う必要はないので、放って置いてくれれば良いのだが。実際に智哉に助けられたことがある木村達だからこそ、余計な説明は無用と言えたに違いない。その上で、彼らが行動を共にしてくれるなら、と美鈴は考えた。図々しさを承知で頼んでみよう。
「皆さんが屋上へ避難するというのならお願いがあります。妹を一緒に連れて行って貰えないでしょうか?」
「お姉ちゃん?」
突然の美鈴のこの言葉に、驚きと不安の入り混じった表情で加奈は姉の顔を見た。急にこの場で別れると言うに等しい発言に戸惑っているのだろう。だが、時間のない今、それには取り合わず、お願いします、と美鈴は頭を下げた。
「それは構わないが、君はどうするんだ? 屋上には来ないのか?」
「捜したい人がいるんです。その人を見つけたら私もすぐに行きます」
それを聞いた木村はほんの数瞬、逡巡する表情を見せたが、すぐに長野と井上に加奈を連れて屋上へ避難するよう命じた。木村さんは? という問いには、女の子を一人で放って置けないだろ、とおどけてみせた。どうやら美鈴に付き合う気らしい。自分の勝手な事情に付き合わせるわけにはいかないと美鈴は同行を断りかけたが、寸前で思い留まった。木村が智哉への借りを返すつもりだとわかったからである。ならばその申し出は有り難く受けるべきだろう。断る代わりに長野と呼ばれた人に屋上の扉の鍵を預ける。普段から施錠されているわけではなかったが、これで誰かが先んじて籠城していたとしても開けることが可能だ。
その場で二組に分かれて加奈達は上の階に、美鈴は木村と共に一階へと下った。総務班の弘樹はいつもならこの時間は仕事を終え部屋に戻って来ているはずだが、この混乱の最中、発生源に程近い場所にじっと留まっているとは考えにくい。やはり外に避難してしまったのだろうか? だとすれば、捜し出して再び建物内に戻るのは至難の業と言えそうだ。しかし、考えていても仕方がない。
「その銃、扱い方は?」
とりあえず正面玄関に向かいながら木村がそう訊く。
「一応、岩永さんからひと通り教わっています」
美鈴がそう答えると、そうか、と呟いたきり木村はそれ以上、銃について詮議する気はなさそうだった。
玄関に到達する手前で、二人はロビーに殺到する人垣に行く手を阻まれた。どうやら出口が塞がれて立ち往生しているらしい。美鈴が建物に入った時点では解放されていたはずなので、その後で封鎖されたのだろうか。人垣の向こうで男同士の言い争う声が聞こえた。
「いい加減にしろ。さっさとこの扉を開けないか」
「駄目だ。感染しているかも知れない者を外に出すわけにはいかない。建物内に留まっていろ。無理に出ようとしたら問答無用で撃つ」
人波を掻き分けるようにして何とか玄関が視界に入る位置まで近付いた美鈴達は、出口の外にコンクリートブロックや鉄柵などで組まれた即席のバリケードがあるのを見て目を丸くした。いつの間にこんなものを築いたのかという驚きもさることながら、その外側では警備班らしき男達数人が扉を挟んで建物内にいる人達に銃を向け、今にも撃ちそうな雰囲気を漂わせていたのである。
「あいつら、ふざけやがって……」
隣で木村が吐き捨てるようにそう言って語尾を濁した。同じ警備班同士で見知った仲なのだろう。だからといって、仲間であることを理由に説得が通じるような相手ではなさそうだ。現に今も外に出せと集まった人達が口々に捲くし立てる声にもまったく耳を貸す様子はない。それでも辛抱強く人垣の先頭に立つ中年男性が折衝を重ねた。
「無茶を言うな。隠れても中にいればいずれゾンビに見つかる。感染していないのは見たら明白だろう」
「その油断が感染者を内部に招き入れたんだ。俺達は同じ轍は踏まない」
冷然と銃を構えたリーダーらしき男はそう言い放つ。それを聞いて別のところからも非難の声が上がる。
「ふざけるな。最初に暴れ出したのは体調を崩して入院していた警備の奴だと聞いたぞ。元はと言えばお前達が見逃したのが原因じゃないか」
「だからこそ今度はそうならないよう、こうして見張っている」
頑として封鎖の解除に応じるつもりはないようだ。それで中年男性も無条件に外に出ることは諦めたらしく、妥協するように言った。
「……わかった。気の済むまで調べて貰って構わない。だから順番に外に出させてくれ」
だが、それにも銃を構えた男達はせせら笑いながら言う。
「そんなことを一人ずつにしていたら時間が幾らあっても足りない。封鎖を解くのは建物内のゾンビが完全に居なくなってからだ。検査はいずれこの騒ぎが収まったらするから、それまではどこかに隠れて大人しく待っていろ」
「そんな馬鹿な。それじゃあ、この場で死ねと言っているのと変わらないじゃないか」
中年男性がそう叫び、周囲から一斉に抗議の声が上がる。
「そうか、わかったぞ。初めから表に出す気なんてないんだな。俺達を餌にしてゾンビを建物内に留めて置く腹だ」
人殺しとかふざけるなとかいう怒号が辺りに渦巻いた。行こう、と木村が美鈴にだけ聞こえるように耳打ちした。ここにいても無駄だ、他の出口を探した方が早い。
美鈴も同意してその場を離れる。歩きながら、捜しているのはどんな相手か、と木村が訊ねた。
「男で年齢は私と同い年です。身長は百八十センチくらい。痩せ型でやや童顔」
それだけの情報で見分けが付くとは美鈴も期待してはいない。いっそのこと大声で名前を叫ぼうかとも考えたが、この喧騒では掻き消されるのが落ちだろう。とても弘樹の下に届くとは思えない。絶望的な気分に陥りかけた美鈴の耳に、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
最初は幻聴かと思えたが、集中して聞き分けると間違いない。確かに自分の名前が呼ばれている。しかも、多少機械的な音質ではあるが、聞き憶えのある声だった。
(弘樹だ。弘樹が私を呼んでいる)
美鈴は声の出所を探ろうと目を閉じて周囲に耳を澄ます。すると、ロビーを横切った廊下の先から聞こえてくることを突き止めた。木村にもそのことを伝える。急いでそちらに向かおうと人混みを迂回しかけた時、ひと際大きな怒鳴り声が響いた。
「おう、だったらやって貰おうじゃねえか。撃てるもんなら撃ってみろ」
そう聞こえた次の瞬間、ガラスの砕ける音と共に銃声と悲鳴が辺りに木霊した──。
友里恵は自分の執務室を出たところでその音を耳にした。もっとも銃声は暫く前からずっと続いているので、今更気にも留めない。それよりも一刻も早くこの場を離れる方が先決だった。周りの喧騒からもういつゾンビが目の前に現れてもおかしくないところまで迫って来ていると知れた。秘書の田岡を始め、周辺にいた者達はとっくに逃げ出して誰も残っていない。友里恵だけがやや意固地になりながら一人留まって混乱の収拾に努めていたのである。しかし、それももう終わりだ。さっきから誰一人、無線の呼びかけに応える者はいなくなった。
(それにしても崩壊するとなったら呆気ないものね)
どこか他人事のようにそう思う。あれほど苦労して積み上げてきたものが内部から感染者が出た途端、あっという間に蹂躙されてしまった。もはやゾンビの勢いを止めることは不可能であろう。例え全滅を免れたとしても多大な犠牲が出ることは避けられそうにない。否、既にそうなっているとも言える。その責任は言うまでもなく自分にある。だが、一体どこが間違っていたのだろうか? 一つ一つのことを思い返せば友里恵には思い当たる節が多過ぎて、どれがそうなのか見当も付かなかった。あるいは皆が協力し合えばこの難局も乗り越えられると思ったこと自体が誤りで、自分なら人々をまとめられるというのは驕りだったのかも知れない。
それでも自分は懸命に努力したつもりだった。結局は意味のないことだったが。しかし、結果としてみればこれはこれで良かった気もする。目を凝らさなければ僅か十メートル先も見えない薄暗い廊下の端を所々に置かれた灯火と背にした壁を手掛かりに玄関と予想される方向へ進みながら、友里恵は心の片隅でそう思った。少なくともこれで先日のように人間同士で争う愚行だけは避けられそうだ。何しろ、争おうにもその相手がいなくなれば何もできまい。そんな稚気に等しい考えを唯一の慰めとしなければならないほど友里恵は絶望し切っていた。斯くなる上は個々の判断で一人でも多くの人に生き延びて欲しいと願うばかりである。友里恵もこの先は一切の立場や責任をかなぐり捨てて、自分が助かることを最優先する気でいた。もし生き残っても今後、自分が要職に就くことは二度とないという決意と共に。
そんな友里恵が暫く進んで廊下の曲がり角まで来た時、続くその先に何かの気配を察して立ち止まった。顔だけを陰からそっと覗かせて確かめる。暗がりの奥、通路の端で友里恵の方に背を向けた誰かが立っていた。背格好からして男であることは辛うじて判別できたが、それ以外は見分けが付かない。一瞬、ゾンビかと戦慄しかけたが、この距離でこちらに見向きもしないところを見るとそうではないようだ。背中越しのため表情は隠れて窺い知れなかったが、男は窓のない壁に向かって額を押し付けるようにして何かを祈っているみたいだった。こんな状況では神にすがり付きたくなる気持ちもわからないではないが、それで助かるなら誰も苦労しない。放って置こうかとも思ったが、男の脇を通らなければ先には進めなかったので、一応声をかけてみることにする。それで拒絶されたのならこちらも大手を振って放置できる。そう考え一歩踏み出したところで男の不自然なシルエットに気付いた。首の真後ろから角のようなものが生えている。さらにもう二歩進むと、角のように見えたものは後頭部から突き出た鋭利な金属の棒であることがわかった。どうやらバールの先端を細く削って杭状に尖らせた手製の武器らしい。それを自らの手で喉元に突き刺し、気管と延髄を貫いて、先端を背後に十センチ近く飛び出させていた。相当な勢いで突かなければこうはならないだろう。恐らくはバールを喉に押し当てた状態で、壁に向かい思い切り激突したのではないか。それを物語るようにバールの反対側は壁にめり込んで男が立った姿勢を保持する支えになっていた。もちろん、本人は即死で間違いない。
それがわかった後も友里恵は暫く放心したまま、その場を動けなかった。自殺者が出ることはここではとりわけ珍しくない。自死した遺体が原因でゾンビを誘引することが知れ渡ってからは相互に監視し合う風潮が生まれて人目を避けて死ぬのは難しくなったため、それほど頻繁には起きなかったが、それでも完全に防止することは不可能だった。対策としては二十四時間絶え間なく施設内の巡回を続け、万一にも自殺者を発見した場合は可及的速やかに遺体を処分する方法が取られていた。その中には発見が早く蘇生すれば助かる見込みがある者も含まれていたようだが、概ね無視される傾向にあった。急いで処置を完了しないとゾンビを呼び寄せてしまうというのは建前で、自殺するような人間は助けても厄介事が増えるだけで苦しい台所事情も相まって見殺しにした方が何かと都合が良いというのが大方の本音だろう。無論、そのことは友里恵も承知の上で黙認していたのだ。とはいえ、報告を聞くだけで自分の目で自殺者を見たのはこれが初めてだった。同じ遺体でも病気や事故や事件で望まぬ死を迎えた者と、自ら生きる気力を失くした者とでは受ける印象が違うのだと感じた。自死した者は目撃した人間から困難に立ち向かっていく勇気や理不尽さに抗おうという闘志を根こそぎ奪っていく。
この時の友里恵がまさにそうした状態だった。このまま床に坐り込んだら楽になれると思うが、本当にそんな真似をしたら二度と立ち上がれなくなりそうだったので、必死に己を奮い立たせて踏ん張った。何とかその場を立ち去りかけた時、友里恵の近くで何かが倒れる音がした。クリスタルの灰皿とか額縁のガラスとかそういう硬質なものが割れるような音が響いて、そういえば何かの気配を察して立ち止まったのだと思い出した。それが今見ている人影でなかったのなら別の存在を見逃したということになる。背後に何かが近付いて来るのを予感したが、もはや友里恵には振り返ってそれを確かめる勇気は持てなかった。身動き一つならず、その場で凍り付いたように立ち尽くす以外に何もできない。次に友里恵の耳にはっきりとした足音が聞こえた時、彼女は内股に生温かい感触が伝わるのを自覚した。大人になって初めて自分が失禁したことを悟ったが、そんなことも気にならないほど何も考えられなかった。先程まであれほどうるさく聞こえていた物音も今は分厚い壁越しに誰かが騒いでいるだけの気がする。そしてわけもなく唐突に友里恵は泣き出した。それも幼児がするように大声を上げて両手で自分を抱きしめながら堰を切ったみたいに全身を震えさせて激しく嗚咽した。何故かはわからない。失禁したことで精神年齢が子供時代に戻ったのか、全てが徒労に終わったことへの悔恨なのかも定かではない。唯一つだけ言えたのはその啼泣も長くは続かないということだ。聞いている者は誰もいなかったが、盛大に泣きじゃくるその声は程なくして廊下の暗がりに消えた。
(日奈子は無事に逃げ果せただろうか?)
由加里は医療品の保管に使われている細長い倉庫の壁に背中を預けながら、後輩の身をそう案じた。たまたま今日が彼女の非番の日で、出勤していなかったことが幸いだったと信じたい。それにしても自分はいつからこんなに後輩思いになったのか。そういう由加里自身はたった一人でこの場所に取り残され、身動きもままならずにいるのだ。隔離病室から突然ゾンビが現れた時、由加里は数人の同僚と共に隣の処置室にいた。そのため真っ先に標的となって運良く自分だけが難を逃れ保管室に飛び込んだは良いが、出入口は一箇所だけでそこはもう先刻まで同僚だった者達に支配されている。もはや由加里を見ても誰も仲間とは思わないだろう。助けを呼ぼうにも大声を上げればいつ彼らが由加里の存在に気付くかわからない。一応ドア付近は戸棚や段ボールで塞いではいたが、一斉に押し寄せられたらひとたまりもあるまい。じっと息を潜めて助けが来るのを待つしかなかった。
だが、そんな由加里の願いも虚しく、周囲の騒々しさの大半を占めていた悲鳴や絶叫、それに取って代わって暫く続いていた銃声も次第に遠ざかり、今や壁一枚隔てた向こうはゾンビしかいないものと思われた。その間も由加里は必死に脱出の算段を探ったが、幾ら考えても浮かんでくるのは不可能という言葉だけだった。仮に処置室を彼らに見つからず無事に抜けられたとしてもその先はさらに多くのゾンビが待ち構えているに相違ない。しかも、ここには武器になりそうなものは一切なかった。縦しんばあったところで大した違いはないだろうが。窓でもあれば中庭に出られたかも知れないが、生憎とそれもなく、四方の壁はコンクリート製である。映画などのように身近な物を使って壁に穴でも開けられれば良いが、現実にはそれほどの爆発力を生むのはどだい無理な注文だ。第一、密閉された空間でそんなことをしたらこちらの身が保つまい。やれるとしたらせいぜい爆風で圧死するのと引き換えに、ドア一枚を吹き飛ばす程度が関の山だろう。つまりは八方塞がりだ。そうであるにも関わらず自分が冷静でいられることに由加里は驚いた。恐れ慄いて何かヘマをしていても良さそうなものである。それが未だにゾンビの餌食にもならずに済んでいる。あまりに絶望的な状況に恐怖や狼狽することを忘れてしまったのだろうか。だとすれば感謝すべき状態なのだろう。
それでも何もせずに、ただ蹲っているだけというのは耐え難い緊張だった。突然、笑うとか泣くとかわけのわからないことをしてしまいたくなる。それに、どうせ死ぬにしてもゾンビになるのだけは絶対に避けたかった。残念ながらこの場には自殺に使えるような強い薬はもう残っていない。自ら死を選ぶとすれば別の手段が必要だ。そう考えると、先刻の爆発を起こすというアイデアはさほど悪い思い付きではない気がしてくる。少なくとも生きたまま噛み殺されるよりは何倍もマシだ。脱出は不可能でも上手くいけば何体かは巻き添えにできるかも知れない。幸い──と言って良いのかわからないが、消毒用に保管されている揮発性の高いアルコールの一種である無水エタノールや肌の洗浄に使われるアセトンといった可燃物には事欠かない。同じく消毒剤である塩酸と薬の包装に使われるアルミ箔を反応させれば水素も発生させられるはずだ。その上、酸素も併用すればより効果が高められるに違いない。酸素自体は燃えないが、燃焼を助けるという働きは広く知られている。とはいっても医療用の酸素ボンベはとっくに使い果たしているので、代わって学校の保健室などでお馴染みの過酸化水素水──所謂オキシドールが役に立ちそうだ。ただし、そのまま容器に空けただけでは酸素の放出に時間がかかるため、反応速度を上げる触媒が必要となろう。これにはマンガン電池などに含まれる二酸化マンガンが科学の実験においてはよく使用されるが、ここでは見つけられなかったので別のものを探す。昔受けた生物の授業で赤血球内のカタラーゼという酵素にそれとよく似た働きがあると習ったのを思い出し、自分の血液を混ぜ込むことにする。傷口を消毒した時に泡立つ原理と同じだ。輸血用の血液バッグを使わないのは、とっくに保存期間を過ぎていて予想通りの反応を示すかわからなかったためである。なお、輸血用血液製剤は現在ではその殆どが成分毎に分けられていて、赤血球製剤なら保存温度を二度から六度に保った上で有効期限は採血後二十一日と定められ、血小板製剤の場合は冬場であれば常温で保存できるが採血後四日間しか保たず、血漿製剤は採血後一年間有効だがそれにはマイナス二十度での保存が必要という具合に、非日常での保管には適さない。一応、献血や自己血の保存も呼びかけてはいるが、あまり理解が得られていない上に安全性の検査ができない現状では、いずれにしても輸血は滅多に行われなくなっている。同様に貴重な薬や医薬品等も殆ど残っていないので、仮に爆発が思い通りにいって吹き飛ばすことになっても勘弁して欲しいというのが由加里の言い訳だ。
そうと決めたら本当に実行するかの決断は後回しにして、早速準備に取り掛かる。床に並べたプラスチック容器に各々の薬品を流し込み、左腕には自分で点滴ルートを確保した。それで採血した血液を過酸化水素水に垂らしながら、塩酸を充たした中には薬を抜き取ったアルミ箔を放り込んでいく。そうして室内に可燃性の気体が充満していくのを静かに待った。もっともこれでどの程度の爆発が起きるのかはまったくの未知数だ。酸素濃度にしても肺の充血や失明といった酸素中毒の危険な兆候が現れるのは六十パーセント以上の濃度でも十二時間はかかるため、それにより判断するわけにもいかなかった。そもそも素人の科学実験の域を出ておらず、実際に爆発するのかどうかすら怪しい。それでも気を紛らわすことはできたので良しとする。あとはギリギリまで待って、決行するかだけだ。まだその覚悟はできていない。着火ライターは一応手元に用意してあったが、いざとなれば怖気付いて使えないかも知れなかった。こんな時に智哉なら何とするだろう? 一度しか抱かれていない男の顔を思い出し、由加里はふと気になった。ああしたのはあくまでギブアンドテイクの取引で、それ以上の意味ではなかったはずだ。まさか、ここでその男の姿が浮かんでくるとは思わなくて、戸惑った。無論、何度か会っただけで愛しているとは到底言い難い。それは向こうも似たようなものに違いなかった。それでも何かは通じ合えたと信じたい気持ちが最期に彼のことを思い出させたのだろうか。だとしたら忙しさにかまけず、もう一度くらい抱かれておけば良かったと由加里は後悔した。
──その銃声が鼓膜と感情を揺さぶった時、美鈴は漸く視線の先に捜し出すべき相手を見つけた。背の高さ故に周りより頭一つ抜きん出ているその若者は、口許に拡声器を押し当てて、美鈴の名を連呼している。銃声の行方も気になるが、今はそれより急いで彼と合流することだ。そう思い、背後を振り返ることなく前に進んだ。やっとのことで近寄ると、弘樹も美鈴に気付いて人波を掻き分けて向かって来る。感動の再会と行きたいところだが、言葉を交わすより先に突如、周囲が一斉に騒ぎ始めた。とうとうここにもゾンビが現れたらしい。一方で玄関付近でも騒動が続いているようで、瞬く間にロビー全体にパニックが伝染する。
「ごめん、弘樹。ちょっとそれを貸して」
見かねた美鈴が弘樹から自分の名を呼ぶのに使っていた拡声器を半ば強引に奪い取ると、隣で持ち主が呆気に取られているのも構わずに耳障りなハウリング音を響かせつつ大声で呼びかけた。
「皆さん、落ち着いてください。屋上になら逃げられます。大至急、そちらへ避難してください」
玄関を封鎖していた男達に銃を撃たれ、直後にゾンビまでもが出現して完全に恐慌をきたしたロビーを埋め尽くす人々に、美鈴はあらん限りの声をそう張り上げる。収容能力や脱出の仕方云々を考えている場合ではなかった。今すぐ何とかしなければ、恐らくここにいる大半の人達は命を落とす。そんな切羽詰まった思いから咄嗟に出た行動だ。だが、その考えは恐怖と不安に駆られた人々には殆ど通じなかった。全員が逃げ惑うのに必死で美鈴の言葉に耳を傾けるどころではなかったし、聞こえたとしても信じる道理はないのである。声を涸らすほど叫んだのち、その現実を目の当たりにして己の無力さを痛感し暫し茫然としていた美鈴だったが、今度は拡声器を通してではなく肉声で名前を呼ばれ、肩を掴まれて漸く我に返った。
「美鈴、大丈夫か? こんな有様じゃ何を叫んでも無駄だ。それよりずっと捜していたんだ。やっと遭えて良かった。班の備品を掠めてきた甲斐があったよ。これで咎められても悔いはない」
そう言いながら目の前で弘樹が心底安堵した表情を見せる。それを見て美鈴は思い直した。
(そうだ、こんなところで絶望感に浸っている場合じゃない。自分が何をしようとしていたのか思い出せ)
落ち着きを取り戻した美鈴は弘樹に向かって言った。
「私も捜していたの。でも話はあとにしましょう。一刻も早くここから離れないと」
パニックに陥った人々を見捨てるのは忍びないが、これ以上留まっていては自分達の身が危うい。急いで来た方向へと駆け出そうとするが、その手を弘樹が掴んで止めた。怪訝な表情で振り返った美鈴に弘樹はやや感情を押し殺した声で、どこに向かう気だ? と訊ねた。
(この急場に何を言っているのだろう? さっきの私の呼びかけを聞いていなかったのか?)
急に弘樹が愚鈍に見えた。そのため、若干苛立ちを含んだ口調になってしまう。
「拡声器でみんなにも伝えたでしょ。屋上に逃げるのよ」
そんな美鈴の苛々を無視するかのように、尚も弘樹は続けた。
「どうして屋上なんだ? そこしか行き場がないならともかく、出入口はここだけじゃない。無理に屋上へ逃げなくても外に出る方法なら他にある。俺が案内するよ」
「違うのよ、弘樹。他に行き場がなくて屋上に
そう言えば弘樹は驚くかと思ったが、逆に予想通りで落胆したという表情を浮かべ美鈴を見返した。そして再度、何故屋上なのかと問うてきた。
「それは……あとで話すから」
「話さなくていい。どうせあいつに言われたからだろう? いざという時は屋上に行けとでも指示されていたんじゃないか? その銃もあいつの部屋から持ち出したみたいだしな。二人でこそこそと隠れて準備していたってわけだ。けどな、そんなにあいつのすることは正しいのか? もし間違っていたらどうする気なんだ?」
それを聞き美鈴にも漸く弘樹の真意が見えてきた。屋上への避難が智哉の発案であるのが納得いかないらしい。確かに智哉を信じられなければおいそれと承諾できる話ではないだろう。だが、それを今ここで議論している暇はない。
「弘樹、お願い。今は説明している時間がないの。とにかく私を信じて付いて来て欲しい」
その言が言い終わるか終わらないかのうちに、隣で会話を聞いていた木村が、もう限界だ、と声を上げた。
「悪いがこれ以上は待ち切れない。俺はもう行くよ。彼を置いて一緒に来るか、説得を続けるか直ちに決めてくれ」
先に行ってください、と美鈴は即座に返答した。すぐに追いつきますから。今度ばかりは本当に窮地を悟ったのだろう。そう言われて木村は、悪いな、と言って踵を返すと、あっさりと人混みに紛れていなくなった。当然、屋上に向かったに違いない。
「誰だか知らないが行きたきゃ一緒に行けよ。無理して残る必要はないんだぜ」
「話を聞いて、弘樹」
「聞くまでもない。よくわかったよ。ずっとあいつのところに戻りたかったんだな。道理で一緒に居ても落ち着かなかったわけだ。大切だと思っていたのは俺の独り善がりで、そっちは迷惑に感じていたんだからな。それならさっさとそう言えば良かったのに。どうせ俺を憐れんで見捨てられないとでも思っていたんだろう? 今だってそうだ。わざわざ捜しに来たのは罪悪感から逃れるため、違うか? 本当は必死で捜し回ったが見つからなかったって方が良かったんじゃないか。悪かったな、目立ってしまって。でも、もういいよ。そんなにあいつの下に行きたきゃ好きにすればいい。けどな、その後ろめたさに俺を巻き込むな」
美鈴は何と答えて良いのかわからなかった。ただ、もう嘘だけは吐きたくなかったので、できるだけ正確な言葉を選びながら正直に話すことにした。
「そうね……弘樹の言う通りよ。私はずっとあの人のところに戻りたかった。本来ならもっと早くに打ち明けるべきだったのよね。でも、それと信じているということとは別なの。信じるというのは私が勝手に決めたことだから。岩永さん自身や他の人がどう思おうと関係ない。例え戻れなかったとしてもそれは変わらない。そのことを弘樹に理解しろというのは無理だと思う。だから弘樹にも岩永さんを信じて欲しいとは言わない。けど、岩永さんを信じる私のことは信じて欲しいの。少なくとも弘樹に死んで貰いたくないという気持ちは本当よ。でなかったら、わざわざ捜しに来たりしない。弘樹は罪悪感から逃れるためって言ったけど、そうじゃないわ。だってそんなことで消せるほど軽くはないもの」
美鈴は精一杯の思いを込めてそう話した。果たしてそれが弘樹に伝わったのかはわからない。じっと返事を待つ間、美鈴は弘樹を真っ直ぐに見つめ続けた。やがて、ぽつりと弘樹が洩らした。
「……たった数ヶ月一緒に居ただけなのに随分とあいつの肩を持つんだな。そんなに優しくされたのか? けどな、俺だってはぐれなきゃそうしてたさ」
事実はそれとはまるで異なるが、上手く説明できる自信がない。迷っていると、美鈴さん、と背後から突然声をかけられた。振り向くと、そこには蒼白な顔で立ち尽くす藤川七瀬の姿があった。どうしてこの場に彼女がいるのかわからずに一瞬混乱しかけるが、すぐに偶然だと気付く。たまたまロビーにいて美鈴の呼びかけを聞いたのだろう。その七瀬が普段の彼女の大人しさからは想像も付かない険しい表情で訴えた。
「少し前から話は聞いていたわ。美鈴さん、弘樹のことはもういいよ。それより一緒に屋上へ逃げましょう」
どの時点から聞いていたのかは不明だが、予想外の申し出に美鈴の方が戸惑った。彼女にしたら自分や弘樹は心中穏やかならざる相手のはずだ。そうであるにも関わらず、そんな素振りは微塵も感じさせない様子で続けざまに口にした。
「弘樹、美鈴さんは私が強引にでも連れて行く。あなたも本当に彼女のことを想うなら、ここで言い争っていることがどれほど不毛かわかるでしょ。美鈴さんは充分にあなたへの想いを示したじゃない。次は弘樹がそうする番じゃないの? 一緒に来ないならそれでも構わない。でも、それならそんな投げやりな態度じゃなくて、美鈴さんが納得できる形で断るべきよ。今のあなたは好きにしろと言いながら、そうできないように縛り付けているだけだわ」
弘樹もいきなり現れた七瀬には驚いたみたいだったが、彼女の話の途中から落ち着きを取り戻すと、冷たい調子で応じた。
「どうしてここで七瀬が出て来る? 俺達とはもう関係がなくなったはずだろ。それであいつのところに行ったんじゃなかったのか? そんな奴が今更俺達の問題に口を挟まないで貰おうか」
弘樹だけならそうする、と七瀬はきっぱりとした口調で告げた。けど、美鈴さんのことは放って置けない。
「どうしてだ? 美鈴はあいつのところに戻る気なんだぞ。お前にとっては邪魔な存在なはずだろ?」
それについては美鈴も理由が知りたかった。七瀬が智哉との関係を続けるつもりなら、自分は弘樹の下にいた方が良かったのではないか? それとも私如きが何をしようと智哉との仲は揺るがない自信があるということなのか?
こんな場合であってもそんな風に嫉妬に駆られる自分に自己嫌悪を覚えながら、美鈴は続く七瀬の言葉を待った。七瀬は次のように語った。
「私は美鈴さんに借りがあるの。本来なら弘樹、あなたが幾ら無事だったからといって美鈴さんがあなたの下に来ることはなかったはずよ。私から見ても美鈴さんと岩永さんの間には割って入る余地のない強い絆があった。それは弘樹、あなたも感じていたんじゃない? だから私達はそれぞれの弱さを利用して二人の仲を引き裂いた。美鈴さんが優しいのを良いことにね。もう弘樹だっていい加減に気付いている頃でしょ? 美鈴さんは確かに弘樹のことを大切に想っている。でも、それは過去の想い出を大事にしているだけなんだって。そのために美鈴さんを殺すつもり? 想い出では今を変えられないのよ。私も弘樹のおかげで変わったからわかる。美鈴さんを変えたのはあなたじゃない」
七瀬がそんな風に思っていたとは意外だった。それがどこまで本心を語ったものなのか美鈴には窺い知れなかったが、弘樹にも何か感じ入るところがあったらしい。もういい、と彼は言った。
「わかったからもういい。今の話に共感できたわけじゃないが、俺だって美鈴に死んで欲しいわけじゃない。俺が一緒に行けば助かるっていうならそうする。それでいいんだろ?」
一先ずは生き延びることが先決だ。死んだら元も子もない。どんな心境の変化であれ弘樹が付いて来てくれる気になったのなら歓迎すべきだろう。美鈴はそう考えて頷いた。
それでももはや一刻の猶予もならない。三人は人垣を押し退けて急いで階段へと向かう。人の多さが防波堤の役割をして却ってゾンビを寄せ付けなかったのは皮肉と言えようか。何とか階段まで達すると、階上に逃れようとする人がいない分、そこから先はスムーズだった。それだけ美鈴の言葉が人々には届かなかったことを意味する。
ただし、ここからだと屋上に出るには反対側の別階段を使わなければならない。美鈴達は一気に最上階まで駆け上がると、無人の廊下を逆方向目指して進んだ。今のところ、その美鈴達の後を追う者はいない。建物を端から端まで横断した先にある別階段の昇り口付近では銃を構えた木村と長野が待ち受けていた。二人共何かあれば即座に発砲できる体勢で油断なく辺りを窺っており、美鈴達に気付くと特に木村がホッとした様子で叫んだ。
「急げ。こっちだ」
無事に彼らと合流を果たした美鈴達は、連れ立って屋上へ続く階段を上がって行く。階段室の頑丈そうな扉の前で内側にいる仲間らしき人に言って鍵を開けさせると、五人は順に足を踏み入れようとした。その時、
「待ってくれぇ」
という声が彼らの足許から聞こえた。踊り場から下を覗き込んだ美鈴の目に、必死で階段を駆け上がって来る中年男性の姿が映った。確か衛生班で班長をしていた前橋という人だ。しかも、それだけではない。その背後には多数のゾンビを引き連れている。
「急いで!」
美鈴はそう叫んでしまってから、それが如何に無謀な要求であるかを悟った。既に前橋は見るからに息が上がっており、歩みは散歩のように鈍い。追いつかれるのは時間の問題だ。とてもここまでは辿り着けまい。
隣の木村も同じ結論を得たようで、絞り出すように言った。
「駄目だ。待っていたらこちらが危うくなる。彼のことは見捨てるしかない」
その言葉に押されるようにして美鈴達は屋上に飛び込んだ。五人全員が入ったのを見計らって木村がドアに張り付いていた井上に、扉を閉めろ、と命じた。それとほぼ同時に、階下から悲鳴が聞こえる。井上が急いでドアを閉め、鍵を掛けると、慌ててそこから飛び退いた。それからさほど間隙が生ずることなく扉に衝撃が走る。窓のない鉄扉のため、向こう側の様子は知れなかったが、ゾンビが取り付いたのは間違いない。これでこの場にいる全員が後戻りできなくなったことになる。今更後悔して引き返したいと思っても、もはや後の祭りだった。
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