6 電力消失
いつの間にか辺りは薄暗がりに包まれていた。街路灯や遠くに見えていた住宅街の灯りも今は消え、発電機に繋がれた投光器の光だけが施設とその周辺の道路や林、幾つかの建物を煌々と浮かび上がらせる。そのことに遅まきながら気付いた絵梨香は、一体いつから灯りは消えていたのだろう、と思った。周りの情景が目に入らないほど戦闘に没頭していた証だが、まだ終わりが告げられたわけではない。それどころか、眼下ではますます激しさを増している。胸の前の弾納を探って残りの予備弾倉を確認すると、絵梨香はこれであと何体斃せるかを素早く計算した。どうやっても目の前に見えるゾンビの数に比して絶望的な数字しか浮かんでこなかった。それで考えるのを止め、射撃に集中しようと身構えたその頭上を耳をつんざかんばかりの爆音を轟かせた
「あれを見ていると、ちまちま撃っていたのが馬鹿らしく思えますね」
もちろん、ここまで大胆な攻撃ができるのは施設の維持を放棄したからに他ならない。そうなるまで護ってきた自分達の行為が決して無駄というわけではないのだが、そんな風に思わせるほどの圧倒的な死の匂いが硝煙と共に纏わりついていた。同様に別の二ヶ所でも
「倉橋だ。屋上監視班、至急送れ」
即座に反応した絵梨香が応える。
「こちら屋上監視班。どうぞ」
「これより一分後に本隊が正面玄関より脱出する。屋上監視班は合図と共に三十秒だけ中庭を一斉射せよ。建物外の味方に配慮する必要無し。繰り返す、屋外に生存者はいない」
「屋外に生存者無し、屋上、了。開始合図を待つ」
通話マイクから顔を上げると、絵梨香は部下達に射撃準備を命じた。自らも新しい弾倉に取り替えて、射撃姿勢を取る。レシーバーから聞こえた「射撃開始まで三、二、一、今」という倉橋の合図と共に一斉に射撃が開始された。念のため絵梨香も、撃ち方始め、と号令をかけた。
三十秒の斉射は思った以上に長く感じられる。しかも中庭にはつい先刻まで共に飯を喰い励まし合ってきた仲間だった者が大勢いるのだ。今はもう別の何かになっていたとしても彼らに銃弾を浴びせるのに身を切るような思いを抱かずにいられる者など一人もいなかった。それでも誰も引き金から指を離そうとはしない。全員が唇を噛み締めて射撃を続ける。絵梨香も途中で二度、弾倉を替えた。
「……射撃中止まで……五……四……三……二……一……中止!」
撃ち方止め、と絵梨香は腹の底から声を張り上げた。隣では木村が同じように、射撃中止、と叫んでいる。間髪入れずに銃声は鳴り止んだ。
ヘッドセットを通して、ゴーゴー、という怒鳴り声が聞こえるのとほぼ同時に、今まで銃弾が降り注いでいた中庭に隊員達と彼らに護られた施設職員が飛び出して来るのが見えた。絵梨香は木村達には味方と一定の距離を置いた標的を狙わせ、自分は再びM24対人狙撃銃を手にして正門を射界に収める位置まで移動していった。空き地への脱出経路は何台かの戦闘車両と上空のブラックホークにより護られている。絵梨香の移動した位置から姿の見えない他の車両とコブラは、この後降下して来る手筈であるチヌークの着陸地点を防衛しているのだろう。絵梨香は自身の役割を防衛ラインが撃ち洩らした敵の排除と定めて、隊員達の行く手を塞ごうとするゾンビを集中的に捉えていった。その結果、何人かがやられるのが見えたものの、殆どが空き地に辿り着けたようだ。そこから先は屋上の死角に入って窺い知ることはできない。レシーバーから聞こえる途切れ途切れの会話の断片から想像するしかないが、状況はあまり芳しくはなさそうだった。様々な声が通信機に交わる。
「ダイバー2、レスキュー1の左をカヴァーしろ。Zが迫っているぞ」
「ダイバー1からレイダー1へ、これ以上のZの侵攻を抑え切れない」
「南東にいる九六Wだ。こちらの脱出を待つ必要はない。我々はヘリには乗り込めそうにない。構わず行ってくれ」
「レスキュー2、至急離陸しろ。これ以上、地上にいるのは危険だ」
「こちらレスキュー2、まだ全員の収容が完了していない。レイダー1、前方からの敵を排除できるか?」
「レスキュー2、駄目だ。近付き過ぎている。こちらでは排除できない」
「八七偵察よりレスキュー2へ。後部ハッチ付近にZがいるぞ。ハッチを閉じろ」
「レスキュー2、レスキュー1だ。あとはこちらに任せて離陸しろ。野口、無理をするな」
「レスキュー2、機内で発火炎が見えるぞ。誰かが発砲しているのか? どうなっている? すぐに止めさせろ」
「撃つな。機内での発砲は許可していない。直ちに射撃を中止しろ」
突如、雷鳴のような爆発音が鳴り響き、激しい空気の振動が絵梨香の足許にも伝わった。建物の陰から巨大なオレンジ色の炎が立ち昇る。その下から湧いてきた真っ黒な煙が夜空の星を覆い隠していった。悲痛な叫び声がレシーバーを通して聞こえた。
「……クソッ! レスキュー2、ダウン。繰り返す、レスキュー2は失われた」
「レイダー1だ、こちらも確認している。レスキュー1、そちらは無事か?」
「レイダー1、レスキュー1。こちらの被害は軽微。飛行に支障なし」
「レスキュー1、了解した。直ちに離陸せよ。これは命令だ」
「レスキュー1、
巻き上がる炎を背景に唖然として立ち上がった絵梨香の視線の先に一機のCH─47がゆっくりと姿を現す。いつの間にか隣に木村が来ていて、同じように上昇するヘリを眺めていた。
「これで俺達もお役御免ってことですか? まあ、どうせ弾なんて殆ど残ってませんけどね」
いつしか屋上の銃声も鳴り止んでいた。誰もがもはや自分達が脱出できるとは思っていないだろう。取り残される覚悟を決めたその時だ。レシーバーから思いもかけない言葉が飛び込んできた。
「レイダー1より地上の倉橋隊へ。待たせたな。次は諸君らの番だ」
「……こちら倉橋隊。レイダー1、確認するが、我々をピックアップできるのか?」
「そのつもりだ。だが、予定の
「屋上からのエクストラクションロープによる離脱はどうか?」
「それは危険だ。送電線に絡む恐れがあり、許可できない」
「では、中庭に降りられるか?」
「確認する。少し待て。ダイバー1、2、聞いていたか? 地上は中庭への降下を望んでいる」
「こちらダイバー1。降下には南東にある二つの鉄塔が邪魔だ。それさえなければ可能と思われる。ダイバー2はどうか?」
「ダイバー2、同意する」
「レイダー1、了解した。鉄塔を取り除けるかやってみよう。倉橋隊、聞いての通りだ。これより南東の鉄塔を破壊しようと思う。ただし、建物との距離がない。そちらに被害の及ぶ恐れがある。いいか?」
「レイダー1。構わない。やってくれ」
「
コックピット内では交信を終えたAH─1S
「念のため、TOWを積んできて正解でしたね」
「第一目標まで距離三百。しっかりと狙えよ」
言われるまでもなく、一撃で決めるつもりで射手席の三尉はAH─1Sの火器管制システムの発射モードをTOW対戦車ミサイルに切り替えた。通称C─NITE(コブラナイト)と呼ばれる夜間戦闘向上型の特色であるFLIRによる赤外線画像を照準器で覗き込みながら、目標を中心に捉え、発射トリガーを引く。
屋上では鉄塔の破壊に備えて、絵梨香達が反対側の片隅に退避していた。そこに突然の土砂降りを何十倍にも激しくしたような轟音と共に、舞い上げられた砂埃と小石が容赦なく降り注ぐ。僅かな熱気を感じて顔を上げると、鉄塔がゆっくりと傾いていくのが見えた。根元に近い部分の鉄骨はまるで飴細工のように折れ曲がっている。同じことがもう一度、隣の鉄塔にも繰り返され、中庭の上空を覆っていた送電線の大部分が取り除かれた。しかし、完全にクリアになったわけではない。果たしてこれで本当に降下できるのだろうか、と絵梨香は不安に思った。
それは恐らくUH─60JAを駆る彼らも同様だったに違いない。本来の運用規定からすれば到底認められないようなギリギリの範囲での着地だ。一歩間違えれば二機とも墜落する恐れがある。それでもダイバー1、ダイバー2のコールサインで呼ばれる二人の操縦士の胸にあるのは共通した思いだった。即ち、邪魔者さえなければ必ず降りてやる、というものである。
状況を確認した絵梨香はそれを無線で倉橋に報告した。直ちに二階への集合を指示され、屋上の全員にそのことを告げる。身を護るために必要な最低限の装備だけを携えて移動を開始する。無論、絵梨香の場合は狙撃銃も一緒だ。己の分身とも言えるこの装備を手離す気はさらさらない。さすがに上空からのパラシュート投下にも耐えられるSWS(スナイパー・ウエポン・システム)専用ハードケースは持って行けないが、代わりに付属装備品は全て戦闘服のポケットに突っ込んである。そうして二階の通路の中ほどで倉橋達と合流した。その先では階段が防火扉によって封鎖され、何人かが見張りに付いている。別班の富沢達の姿はあるが、村田に指揮された北側の監視班だけがまだ集まっていないようだ。手近にいた篠原二曹に、おやじさんはどうしたのか、と絵梨香は訊ねた。
「わかりません。俺達も今、到着したばかりで」
その時、ちょうど、村田から連絡が入る。
「こちら北側監視班。本部、送れ」
「こちら本部、倉橋だ。どうした?」
レシーバーに野太い村田の声が響く。
「村田です。退路が断たれました。そちらとの合流は不可能」
「おやじさん、今、どこにいる?」
「一階、北の居住区画です」
その言葉にすぐさま館内見取り図が拡げられる。ここからはかなり離れている上、退路は廊下の一つしかない。そこをゾンビに塞がれては確かに退却は不可能に思えた。状況を確認した倉橋は再び呼びかけた。
「わかった。すぐに救援に向かわせる」
自分が行きます、と富沢が即座に名乗りを上げた。だが、倉橋が命令を下す前に返事が返ってきた。
「それは御遠慮します。救援は無用。我々は小隊が脱出するまでこの場を死守することに決めました。他の者も賛成してくれています」
「それは駄目だ。迎えに行く。諦めるな」
「そんなことをすれば脱出の機会を失うだけです。どの途、全員が死ぬ。それよりもそこにいる者だけでも生き延びた方が良い。もう決めたことです。我々に構わんでください。御武運を。以上、交信終わり」
「待て、二曹。応答しろ。村田二曹!」
無線を切ったらしく、それ以降は呼びかけに一切応じなくなった。篠原、安田、一緒に来い、と指示する富沢を倉橋は片手を挙げて制した。その意味を理解した富沢は無言でその場に留まった。再度、倉橋が口を開く。
「我々はこれより建物を出て中庭にてヘリに分乗、速やかに離脱する。合図と共に一階に突入。一気に表に走り出ろ」
「しかし、一階はZが占拠しています。突破は難しいかと……」
下士官の中では最も若い安田が、全員を代弁して言った。
「それについては曹長から指示がある」
倉橋と顔を見合わせた富沢が頷いて説明を始めた。
「本隊が我々のためにと置き土産を残しておいてくれた。一階の正面玄関付近に
「建物内でクレイモアなんて使用して大丈夫なんですか? あれって確か米軍の対人地雷とは違うんじゃ……」
「そうだ。我々は見た目の類似性からクレイモアと呼んでいるが、正式には『指向性散弾地雷』、おっと今は『指向性散弾』だったな、米軍が使用する対人地雷M18とは別物だ。威力も我々のは対車両を想定しているだけあってM18とは比べものにならない。正直、屋内で使用したらどうなるかは俺にもわからん。時間がなくてかなり大雑把に設置したらしいしな」
自衛隊の指向性散弾はスウェーデンで開発された対車両用地雷であるFordonsmina13(FFV013)を国内でライセンス生産したものである。弁当箱を内側に湾曲させたような形をしており、米軍が使用する
「どうせ他に助かる道はないのよ。手段があるだけマシと考えましょう」
村田達にはそれすらなかったのだから、とは言うまでもないことだった。
皆がその言葉に決意を漲らせて頷く。直ちに準備が開始された。上空の救援部隊にもその旨が伝えられる。念のため、本隊の収容を終えたチヌークは別のポイントで待機することになった。準備が整うと全員が防火扉の前に集まる。絵梨香はM24を肩から斜め掛けにして、八九式小銃を手にしていた。弾薬は使われなかった分を均等に振り分けて、絵梨香の手元には予備弾倉を含め三つが渡った。十秒後に突っ込むぞ、と倉橋が言って、五秒前から全員が見えるように指でカウントを取り始める。全部の指を折ったところで、隣の富沢の肩を軽く叩いた。それを合図に富沢が起爆コードに繋がれたスイッチを捻った瞬間、下から突き上げるような衝撃が足許を襲い、建物全体が震えて、全部の窓ガラスが割れ、壁に亀裂が入り一部が剥がれ落ちてきた。それでも何とか倒壊は免れたようで、床も抜けずに済んだ。まだ完全に揺れが収まり切らないうちから、扉を開けろ、と倉橋が怒鳴って、木村達が防火扉を開けようとするものの、爆発の影響で歪んだらしくなかなか開かない。三人がかりで漸くこじ開けると、突入しろ、ゴーゴー、という掛け声で富沢を先頭に次々と通路を飛び出していく。絵梨香も後に続いた。階段では運良く散弾を免れたゾンビが富沢の手で素早く斃される。一階に到着すると、そこは殆ど原型を留めていない廃墟と化していた。粉々に吹き飛んだ家具とコンクリートの細かな破片が砂塵のように舞い上がり、足許はバラバラになった内臓と骨と皮膚と謎の部位で覆われて床はまったく見えない。無数に穴が開いた壁には真っ赤なペンキを撒き散らしたように血と肉片がべっとりと張り付いている。注意深く走らないと靴底に踏みつけた脂肪で滑りすぐに転びそうになる。一体どれほどの死体を使えばこうなるのか見当も付かなかった。全てのドアや窓が失われ壁というより鉄骨だけの吹き曝しになった玄関口を抜けて、絵梨香達は中庭に躍り出た。そこも辛うじて手や足や頭とわかる身体の一部と、どこの部分かまったく不明な赤い塊が散乱していた。遠くの電線には二メートルほどの腸が祭りの吹き流しのようにぶら下がっている。何人かは足許に嘔吐していたが、不思議と絵梨香は吐かずに耐えられた。凄惨過ぎて却って現実味がなかったからかも知れない。そこに上空から二機のブラックホークが慎重に舞い降りて来る。建物と反対側のキャビンドアではゾンビをこちらに近寄らせまいとする航空士が
「先に行ってください。あとに続きます」
絵梨香は頷くと、ヘリに向かって駆け出した。先に搭乗していた隊員達が手招きするのが見える。チラリと横に視線を走らせると、もう一機のブラックホークに倉橋と富沢が乗り込むのがわかった。残すは絵梨香と篠原だけだ。機体の真横に来るとキャビンの淵に足をかける。木村が腕を掴んで機内に引っ張り上げてくれた。その背中で突然、悲鳴が上がる。振り返ると篠原が背後からゾンビに抱きつかれていた。咄嗟に機内から外に向けて銃を構えるが、篠原の身体が盾になっていて狙えない。反射的にヘリから飛び降りようとして誰かに肩を掴まれた。見ると木村や井上が絵梨香を押さえ込もうとしている。放せ、と怒鳴りつけるが、彼らは首を横に振った。尚も振り解こうとする絵梨香に対して木村が指し示した指の先では、篠原が喉元から鮮血を吹き出してスローモーションのように地面に倒れるところだった。それを見た航空士がヘッドセットを通じてパイロットに離陸の指示を出す。間髪入れずにヘリは浮かび上がる。辺りのゴミや血の着いた洋服の切れ端や誰のものかわからない髪の毛の束や乾いた皮膚や砂埃を舞い上がらせながら上昇していった。地面に倒れた篠原の姿が徐々に小さくなっていく。その体に別のゾンビが次々に覆い被さる。やがて足許は無数のゾンビで埋め尽くされ、篠原の迷彩服はその中に呑み込まれて見えなくなった。
もうとっくに絵梨香を離していた木村や井上がキャビンの床にどっかりと腰を下ろした。絵梨香も力なくその場にへたり込む。目的の高度まで上昇し終えたヘリは隊員達を振り落とさないようゆっくりと慎重に施設の上空を旋回していった。眼下に先程まで自分達がいた建物の姿が映る。ふとその一角に目が吸い寄せられた。そこだけにゾンビが殺到していたのだ。北側監視班が閉じ込められている辺りだと気付く。ちょうどその時、室内でマズルフラッシュが閃くのが見えた。それにより何体かのゾンビが斃れるのがわかったが、その何倍もの数が窓際に押し寄せて来ていた。続々と建物内に侵入して行く。しかしながら再び発火炎を目にすることはなかった。それで絵梨香は地上を見守るのを諦め、上空へと視線を転じた。そこには灯火一つ煌めくことのない真っ暗な世界がどこまでも拡がっていた。やがて絵梨香はその眺めがこの数十年間、絶えて久しかった光景だということに思い至った。
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