4 検証※
「一応、手順をおさらいしておく。この場で化学防護服を着たら俺と一緒に一階まで下りて貰う。一階では作業室にゾンビを閉じ込めているから、そこに向かうことになる。もちろん、ゾンビは身動きが取れないようにしてあるので心配しなくていい。俺が部屋の扉を開けたら、ゆっくりと中に入って可能な限りゾンビに近付くだけだ。わかっていると思うが声は立てるな。俺も別方向から同じように接近する。ゾンビがこちらに反応して襲って来る素振りを見せたらそこで終了だ。慌てず落ち着いて部屋を出ろ。もし不測の事態が起きた時は他のことには構わず四階に戻れ。その場合は俺を気にする必要はない。いいな?」
美鈴は神妙に頷いた。化学防護服による検証は智哉が美鈴に話した二日後に行われることになった。その方法とは次のようなものである。一階の食品作業室の一つにゾンビを動けないよう固定しておき、化学防護服を着た智哉と美鈴とで慎重に近付いて、どの時点で獲物と認識し襲って来るかを確認する。その距離が防護服を着ていない時と比べて明らかに短ければ一定の効果有りと認められるわけだ。智哉とすればできることなら二、三回は別のゾンビでも試して誤差の範囲を知っておきたいところだが、美鈴の精神状態を考えれば一度きりが限度だろう。手順自体は単純なものなので、準備の大半は主に安全対策と化学防護服の点検に費やされた。まずは売り場側から実験対象となるゾンビを連れて来ることから始め、これはいざという場合に備えて力の弱そうな中年女性のゾンビを選別した。そのゾンビをバックヤード内の作業室に移動させると、そこにあった業務用大型冷蔵庫に頑丈な鎖で縛り付ける。念のため両手を後ろで拘束し、厳重に猿轡をかました上でフルフェイスのヘルメットを被せた。これで万が一襲われても噛みつかれる心配はないはずだ。ヘルメットのバイザーは外してあるので視覚が影響を受けることもない。作業室のドアは当然ながら外からしか開けられないようにしてある。検証当日の午前中までにそれらの準備を整えて、午後からは化学防護服の試着に当てた。智哉も美鈴も実際に化学防護服を着るのはこれが初めてで、妹達にも手伝わせて冷媒に使う氷の重さも加えると十三キロほどにもなる循環式酸素呼吸器のバックパックを背負う。その上から鮮やかなオレンジ色の防護衣を身に着けた。防護衣自体も八キロ近くあり、全て合わせると総重量は二十キロを超えることになるが、全身で支えるようにしているせいか重さはさほど負担ではない。それよりも暑さの方が閉口した。防護衣は足許から頭部までが一体となったタイプで、地面にまとめて置いた状態から上に引き上げるようにして着ていくが、気密性のあるファスナーを閉じると内部に熱気が籠るのは避けられないためだ。それでも夏場に比べたら天国みたいなものだろうと智哉は思った。防護服を着るのは外気の侵入を防ぐのが目的ではなく、内気を外に出さないことなので、排気弁は閉じて循環式呼吸器によるスーツ内気圧が高まり過ぎないことも確かめる。それだけの点検をしておいて、一旦防護服を脱ぎ、休憩してから夕方の本番に備えた。暗くなるまでに済ませてしまおうと四時過ぎになって再び妹達の手を借り化学防護服に袖を通した智哉と美鈴の二人は、お互いの装備を点検し合うと四階の部屋を出た。廊下を突き当たりまで進んで階段の手前に来ると、智哉は立ち止まり美鈴に声をかけた。マスク越しなのでなるべく大きな声で話すが、それでも何とか聞き取れる程度の音量でしかない。
「この先、会話は殆ど不可能だ。俺から目を離すなよ」
返事の代わりに美鈴は、智哉の防護服の袖口辺りを握った手に力を込めた。その手は部屋を出てからずっと智哉を掴んで離さない。身動きが取れず危ないので止めさせようかとも思ったが、それで少しでも落ち着くのであればと考え直して好きにさせておいた。二人でひと塊になりながら静かに階段を下って行く。一階に到着したところで、智哉は身振りで目的の作業室の位置を教える。智哉が先頭に立ち、その後ろを腕にすがるようにして美鈴が続き、ドアの前まで来た。準備はいいか、という意味を込めて智哉は美鈴に視線を送る。防護服のアイパーツを通して美鈴が一度深呼吸してから頷くのが見えた。智哉は美鈴の手を軽く振り解いてドアに近寄り、封印のためにしてあった南京錠を外した。ドアを開いて、まずは自分が室内に足を踏み入れた。部屋の最も奥深い位置に中年女性のゾンビが鎖で繋がれていることを目視で確認して、美鈴に向かって手招きする。恐る恐る近付いてきた美鈴が視界の端にゾンビを捉えたらしく、ピタリと足を止める。無理はさせずに暫くそのままにしておく。普通ならばとっくに獲物の存在に気付いて襲おうとしてもおかしくはない距離だが、ゾンビは無反応だ。やはり化学防護服にはゾンビを避ける一定の効果はあるらしい。あとはどれくらいまで胡麻化せるかだが、それを知るには美鈴を近付かせるしかない。急かしてパニックにはしたくなかったので、美鈴が安全だと納得するまで待つつもりでいた。面体内に取り付けられたヘッド・アップ・ディスプレイ式のボンベ残圧表示装置は四個あるLEDランプが一個消灯するごとに満充填の四分の一が消費されたことを意味するが、まだ一つも消えていなかった。仕様書では凡そ百五十分の使用が可能とあったが、智哉達が扱い慣れていないことと安全マージンを考えて、六十分が限界と考えていた。そのため残り時間は約四十五分。そこから一分ほどが経過して漸く落ち着くことができた模様の美鈴が再び足を踏み出して、智哉の真横に並んだ。ここからはお互いが左右に分かれてさらに接近することをゼスチャーで伝える。当然、ゾンビの標的となるのは美鈴だけで智哉まで同じことをする必要はないのだが、それを悟られないための偽装工作だ。従って、表面的には緊張を装いつつ、美鈴とゾンビの距離のみに注意を払う。一歩一歩、智哉の合図と共に美鈴はゾンビに向かって進む。その距離が七メートルほどに迫った辺りから、ゾンビは美鈴を注視し出した。まだ暴れるまでには至っていないが、じっと見据えたままで目を離そうとしない。襲うべき相手なのか迷っている様子だ。さすがにそうなっては美鈴もそれ以上は前に踏み出せなくなった。その場にて固まる。不安げな表情で智哉の方を顧みた、その瞬間だ。突然ゾンビの表情に変化が現れたかと思うと、見る間に狂気に歪んで、美鈴に襲いかかろうとした。鎖で固定されていては当然ながら果たせなかったが、重量百五十キロはあろうかという大型冷蔵庫を五センチほども移動させる勢いだった。その迫力に気圧されたように美鈴は思わずよろけて尻餅をつく。概ね予想通りの展開を見せたので、検証はここまでで良いだろう。智哉は急いで部屋を横切って美鈴の下に駆け寄る。抱え起こそうとするが、美鈴は蹲ったまま起き上がれない。防護服のアイピース越しに中を覗くと、フェイスマスクを装着しながら荒い息遣いを繰り返す彼女の姿が見えた。
(これは過呼吸か……?)
過呼吸とは過度の換気により血中の二酸化炭素濃度が減少し過ぎることで血液がアルカリ性になり(呼吸性アルカローシスと言う)、その結果、眩暈や痺れ、痙攣、麻痺、意識混濁といった状態を引き起こす症状だ。厳密には過呼吸症候群、または精神的な要因で発生する場合を過換気症候群と呼び、無意識下においては延髄が反射により呼吸を停止させようとする一方で、意識を司る大脳皮質は息苦しさを感じて更なる呼吸を行うよう求める二律背反から悪循環に陥るケースが多い。対処法としては二酸化炭素の供給量を増やせば良いため、以前は紙袋などを用いて吐いた自分の呼気を再度吸わせるペーパーバッグ法が広く知られていたが、現在では治療効果が低い上、誤ったやり方だと窒息の恐れもあることから医療現場では避けられているそうだ。穏やかに語りかけるなどして落ち着かせた方が効果的らしい。そうしたことを思い出したが、どちらにしても防護服を着ていては無理な相談である。呼吸器による酸素量の調整も咄嗟に考えたが、加減がわからなかったので止めておく。とりあえず部屋から連れ出そうと、引きずるようにして何とかドアの外まで運んで行った。その時、別の場所からも大きな物音がし始めた。バックヤードと売り場を隔てる出入口の方からだった。一先ずその場に美鈴を残し慌てて確かめに行くと、スイング式のドアの前に何体かのゾンビが集まって騒いでいた。どうやら作業室にいるゾンビの興奮状態が移ったようだ。直視しなくても獲物を見つけたサインは近くのゾンビに伝播するのだと、この時初めて知った。だが、迂闊さを悔やんでいる暇はない。売り場側に集まったゾンビは無理矢理にドアを押し開こうとして、床に突き立てた落とし棒がギシギシと軋んでいる。智哉は美鈴の下に戻ると、もはや着ている意味のなくなった防護服を背面ファスナーを開いて脱がせてやる。酸素呼吸器も取り外して身軽になったところで、まだ苦しそうな呼吸を続ける美鈴の背中を擦ってやりながら、手短に指示を与えた。
「なるべく浅く呼吸することを意識して息を吸え。落ち着けばすぐに楽になる。ただ、のんびりと回復を待ってはいられなくなった。売り場のゾンビが興奮してこっちに入って来ようとしている。俺の手落ちだ。すまない。俺がドアを押さえている間に、お前は苦しいだろうが何とかして四階に向かえ。部屋に辿り着いたら中に入って鍵を掛けろ」
「岩永……さんは……どう……する……気……」
「俺のことは心配しなくていい。それより動けるな? 俺は手を貸してやれない。自力で這ってでも戻れ」
まだ何か言いたげな美鈴を置いて、智哉は防護服を脱ぐ間も惜しみ駆け出した。バックヤードの出入口に急いで戻ってスイングドアを内側から押さえる。ゾンビを興奮させているのは美鈴の存在だけなので、彼女がここからいなくなれば騒ぎは収まるはずだった。それには智哉が耐えている間に、何としてでも美鈴に立ち去って貰わなければならない。美鈴を連れ帰るよりドアを押さえる方を優先させたのは、その方が確実と判断したからである。幸いにも騒いでいるのはドア付近にいた奴らだけで、フロア全体に波及しているわけではないらしく、圧力も以前にマンションの守衛室のドアを押さえた時に比べればマシな方だ。どうやら完全に獲物を捉えた時とは執着度合いが違うらしい。もしかしたら同じように見えるゾンビの興奮状態にも何段階かあるのかも知れない。いずれにしてもこの分なら一人でも何とか保ち堪えられそうだった。もちろん、これ以上寄って来なければの話だが。
その頃、美鈴は必死の思いで立ち上がろうと試みていた。息苦しさと手の痺れは薄れる気配はないが、何とか足には多少の力が取り戻せたようだ。壁に身体を半分預けるようにして、よろよろと階段に向かって歩く。智哉のことは心配には違いないが、今の自分に直接手助けできることがあるとは思えない。自分がここにいることが智哉を窮地に陥れていることは自覚していた。彼一人ならとっくに逃げ出しているだろうからだ。故に一刻も早くこの場を離れることだけが、智哉を解放してやれる唯一の手段であることは疑いようがない。元は智哉の命令でやったことなのだから美鈴が責任を感じる必要はないという主張は、この際どうでも良かった。とにかく智哉に無事に戻って来て欲しい一心で、美鈴は懸命に胸の苦しさに耐えて一歩一歩前進し続けた。そうしてやっとの思いで階段まで到達すると、這うように上がり始め、暫くして呼吸も楽になってきたので立ち上がって階段の手摺を支えに歩いた。四階まで到達したところで、足音を聞き付けて出迎えに来た妹達に助けられながら部屋に戻る。鍵を掛けることには一瞬躊躇うが、室内には加奈や優馬がいたこともあって智哉の言い付けを守ることにした。あとは祈る気持ちで智哉の帰りを待つ外はない。それは智哉に死なれては自分達も生きていけないからなのか、それとも他に理由があることなのかは当の美鈴自身にもよくわからなかった。
智哉がスイング式ドアを押さえ始めて十分ほどが経つと、次第にゾンビ共も大人しくなってきた。そのことから美鈴がこの場を無事に立ち去ったことを悟る。念のため、完全に鎮静化してからもさらに十五分ほど留まって様子を見た。ゾンビが元通り売り場に散ったことを見極めた上で、ドアを点検し壊された箇所がないことを確認して漸く扉の前を離れる。化学防護服は脱いで、酸素呼吸器も背中から降ろした。美鈴の使用した物と合わせて四階まで運ぼうかと迷ったが、この状況でそれをするのは不自然だと思い、後で回収することにして置いていく。不測の事態に備えて検証に利用したゾンビだけは売り場側に戻しておくことを忘れない。
「岩永だ。もう心配ないから開けてくれ」
その智哉の言葉に、間髪を入れずにドアが開かれる。目の前にまだ若干、顔色が悪そうな美鈴が立っていた。
「良かった……無事だったんですね」
「どこも噛まれちゃいない。信用できないなら裸にでもなるか?」
相変わらずの憎まれ口に、美鈴は安心した。
「そっちはどうだ? 気分は良くなったのか?」
「はい。落ち着いたら大分楽になりました。御迷惑をかけてすみませんでした」
いや、俺の方こそ安全は保証するとか言っておきながら危険な目に遭わせて悪かった、と珍しく殊勝な表情で智哉は言った。けど、そのおかげで防護服がゾンビに及ぼす影響がわかって助かったよ。
「あれを着たら私達でも外に出られるんでしょうか?」
半信半疑な様子で美鈴がそう訊ねてくる。
「それは何とも言えないな。今回の検証で防護服に一定のゾンビを避ける効果があるのはわかったが、同時に限界も見えた。七メートルほどだったな。それ以上、近寄れば防護服を着ていても見破られる上に、一体が気付けば例え他が見えていなくても近くのゾンビには伝わるようだ。それを知らなかったせいで危うく襲われかけたわけだが、そのことが判明しただけでも今回の実験に価値はあったと俺は思っている」
「でも結局、防護服は役に立たないってことでしょ?」
隣で聞いていた加奈が話に加わる。優馬は関心がないのだろう、お気に入りのアニメを鑑賞していて会話には見向きもしない。
「そうとは言ってない。使いどころが難しいということだ。これから先、どうしても外に出なきゃならないことがないとは限らないからな。その時には何もしないよりは有効な手立てになるはずだ。それに歩き回るのは危険だが、車での移動ならかなりのリスクは抑えられると思う。現にここに来た連中がそうだったろう? 当然、過信し過ぎれば彼らの二の舞だし、バレた時には却って足枷になるのを覚悟しなきゃならないが」
「どこでも使えるわけではないということですね」
「そんな都合良くはいかないさ。それでも一か八かで出て行くんなら別に引き留めやしないけどな。もっともお前の場合はまず運転を覚えるのが先だろう。その気があるならな」
「はい。よろしくお願いします」
やけに素直な美鈴の態度に智哉は拍子抜けする。いつもならもっと不服そうにしていてもおかしくはない。ましてやあんなことがあった直後だ。責められても仕方がないと、ある程度は智哉も受け容れる覚悟をしていた。それが責めるどころか、智哉の生還を純粋に喜んでくれているらしい節が見て取れる。
(まさか今頃になってストックホルム症候群というわけでもないだろう)
ストックホルム症候群──一九七三年八月にストックホルムで発生した銀行立て籠もり事件において、人質となった人の中に犯人への共感を抱く者がいたことから名付けられた精神医学用語の一種だ。自身の生命を脅かすような存在と長期間一緒に過ごすことによって、相手に好意を抱いたりその立場に理解を示したりする心理状態になることを指す。これは例え強要された理不尽な関係であっても自らが親近感を持ち相手にも親近感を抱かせる方が助かる確率が高まるという本能に根差した合理的な防衛戦略であると考えられている。今、まさに智哉に対する美鈴の態度がそうではないかと勘繰ったのだ。とはいえ、この程度のことで好意があると捉えるのはさすがに図々しいと感じたので、単に助けたことへの感謝の表れだろうと思い直した。それはさておき、どっと疲れが溜まる一日だったことは間違いない。早くも疲労感が押し寄せて来そうだった。智哉はソファに深くもたれ直すと、目を閉じて深い溜め息を吐いた。
その夜。疲れてはいたがなかなか寝就けなかった智哉が自分専用とした小部屋でベッドに寝そべりながら本を読んでいると、軽くドアがノックされた。それに美鈴の声が続く。
「岩永さん。まだ起きてますか?」
起きている、と智哉は答えた。入ってもいいか、と訊くので、鍵は掛かっていないから好きにしろ、と言ってやると、遠慮がちにドアが開かれ美鈴が顔を覗かせた。そのまま静かに足を踏み入れる。相変わらずの化粧気のない素顔は風呂上りなのか僅かに頬を紅潮させている。服装はこの時間によく目にするパジャマ代わりのスウェットの上下に、今日は智哉が下の階から入手した水色のパーカーを羽織っていた。中に入ると後ろ手にドアを閉め、暫く興味深げに辺りを見回して、男の人の部屋ってこんな感じなんですね、と感心したように呟いた。別段、部屋への出入りを禁止しているわけではないので、普段は智哉に気兼ねして自ら立ち入らないようにしているのだろう。男の部屋と言っても日常生活とはかけ離れた状況だが、それでも物珍しかったらしい。
「一般的な暮らしとは言えないから参考にはならないぞ。これを見て世の中の男がみんなこうだと幻滅されても責任は持たないからな。それよりどうした? 夜の奉仕なら一週間の免除はまだ残っているはずだが。それとも我慢できなくなって自分から抱かれに来たのか?」
そんなわけありません、と美鈴は冷たく言い返すが、その口調からいつもの険が幾分薄れているように感じられたのは、恐らく智哉の思い過ごしではなかろう。
「少しお話がしたくて。御迷惑でなければですけど」
智哉は手にしていた本を閉じてベッドに起き上がった。美鈴にもベッドサイドに腰を下ろすよう目で促す。別に他意はなく、他に坐れる場所がなかったからそうしただけだ。美鈴は一瞬逡巡するように身構えるが、すぐに思い直した様子で智哉の脇に来てベッドに腰掛けた。
「それで話っていうのは?」
「夕方のことです。助けて貰ったお礼をまだちゃんと言ってなかったので──」
「それは気にしなくていいと言わなかったか? トラブルを招いたのは俺の責任だし、安全は保証すると約束したんだから庇うのは当然だ」
「それでも感謝を伝えたかったんです。私が勝手にそうしたいだけなんで、岩永さんは聞き流してくれて構いません。とにかく危険な目に遭ってまで護っていただいてありがとうございました」
改まってそう言われると、智哉としては何と返して良いのか困った。そもそも危険な目になど遭ってはいないのである。それに護っているということなら普段からその通りで、敢えて今更言われるまでもない。そう答えようかとも思ったが、いつもなら気軽に言えるそんな皮肉も何故か今日のところは口にするのが憚られた。ああ、とか、うん、とか曖昧に頷くだけで精一杯だった。
そんな珍しく口ごもる智哉を見て、美鈴は無性におかしくなった。智哉に告げた言葉に嘘はない。自分が礼を言いたかっただけで、特に何かを期待したわけではなかった。それどころか、どうせまた当たり前という顔をされるのが落ちで、それはそれで構わないとまで考えていたのだ。まさかこんな展開になろうとは思いもかけず、智哉でも狼狽える一面があると知れて何となく嬉しかった。ただ、伝えたかったことを言ってしまうと、他に話すことがなくなり、どうしたものかと美鈴は思案に暮れた。黙っていると余計に緊張しそうだったので、何とか会話の糸口を探そうと懸命に頭を搾った結果、あの、岩永さんはどうして平気でいられるんですか? という質問が口を突いて出た。
平気? と智哉は思わず訊き返した。質問の意味がよく掴めなかったのだ。
「えっと、つまり世界がこんな風になっても取り乱したり自棄になったりしないじゃないですか。いつも的確に行動していて、迷いや躊躇いがないのは何でだろうってずっと思っていたんです」
それはゾンビに襲われる心配がないからだ、とはもちろん言えない。代わりに、そう見えるだけで本当は違う、と答えた。
「検証の時だって内心じゃ動揺していたさ。けど、焦っても事態が好転しないことはこれまでの経験で知っていたからな。冷静さを保とうと必死で自分に言い聞かせていたんだよ」
「そうは見えませんでした。終始落ち着き払っているように感じられて、それで私もパニックにならずに済んだ気がします」
「そうか……だったら俺はやっぱり狂っているのかも知れないな」
「狂っている……?」
思いがけない智哉の言葉に、美鈴は驚いた。
「ああ。お前には信じられないことだろうが、俺はこの世界が案外気に入っている。このままで構わないとさえ思っている」
「……人が簡単に死ぬような世界がですか?」
智哉は頷いた。どうしてこんなことまで話しているのか、自分でも不思議だった。もっと差し障りのない受け答えもできたはずである。疲れていて親和的な雰囲気に呑まれているのだろうか? そうだとすれば危険な兆候と言わざるを得ない。情に流されるのは智哉が最も危惧してきたことだ。だが、ここまで話してしまったものは仕方がない。どうせ理解されないだろうと内心で思いつつ、言いかけたことは最後まで言ってしまおうと智哉は腹を決めた。
「こうなる前にはなかったものが、ここにはあるからな」
「それってお金とか物とかってことですか?」
「いや、そうじゃない。それなら以前の世の中だってガムシャラに働けば手に入れられなかったわけじゃないだろう? 俺が思う前にはなかったものっていうのは、ひと言で言えば本音で生きられる世界ってことかな。言葉にすると陳腐だが、他に表現しようがないからそう言うしかない」
「本音で生きられる……」
意外そうな顔で美鈴が繰り返す。想像していた回答とは違っていたようだ。
「別に自分を押し殺して生きてきたとか今までは本当の自分じゃなかったとか、そんな大それたことを言う気はない。こうなる前の世界じゃ何をするにもいちいち面倒な手続きが必要だったろ。車に乗るならシートベルトをしろだの、バイクならヘルメットを被れだの。自分の身は自分で護るって言っても駄目で、子供じゃないんだから放っておいてくれと言っても聞き入れて貰えないんだ。誰かに迷惑をかけてるわけでもないのにな。過保護でお節介で押しつけがましく、それが親切だと信じて疑わない人間ばかりいる。しかも本気で相手の身になって心配しているわけじゃない。大半は自分が批判されたり責任を取らされたりしたくないから、何重にも言い訳を用意しているだけなんだよ。酒のコマーシャルには必ずと言って良いほど飲酒は二十歳になってからだの、飲み過ぎは身体に良くないだのって、わかり切ったことまで表示するのが良い例さ。サラ金のCMで、御利用は計画的にってのもあったな。テレビにペットが映りゃ動物に配慮してますだし、食べ物を粗末に扱えばスタッフが美味しくいただくのが決まり文句だ。このドラマはフィクションだなんて観ればわかる。挙句に公園じゃ芝生に入るな、なんて注意書きまであるんだぜ」
「でも、それって必要だからじゃないですか?」
「もちろん、そうだろう。理由はあるんだろうさ。芝生を汚さないようにとか、一部の人間だけが使うのは不公平だとか、もっともらしいのがな。けど、本当はそんなことはどうだって良くて、注意する側だって自分の意見として口にしているわけじゃない。前例があるからとか他がそうしているからとか、そんな程度で決めただけだ。だからいざ、何故そうなのかと問われても何も答えられない。援助交際が流行った時だって、悪いことだと言いながらどうしてやってはいけないのかをきちんと説明できた大人なんて見たことはないね。せいぜい自分を大切に、みたいな的外れなことを言うのが関の山でな」
「援助交際はしても良いことだと?」
「勘違いしないでくれ。俺は肯定も否定もしてねえよ。やって駄目なことならその理由を示せと言っているだけだ。自殺は間違っていると言うなら、命が大切だって根拠を明らかにすべきだろ。だったらどうして戦争はなくならないのかという反論にも答えなきゃならない。ところがそんな質問をすると、当然だろうとか決まっているとか判で押したような回答で胡麻化そうとするか、下手をすると怒り出す奴までいる始末だ。少なくとも俺は見ず知らずの人間が自殺しようと心は痛まねえよ。赤の他人が何人死んだところで、本気で悲しむことなんかできない。でも、そんなことを人前で言ったら前の世界じゃ顰蹙ものだったよな。社会の良識という目に見えない檻に囲まれて、そこからちょっとでもはみ出そうものなら途端に悪者扱いされる。疑問を挟むことも許されない。だから全員がいつも周囲の様子を窺い少しでも他人と違っていないかを常に気にしてビクビクしながら生きていかなきゃならなかった。そんな息苦しい世の中に戻って欲しいとは俺にはどうしても思えないんだよ。それに比べたら助けたい奴は助けてそうじゃない奴は見捨てても何の言い訳も必要がない今の世界の方が何倍もマシに思える。本音で生きられるっていうのはそういう意味だ」
「それって自分がいつ死ぬかもわからないことより大事なんですか?」
「どうせいずれはみんな死ぬ。そう考えれば俺には大した問題じゃないね。理解しろとは言わないし、理解できるとも思わないが」
「……そうですね。私にはわかりません」
それはお前がまだ正常だからだ、と言おうとして止めておいた。言ったところで意味のない気がしたからだ。
それから暫しの沈黙が訪れた。その気まずさに耐えかねた美鈴が、あの、そろそろ失礼します、と言って腰を浮かしかけた時、何気ない動作で智哉が肩を回した。そういえば話している最中もしきりと首を捻っていたことを思い出す。
「もしかして腕とか肩とか凝ってますか?」
いつもはあまり見ない智哉の仕草に美鈴はそう訊ねた。
「まあな。今日は特に色々とあったからな。さすがに疲れた。お前は日中あんなことがあって平気なのか?」
「もうすっかり気分は良くなりました。こう見えて体力だけには自信があるんです。……それに岩永さんと違って若いですから」
「……ああ、そう。だったら明日からもっと忙しくさせてやるよ」
「良いですよ。岩永さんはお年を考えて無理なさらないでください」
いつの間にそんな減らず口が叩けるようになったのだろう、と智哉は考えた。そんな間柄ではなかったはずだ。この変化をどう見るべきか? 親近感の現れとして歓迎すべきか、現実逃避と忌避した方が良いのだろうか──。
「手を出してください」
智哉が判断を付きかねていると、唐突に美鈴が言った。
「えっ?」
「マッサージしますから手を貸してください。これでも上手いって評判なんですよ。部活でよく仲間にしてあげてましたから」
智哉が言われるままに右手を差し出すと、美鈴は両手で挟み込むようにしてそれを持ち、左右の親指で掌のツボを押していく。自分で言うだけあって慣れた手付きだ。人間の部位の中で最も繊細な働きをする手には様々な神経網が交錯しているためか、そこを絶妙な力加減で揉まれていると、確かに何とも言えない心地良さが拡がる。
「どうですか?」
「……気持ち良いよ」
指も一本一本丁寧に伸ばされて、間の水掻きも押される。爪も上下左右と満遍なく摘まれた。右手が済むと今度は左手に移って、同じ要領でマッサージされた。
「次は肩をやるんで後ろを向いてください」
「そこまでしなくてもいいよ」
「いいから黙って従って。取引じゃありませんから何も要求したりはしませんよ」
皮肉まで身に付けたようだ。智哉は抵抗を諦めて言われた通りにする。
「痛かったら言ってください」
そう告げて美鈴は智哉の肩に両手を置くと、ゆっくりと筋肉を掴むようにして揉み解していく。智哉が意外に感じるほどの力強さだった。肩甲骨の周りもぐいぐいと圧迫していき、背骨に沿ったツボも両側から挟むように刺激していった。
「凄い凝ってますね」
元々、慢性的な肩凝りや腰痛は智哉の職業病とも言える悩みの種だった。ゾンビに噛まれた直後は暫く解消されていたが、それがここに来て智哉自身も気付かないうちにぶり返していたようだ。その筋肉の強張りが美鈴の手により一枚一枚薄皮を剥ぐように抜け落ちていくのがわかる。
「今度は俯せになってください」
もはや智哉に逆らおうという意思はなくなっている。素直にベッドに横になって、されるがままに任せた。その智哉の上に美鈴が跨るようにして乗ってくる。服越しでも両脇に美鈴の柔らかな太腿の感触が伝わった。
「重くないですか?」
「ああ」
「良かった」
【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】
美鈴の方に振り返ろうとして、何も見えないことに気付いた。ベッド脇にあった電気ストーブも消えている。サイドテーブルに手を伸ばしてフラッシュライトを掴むと点灯する。薄暗い中に浮かび上がった美鈴の表情には不安と怯えが現れていた。
「いつからこうなった?」
「たった今です」
智哉の背中から降りながら美鈴がそう答える。予備の懐中電灯を美鈴に持たせ、自分の部屋に戻っているよう指示を与えると、智哉は廊下へ飛び出して行った。そこも常夜灯にしていた明かりが消えて真っ暗だった。どうやら停電なのは間違いなさそうだ。
(とうとう来るべき時が来たか)
フラッシュライトの灯りを頼りに店内の各所を点検して回る。予め停電に備えて、バッテリーや非常用発電に自動で切り替わるようセットしておいたものが、正常に作動しているかを確認するためだ。それらの見回りが済むと、智哉は四階に戻って外に通じる扉から屋上に出てみた。見渡す限りの街の景観は今や果てしない漆黒の闇に包まれて、僅かに残っていた光点もどこにも存在しない。微かな月明かりを受けて辛うじてそうとわかる屋上で、智哉の持つライトだけが人工的な光を発していた。その大海原を漂う一艘の小舟を思わせる余りの頼りなさに、早くも智哉は身震いを覚えた。
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