3 交渉(トレード)
来訪者が現れた翌日から早速、智哉は代わりの化学防護服探しを始めた。見つかるとすれば大病院か消防署だろうと当たりを付け、まずは探すのに手間取りそうな病院は避けて近隣の消防署を回ってみることにする。ひょっとしたら籠城している者が居るかも知れないと思ったが、数ヶ所回っても誰にも遭わず、緊急車両も殆どが出払っていて蛻の殻だった。そのためなかなか目当ての防護服を見つけられなかったが、五ヶ所目にして漸く一台だけ化学車と描かれたそれらしい車両を発見した。側面の収納棚のシャッターをこじ開けると、中に陽圧式防護衣や酸素呼吸器、フェイスマスクなどがあり、それらを持ち出すついでに役に立つかわからなかったが、画像探索機や地中音響探知機、放射能測定器なども入手する。
その帰り道、智哉はとある場所に立ち寄った。電話帳を調べて見つけた市内の銃砲店の一つで、前日の一件によりやはり強力な武器の必要性を感じ、銃を手に入れようとやって来たのだ。その店は商店街の表通りから一本外れた裏路地にあった。外から見たところ、入口はシャッターで固く閉じられていて窓もなく店内は窺い知れなかったが、表の看板に「銃砲火薬店」との文字があるので間違いないだろう。シャッターは強引にこじ開けようと思えばやれなくもなさそうだったが、商店街の一角だけに近くに潜んでいる人間がいてもおかしくはなく、人目を引きたくなかったため、別の侵入経路を探そうと裏手に回った。そこで開いたままの通用口を見つけた。よく見れば入口の鍵が壊されている。どうやら先客があったらしい。考えることは皆、同じようだ。
(それにしてもよくここまで辿り着けたな。首尾よく銃は手に入れられたんだろうか?)
周辺にゾンビの姿を見かけることは殆どなかったが、細い路地には身を隠す場所が少なく、出歩けば直ちに奴らに見つかりそうな場所だった。いずれにせよ、入口が開け放たれているということは店内に生きた人間はいないのだろう。それでも車を降りると慎重に近付いて、扉付近から中を覗き込んだ。日中でもシャッターが下ろされているせいで店内は薄暗い。一瞬、そこに動く人影が見えて緊張するが、すぐにゾンビだとわかる。奥にさらにもう一体。他には誰も見当たらなかった。店内の狭い通路を歩くのに邪魔になりそうだったので、二体共外に引きずり出して、再び入って来られないよう壊れたドアはチェーンで固定する。それから店内を物色し始めた。銃砲店を訪れるのは今回が初だが、雰囲気が他の店と大きく異なるわけではないと知った。扱われている商品も銃に限らずウェアから光学機器まで多種多様に及び、通路の両脇に無造作にうず高く積まれた様子は古道具屋や釣具店を連想させた。肝心の銃は壁に造り付けになったガラス戸棚の中に収められていて、その手前には見るからに頑丈そうなグリルシャッターが下ろされている。並べられている銃は当然ながら国内で販売が許可されているライフルタイプのものばかりで、刑事ドラマでお馴染みの拳銃の類いは一切含まれていない。恐らく日本で拳銃を手に入れられるとしたら警察署くらいだろう。そこまでして必要とも思えない。今はここにあるもので充分だ。
シャッターは触ってみた手応えからこじ開けるには相当骨が折れそうな印象を受けた。こんな場合に備えてアセチレンガス溶断とアーク溶接の練習も積んで道具も車に揃えてあったので、取りに戻ろうかと思案していると突然、近くで物音を聞いた。咄嗟に身構えたが、その後は聞こえてこなかったため、建物のどこかにゾンビが閉じ込められているのだろうと思い、気を緩めかけた時、再度気配を感じる。どうやらそれが天井から届く足音らしいと気付く。しかもゾンビにしてはやけに慎重な足運びだ。気になって周囲を調べてみると、店の奥の目立たない場所に出入口とは別の施錠されたドアを見つけた。それで店舗が二階建てだったことを思い出す。これは上の階に繋がるドアではないかと疑い、もしそうなら二階に誰かが居るのかも知れないと思う。暫く迷うが、生存者が潜んでいるなら店の関係者だろうと考え、接触する価値はあると判断して、智哉はそのドアをノックした。ゾンビには不可能な規則正しいリズムを刻む。これで誰かが居ればゾンビではないとわかるはずだ。そのまま三分ほど待つが、何の反応もない。もう一度同じことを繰り返して、再び待つこと一分。今度はコツコツという音が返ってきた。先程の智哉と同様に一定のリズムで叩かれている。やはり誰かが居るのだ。ドア越しに智哉は声をかけた。
「安心してください。ここにゾンビはいません。話しても大丈夫です」
それでもまだ用心しているのか、なかなか返答は来ない。痺れを切らしてもう一度声をかけようとした矢先、ドアの向こうから鋭い応答があった。
「誰だ?」
声の感じからすると、年配の男性らしかった。口調は明らかにこちらを警戒している。
誰だ、と問われて智哉は一瞬、答えに窮した。何と告げるべきかわからなかったのだ。生存者であることは間違いない。だが、それだけではなく、状況的には不法侵入者であり、泥棒とも言えた。それを正直に告白するのは憚られたので、結局は無難な返事に落ち着いた。
「生存者です。裏口が開いていたものですから断りなく入ってすみませんでした」
「ふん。どうせお前も銃を盗みに来たんだろう。そんな連中はごまんといたからな。けど、みんな奴らにやられて仲間になった。お前もどうせすぐにそうなる。それとも既に噛まれているんじゃないか?」
「だったらこんな悠長に話してないですよ。店内にいたゾンビのことを心配しているなら外に追い出しました。裏口のドアは固定したので今は安全です。何なら出て来て確かめてみてはどうですか」
そう言うと、声の主は黙った。どうするか決めかねているようだ。智哉は辛抱強く待った。やがて、ドアの向こうに誰かが立つ気配がして、カチッと鍵が外される。一歩下がって待っていると、扉が開き、最初に黒光りする銃口が、次いで六十歳前後と思われる初老の男性が現れる。頭髪はすっかり禿げ上がっているが、眼付きだけはやたらと鋭く、その手には戸棚に並んだものと似たような銃が握られ、ピタリと智哉の胸に狙いが付けられていた。さすがに智哉も銃口を向けられた経験はなかったので、これには仰天した。反射的に両手を挙げて後ずさる。老人は狙いを付けたまま店内を見回し、智哉以外に誰の姿もないことを確認すると、おもむろに口を開いた。
「何しに来た? いや、それよりもどうやって奴らを追い出した? あいつらが居坐っていたせいで店に下りて来れなくなっていたんだ。勝手に押しかけて来て死んだ挙句、出て行きもしない傍迷惑な連中だったからな」
「説明するからまずは銃を下ろして貰えませんか? このままじゃ落ち着かない」
その言葉に老人は漸く銃を下げる。智哉はホッと胸を撫で下ろした。
「これで良いだろう。さっさと説明しろ」
「あいつらは死体に群がるんです。生きた人間を追っている間は別ですが。それでこの近くで隠れてゾンビを一体始末しました。このクロスボウを使ってです。後はその死体に店内にいた奴らが引き寄せられるのを待ってから、こっそりと侵入して裏口を固定しました」
予め用意していた嘘なので、滞りなく話すことができた。老人は半信半疑といった様子だったが、確認のしようがないので判断が付きかねているのだろう。実際にやってみれば同じ結果が得られるはずである。違うのは他の者ではゾンビに見つからずにそれを行うのが困難という点だけだ。案の定、これ以上の詮索は無意味と悟ったらしく、何が目的か、と質問を変えてきた。こちらは嘘を吐いてもどうせバレバレなので、正直に答えることにした。
「お察しの通り、銃を拝借しに来ました。もちろん、身を護るためにです。銃を持つのに許可が必要なことは知っていますが、何分にも今は非常事態ですから。はっきり言って誰かが残っているとは思わなかった」
「やはり盗もうという魂胆だったわけだな。残念だったな。シャッターが下りていては手も足も出なかっただろう?」
智哉は頷く。ガス溶断の用意があることは伏せておいた。
「諦めるんだな。ここにある銃は誰にも渡さん。来るべき時のために大切に保管しておく必要がある」
「来るべき時? それは何ですか?」
老人の言わんとすることが智哉には理解できなかった。何だ、そんなこともわからないのか、と老人は呆れ顔で説明し始めた。
「そのうち、奴らに対抗するための軍隊が作られるだろう。それも自衛隊のような生半可な考えの組織じゃない。昔の日本軍のような情け容赦ない戦闘集団だ。大体こうなったのは自衛隊が市民に被害が及ぶとか言って反撃に手を抜いたのが原因だ。もっと徹底的に攻撃していればここまで奴らをのさばらせることはなかったに違いない。次はその教訓を活かした部隊が作られるはずだ。そうなったら武器が大量にいるじゃないか。ここにあるのはその時に提供するためのものだ。日本じゃアメリカみたいにどこでも銃が手に入るわけじゃないからな。そんな貴重な銃を勝手に持って行かせるわけにはいかない。わかったなら出て行け」
軍隊などできるとは到底思えなかったが、逆らわない方が賢明と判断して智哉は反論しなかった。代わりに、取引を持ち掛けることにした。
「おっしゃることはわかりました。ですが、これだけあるなら何丁かは譲っても構わないんじゃないですか? 盗もうとしたのは所有者がいないと思ったからです。持ち主がいるなら話は別だ。正式に買い取りたい。代金はお支払いしますよ。今更、法律違反の心配もないでしょう」
「聞いていなかったのか? 誰にも渡さんと言ったのは売る気もないということだ。大体、金なんて何の役に立つ」
「だったら交換というのはどうですか? 失礼ですが見たところ、かなり衰弱されている様子。随分とまともな食事はされていないのではありませんか? 食糧ならあります。これと交換というのは?」
智哉は背負っていたバックパックを床に下ろすと、中から幾つかの保存食を取り出した。誰かと出遭った時の交渉用にと普段から持ち歩くようにしているものだ。
「……それと銃を交換しろと?」
「足りなければ外の車にまだあります。必要な分だけ進呈しますよ。こちらの要求としては銃を何丁かとそれに見合った弾、それから扱い方やメンテナンスの方法なんかもレクチャーして欲しい。何しろまったくの素人なんで」
「そんなに食糧を持っているのか? 一体どうやって手に入れた?」
「スーパーやコンビニから回収しました。こう見えてゾンビの目を逃れるのは得意なんですよ」
些か強引な説明ではあるが、実際に目の前に食糧を差し出されては納得するしかあるまい。老人は少しの間考えて、手の内を何もかも明かしたのは失敗だとは思わないか、と訊ねた。
「こっちには銃があるんだ。交換などしなくても脅して奪い取ることもできると気付かなかったか?」
「ここにある分についてはそうかも知れませんが、車に残してきた分については心配していませんね」
「何故だ?」
「取りに行くには俺一人じゃないと無理だからです。申し訳ないがあなたは同行できない。ゾンビに見つからないようにするにはちょっとしたコツがいるんです。それは誰にでもできるものじゃない。脅されて取りに行かされても当然、一人になれば俺は逃げますよ。どこにあるか訊き出しても同じことです。知ったところであなたには取りに行けない。嘘だと思うなら教えますから試してみますか? それであなたがゾンビにやられれば俺にとっては都合が良くなるだけですから」
それだけ智哉が話すと、老人は苦虫を噛み潰したような顔になった。智哉の言ったことの正しさを認めたからに外あるまい。そして遂に、わかった、と口にした。
「取引に応じようじゃないか。とりあえずその食糧は受け取っていいんだな? だったらさっさと寄越せ」
智哉はバックパックごと老人に手渡す。一緒に来いと促され、彼の後を付いて二階に上がった。そこで老人は一人で生活しているらしかった。それもここ最近のことではなさそうである。奥の和室に敷かれた布団は見たところ一組だけだ。家族はいないのかと気になったが、訊くのは躊躇われ、そのまま老人が食事を終えるのを黙って見守った。智哉が指摘した通り、もう随分と何も口にしていないような食べっぷりだった。ひとしきり食べ終えて満足した様子の老人は立ち上がって台所に行くと、お茶だけは智哉の分も用意してくれた。
「ところで世の中はどうなっている? テレビもラジオもやっていない上にずっとここで閉じ籠っていたからさっぱりわからん。見て来たんなら教えてくれ」
「外に出て行こうとは思わなかったんですか?」
「二階からの眺めで家の周りの状況は呑み込めていたからな。近所の人間が何人も外に出て奴らの餌食になるところも見たよ。銃で助けようかとも思ったが、奴らだけを狙って当てられる自信はなくて手が出せなかった。射撃場では的の近くに人間がいるなんてことはないからな。銃の使い方を教えて欲しいということだったが、三十年近く射撃をやっていてもそんなもんだ。あまり期待はするな」
ゾンビではなく人間への対策なんで御心配なく、とはさすがに言えなかった。自分も限られた場所にしか行っていない、と断った上で、智哉はこれまで見てきたことを老人に話してやった。無論、自らがゾンビに襲われないことは知られないよう細心の注意を払いながらである。ついでに地元のミニFM局が放送を続けていることも教えてやる。
「余程上手く立ち回らないと、外は歩けないということだな。籠城して正解だったわけだ。さっき出歩くにはコツがあると言ったな? それは教えられないのか?」
なかなかに答えにくい質問だが、予想の範囲内である。たぶん、趣味にしている山歩きに関係するんじゃないか、とまたしても智哉は嘘を吐いた。自然に身に付いた歩き方で具体的にどうやるかは説明できない、たぶんその歩行の仕方がゾンビの注意を引き辛くしているのだろう、そう言うと、老人はよくわからないという顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
それから二人して再び一階の店舗に戻り、老人は智哉のために四丁の銃を選んで差し出した。これも持って行け、練習するなら空撃ちケースも必要だな、などと呟きながら、それぞれの銃の実包やガンケース、イヤープロテクター、シューティンググラスといった付属品も次々と持ち出してくる。
「本当なら日本でライフルを所持するには散弾銃撃ちの経験が十年は必要なんだぞ。こんなことにでもならなきゃ素人にライフルなんて絶対に持たせたりしないんだがな」
そう言いながらも老人は智哉に一つ一つの銃の扱い方や特長、弾の違い、手入れの方法などを丁寧に教えてくれた。途中で智哉は一旦席を外し、約束通りに車から食料を取って来て老人に提供した。一人でなら楽に一ヶ月は暮らしていけるだろう。やはり現金も渡そうとしたが、いらない、とあっさり断られた。確かに役には立ちそうになかったので、智哉もそれ以上は無理強いしなかった。そうしてひと通り銃の扱いについて教えられると、あとはこれで勉強しろ、と何冊かの専門書を渡される。気付けば夕方近くになっていて、暗くなる前に智哉は老人の下を辞することにした。彼に別れを告げ、食糧と交換した銃を手に店を出る。老人は引き留めるでも名残惜しそうにするでもなく、さっさと二階に引っ込んでしまった。また来いとも、無事でいろとも言われなかった。
外はかなり陽が傾いていた。急いで車に戻ると、数日前よりマンションから生活の場を移したスーパーへと足を向ける。今後、再び老人に会うとしたら弾の補充に訪れる時くらいではないか、と思った。果たしてそれまで老人が無事に生き延びているかは智哉にも計りかねた。どうでも良いことには違いない。結局、老人が何故一人きりであそこにいるのかという理由も訊きそびれてしまったが、辺りが夕闇に包まれる頃にはその疑問もすっかり頭の中から消え失せていた。
「そんなの無理に決まっています」
美鈴は智哉の提案にはっきりと首を振って拒否の意向を示した。スーパーに戻った智哉が、姉ちゃんと話があるから少しの間、向こうに行ってろ、と妹達を遠ざけて、二人きりになって切り出したことへの回答だ。
「化学防護服の実験に立ち会え」
智哉はそう美鈴に告げたのだ。智哉が銃を手にして帰ったことにも驚いたが、その言葉はさらに美鈴を驚愕させた。何故ならそれは自ら進んでゾンビの前に立つことを意味したからだ。
(そんなことできっこない)
咄嗟に拒絶したのはゾンビに襲われた経験がある身としては無理からぬことと思いたい。美鈴も実験の必要性は理解しているつもりだ。もしも防護服を着ることでゾンビの目を避けられるなら、今後の活動の自由度は飛躍的に高まる可能性がある。普段出歩く智哉の安全性が強化されるのは言うに及ばず、場合によっては自分達も外に出て行けるようになるかも知れない。そうなれば智哉の言うところの取引に応じる必要もなくなるのではないか。それはやや期待し過ぎにしても少しでも生存の確率が上がるなら望ましいことには違いない。それはわかっているのだが、いざ自分がゾンビに対峙するとなると、そんな理屈はどうでも良くなる。ゾンビを目の前にした時の、生きようという意欲を根こそぎ奪われるような圧倒的な恐怖感にはとても太刀打ちできない。やるなら智哉一人で行えば良いではないか、とつい考えてしまう。そのために自分はあんな破廉恥なことまで我慢しているのだ。
そんな美鈴の心中を見透かしたかのように智哉は話を続けた。
「この検証はどうしても二人でやらないと意味がないんだ。他に適当な人間がいない以上、お前が協力するしかない。もちろん、安全は保証する」
どうして二人でやらなければならないのか美鈴にはわからなかったが智哉のことである、何か考えがあってという点に疑問を挟む気はない。それについてはこれまでの経緯が証明していた。
「でも……」
尚も渋る美鈴に、こうなることを予期していた智哉は取っておきの申し出を口にする。
「お前が協力したら夜の奉仕は免除してやる。この程度のことでずっとというわけにはいかないが、一週間休んでいい。それでどうだ?」
「一週間……ですか?」
あの忌々しい行為から一週間とはいえ、解放されることは確かに魅力的な提案と言えた。しかし、それだけでは恐怖心と引き換えにするにはまだ足りない。この際だから他にも何か要求できないかと考えを巡らせていると、ふと智哉が持つ銃に目が留まった。
「もう一つ、条件があります。私にもその銃の使い方を教えてください。それなら実験に立ち会います」
その返答は智哉も予期していなかった。狼狽こそしなかったが、珍しく意表を突かれたと言って良い。まずは自分が扱えるようになることで頭が一杯で、美鈴にも使わせるかまではまったく念頭になかったのだ。だが、よくよく考えてみれば武器を持たせるという意味においては今までとさほど変わりないと言えるかも知れない。ナイフが銃に代わるだけだ。懸念があるとすれば体力的な差に問題がなくなり、智哉を害しやすくなるという点だが、一緒に暮らしていく限りは避けられない要因と言えよう。少なくとも食糧や物資の調達に智哉を頼っているうちは幾ら恨みがあっても傷つけることはできまい。そこまで考えて智哉は決断を下した。
「わかった。お前にも銃の扱いを教える。ただし、俺の方もまだ口頭で習ったばかりで手探りの段階だから、俺が覚えてからになるがいいか?」
「それは構いません。ですが、その時には私の手の届くところに一つは置くようにしてください」
「……了解した。他に何か要望はあるか?」
美鈴は暫し考えて首を振る。折角なので色々と要求したかったが、思い付くことは特になかった。
「実験は準備が整い次第行う。明日か明後日になるだろう。さっきも言ったが、確実に安全な方法でやるからその点は心配するな」
俺自身の命も懸かっているんだから手は抜かないよ、そう嘘を言って美鈴を安心させてやる。それから智哉は気を取り直すように、そういえば忘れていた、と言い出して一旦外に出ると、レジ袋をぶら提げて戻って来た。手渡された袋の中身を見ると、捥ぎたてらしい梨の実が二個入っていた。
「どうしたんですか、これ?」
「帰って来る途中でそれだけ木に残っているのを見かけたから頂戴してきた。他は熟れ過ぎて地面に落ちたか、鳥にでも啄まれたんだろう。他にも探せばあったかも知れないが、暗くなっていたし、今日のところは二個だけだ」
美鈴に切り分けるよう命じて、加奈と優馬も呼ぶ。この一ヶ月、果物といえばシロップ漬けの缶詰しか口にしていなかった二人は、やったあ、と無邪気に喜び、期待に満ちた眼差しで給仕されるのを待っている。まずは智哉が一個を八等分した梨をひと切れ口にして、あとはお前らで喰っていいぞ、と告げたところで、美鈴が怪訝そうな表情で眺めた。それに気付いた智哉が、どうかしたか? と訊ねた。
「見つけたのってこの二つだけなんですよね?」
「そうだが、もっと欲しかったか? なら暇な時にでも探してみるが、そうそう上手く生っているとは限らないぞ」
「いえ、そういうことじゃなくて……」
それなら何だ? と訊く智哉に、別に大したことではない、と美鈴は答えた。智哉が嘘を言っているとは思えなかった。そもそもこんなことで嘘を吐く必要が智哉にはないのである。誰も逆らえないのだから、平然と独り占めをしていれば良かった。まさかこの期に及んで罪悪感に気後れするタイプでもなかろう。それにも関わらず公平に分配するどころか、あっさりと自分の分まで他人に譲ることが不思議でならなかった。今回だけなら気紛れやたまたま嫌いな物だったということもあり得るが、そうではないのだ。これまでも終始一貫して何かを独占しようという意識が感じられない。短い期間だが、一緒に過ごしてみて美鈴にはそうとしか見えなかった。今は物資に不自由していないためだけかも知れないが、物事に対する執着心が驚くほど希薄というのはほぼ間違いないだろう。食事にしても材料を無駄にするなと言われるくらいで、味自体は美鈴が出したものに文句を付けられたことはない。たまに智哉が作る食事の方が遥かに美味しいので、味覚音痴というわけでもなさそうだ。他のことについても同様である。自分が必要とする分だけ確保できれば残りは好きにすれば良いというスタンスだ。時折、この人は本当は何も求めていないのではないか、とさえ美鈴には思える。あれだけのことをさせておいてそれも妙な話だが、茫漠とした荒野のような印象と、普段の暴君のような振る舞いとの差に戸惑いを禁じ得なかった。一体どちらが真の智哉の姿なのかわからなくなる。あるいは両方共が本来の彼を映してはいないのだろうか──。
美鈴は智哉に気付かれないよう軽く頭を振って、その問いを強引に胸の奥へしまい込んだ。少なくとも今はそれ以上考えたくない。その疑問の先にあるものを知ってしまえば、もう後戻りできなくなってしまう気がするからだ。
既に智哉は実験のことも梨のことも忘れた様子で、銃について書かれた専門書らしき書物に視線を走らせている。美鈴達のことはすっかり眼中にはなくなっているようだ。その横顔を美鈴は敵意と信頼の入り混じった複雑な心境で眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます