強靭で柔軟な心身作り / 川緑 清
@ykiyo
第1話 病院 / 交通事故
1999年4月15日(木)は「強靭で柔軟な心身作り」を始めるきっかけとなった日でした。
42歳、中肉中背、福岡在住の私は 電気メーカーに勤める技術系の社員で 妻と二人の娘と暮していました。
この日午前8時頃に 私は福岡市内にある勤め先の会社へ向かって自転車を走らせていました。
会社の正門まで あと100m程の車道を走っていると 後方から大型バイクのエンジン音が聞こえ 次の瞬間 私は 腰のあたりに衝撃を感じると同時に 空中に跳ね上げられました。
後方に一回転して道路に落ちる時に バイクが反対車線のガードレールに追突するのが見えました。
道路にうつ伏せに落ちた私は 後続車が来ると思い 道路から離れるために立ち上がろうとしましたが その瞬間に背中に刺すような激痛を感じて立てませんでした。
痛みに堪えて 腹ばいのまま歩道まで這って行き 仰向けに転がると 無意識に目を閉じました。
そこから私の記憶は途切れ途切れになっていきました。
記憶に残っていたのは 救急車のサイレンの音と 救急車の中で自分の体が揺れていた感触と 病院内でレントゲンを撮られる場面でした。
意識が戻った時に 私は 病院の集中管理室のベッドにいて ベッドの横には 私の様子を窺っている医師がいました。
意識が戻ったのを見ると医師は「第一第四腰椎の圧迫骨折と右膝に損傷があります。暫くの間 入院することになります。」と言いました。
整形外科病院に運ばれてから数日間 私は 昼となく夜となくベッドで眠り続けました。
交通事故から5日目になると 日中の間はベッドで横になって 起きている時間が長くなってきました。
朝の回診に来た医師は「腰椎の圧迫骨折は 衝撃により骨が軟化した状態になります。 そこに負荷を掛けると 骨が座屈していきます。 骨の変形を防ぐためには 横になり安静にすることが必要です。」と言いました。
ベッドで起きている時間が長くなると 私は いろいろなことを考えるようになりました。
家族や親族や知人達が心配しているだろうこと 仕事の遅れや協力してくれている関連業者のこと 自分の体が 今後どうなるのか いつ退院できるのか等の考えは 私を不安にさせました。
毎日の医師の巡回時に 私は「退院はいつになりそうですか。」と聞きましたが 医師は「川緑さん そうあせらずに 暫く様子をみましょう。」と言いました。
勤め先の会社は 海外へ輸出する製品も多く取り扱っていたので 近年の急激な円高と市場のグローバル化の影響を受けて 業績不振が続いていました。
私は 事業部と連携して新商品の開発に関わっていたので 仕事のことが気になっていました。
退院日が分らないことと自由に動けないことが 先行きを心配させ 私の不安を増大させました。
入院から2週間程経つと 私は 退院の時期について 自分ではどうにもならないことを考えても それは思考の迷路に入り込むだけで 疲れる他に何にもならないと思うようになりました。
そう思うと 急に虚脱感を覚えて 私はベッドに横になったまま 時間が流れるままに任せて一日を過ごすようになりました。
そのような状態は 気持ちの焦りを少なくする一方で 考えることをしなくなり 無表情になり 体中の力が抜けて 心身の機能が低下していくのを感じました。
入院から6週間経った日の午後に 右膝外側半月板の内視鏡手術が行われました。
この頃には 腰椎の圧迫骨折も回復し 骨も固まって自重に耐えられるようになり 起き上がることもできるようになっていました。
看護師さんに介助されて 診療室に移動して 診療台に上がり 腰部麻酔の注射が行われました。
診療台に横向きに寝そべった私に 医者は「腰を丸めてください。」と言いました。
腰椎は 貝柱のような形をした椎骨と その背中側にある脊髄と その外側にある椎弓と呼ばれる 複雑な形をした骨で作られていて 注射は 麻酔薬が脊髄に届くように 腰を丸めて 椎弓の間を開くようにして打たれました。
その注射は 酷く気味の悪いもので 腰部に注射の針が当たると 思わずのけぞりました。
医師は「腰を丸めてください。」と繰り返し言いながら 針を刺していきました。
注射が終わると 私はストレッチャーに乗せられて 手術室に異動し そこでプラスチック製の緑色のシートで出来た手術用の服に着替えて 手術台に上がりました。
傍らにいた看護師さんは 麻酔薬を 点滴と吸入によって投与しました。
私は 腕の血管に何か異質のものが流入してくるのを感じると 直ぐに 頭に霧がかかるような感覚を覚えて 意識が遠くなっていきました。
夕方に意識が戻った私は ストレッチャーの上に横になっていて 手術用の服から 普段の入院服に着替えていて 右足の太ももから足首までをギブスで固定されていました。
周りを見回していると 近くにいた看護師さんがやって来て 私の様子を見て 問題が無いことを確認すると ストレッチャーに乗せたまま私を病室へ運びました。
この日の夜中に 私は右膝の激痛で目が覚めると同時に 夕食時に 看護師さんが「痛み止めの薬を服用しますか?」と言っていたのを思い出しました。
私は 痛みを感じなくなるのは怖いと思って その申し出を断っていました。
右膝の痛みは まるで右膝の皿の下の部分に 錐をねじ込まれるような感じでした。
私は ベッドに横向きになり 両手で右の太ももの付け根を押さえて きりきりとした痛みに耐えていると 額に脂汗がにじみ流れ落ちました。
外から射す日の光で病室が明るくなる頃に いくらか膝の痛みも和らぎました。
うとうとして無意識に寝返りをうつと 膝に激痛が走り また両手で右の太ももを押さえて痛みに耐えることになりました。
手術から2週間後の午前10時頃に 看護師さんがやってくると 右足のギブスを外し始めました。
私はベッドに座った状態で 看護師さんが工具を使ってギブスを切り取るのを見ていました。
ギブスを外されて現れた右足を見た私は 左足に比べて 太ももとふくらはぎがひどくやせ細っているのに驚きました。
この2週間 私は ベッドから動くことができず 両足とも殆ど使うことはありませんでしたが ギブスがあるかないかだけの違いだけで 右足の太ももとふくらはぎは驚く程細くなっていました。
やせ細った右足を見ながら 私は 自分の足は一体どうなってしまったのかと思い 体の部位は 使わないと いとも簡単に衰退していくものだと感じました。
この日の午後に 退院へ向けてのリハビリが始まりました。
40歳くらい 中肉中背の男性の理学療法士がやってくると ベッドの横にかがみ「川緑さん これから足を動かします。痛みますが がんばって動かしてください。」と言いました。
彼は 左手で私の右足首を固定し 右手でつま先を持つと 少しずつ足先を動かし始めました。
次に 左手を私の右足の膝の裏にあてがい 右手で右足首を持って 足を少し持ち上げました。
その瞬間に 右膝に激痛が走り 私は「あうっ!」と声を上げて仰け反りました。
すると理学療法士は「痛くても 動かさないと 足が動かなくなりますよ。」と強い口調で言いました。
彼の言葉は理学療法士としての経験から発せられたものだろうと思うと 私は その言葉に驚くと同時に 人の体の機能の本質を考えさせられました。
私は これまで 怪我や病気でダメージを受けた時は 治療したり体を休めたりすると その機能が回復して また元の様に体が動くようになると考えていました。
しかし理学療法士の言葉は その考えを否定するもので 積極的にリハビリをしなければ右足が元の様には機能しなくなると宣告したものでした。
彼の宣言告は 僅か2週間のギブスでやせ細った右足が そのことを証明していました。
私は 理学療法士の言葉に納得すると 真剣にリハビリに取組むことにしました。
入院から10週間後に 私は退院しました。
理学療法士の指導とリハビリのお陰で 私は 松葉杖に頼らなくても 自立して歩けるようになっていましたが 右足はやせ細ったままで 膝の痛みもあって 足の支える力は ひどく弱くなっていました。
翌日の午前7時頃に 私は 出社しようと 自宅玄関で靴を履くために前かがみになり 立ち上がろうとしましたが 右足に力が入らずに立てませんでした。
息を整えて 両手を左膝の上に置いて 足腰に全力を入れると なんとか立ち上がる事ができましたが それだけの動作で 息が切れて額に汗がにじんでいました。
一度 立ち上がると 私の膝は 自重に耐えて それなりに歩くことはできました。
しかし暫く歩くと「間欠破行」と呼ばれる症状がでました。
「間欠破行」は 歩き続けることができなくなる症状で 500メートル程歩くと 腰が強い力で締め付けられるような痛みを感じて足を動かせなくなり 暫くの間 立ち止まっていると また歩けるようになる症状でした。
通勤途中の駅の階段は 私をひどく緊張させる場所でした。
階段の上り下りは 人の流れを避けて 階段横に設置された手すりに頼り 上り下りに時間が掛かる作業となりました。
なんとか会社に着き 自分の机まで辿り着くと 椅子に腰掛けた私は 疲れを感じていました。
この日 私は 半日を掛けて Eメールと郵便物をチェックし 残りの半日は 関連部署や関連会社の担当者と連絡を取り 今後の仕事の進め方の相談をしました。
午後8時頃に帰宅した私は 畳の間に仰向けに転がると 酷い疲れを感じていました。
私は この日の自分が 自身を支えるだけで精一杯で 普通に動けなかった様子を振り返りました。
私は 疲れから ぼんやりしていく頭で 普通に動くことができるように「強靭で柔軟な心身作り」を始めようと決意しました。
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