第10話


 眠って起きた後、久しぶりに身体が違和感なく動いた。それまでは意識して動かしていた。

 カーテンを閉めずにいたが外はもう暗い。薄闇の中で警備状態を示すドア横の緑色の光がむかしの屋敷に迷い込んだ蛍みたいに静かな点滅を繰り返す。家主は既に帰宅後だとすると、雛女の食事をずいぶん待たせただろうか。

 脱いだシャツをもういちど着こんで部屋を出る。途端にリビングから雛女が飛び出してくる。後ろにに若い男もいた。

「起きるの遅いわ。飢え死ぬかと思った!」

 必死の訴えだが見上げる大きな目とベリーショートにしてより目立つ小顔のせいで不満を訴える猫みたいでつい笑ってしまう。俺の反応が意外だったらしい雛女は息を呑み、そして。

「おひる人魚の肉でも食べてきたの?ほっぺすっごく艶々してない?」

「それはでなかった。鱶鰭フカヒレと燕の巣くらいだ」

「なにそれ憎らしい。明日あたしも連れて行って」

「頼んでみてもいいがあいつと一緒だぞ?」

 ひどく怖がっていた秘書と。

「……」

「土産食って我慢してろ。壺入ってただろ」

 握りこぶしくらいの小さなつぼに入った薬膳スープの持ち帰りが包みに入っていることはテーブルに置いた音で分かってた。

 雛女はしぶしぶ納得し点心を温めだす。こっちはそれで済んだがもう一人、雛女の奥に何か言いたそうな家主が立ってる。その向こう側には景徳鎮の瓶に入った25年物の『古越龍山』。

「よく手に入ったな」

 目線がそっちに引き付けられて思わず口走る。紹興酒としてはメジャーなブランドだがメーカー直販以外では手に入りにくい。定価で2万5千円くらい、ワインやウィスキーの高級品に比べれば安価だが昼に言って夜に買えるモノじゃない。

「よく分からないからあなたのモトカレに選んでもらった」

「ああ……」

 モトカレ。

 あいつ自身が年季の入った酒飲みでもあるし、蒸留酒スピリッツ好きの俺と100年付き合って経験も豊富だ。勤務先がラウンジなら銘酒は揃えてあるだろう。値段は市価の数倍だろうけれど。

「玲にぃ元気なの?あたしのことなんか言ってた?」

 取り皿や箸やグラスを配ってくれながら雛女が尋ねる。本部から身柄を移していることはGPS持ち込みのタイミングからして魅鬼側の監視対象前の出来事。たぶんまだバレていない。

「……」

 あまりアイツに会って喋るなと言いたかったが雛女にいろいろ聞かれるのも面倒で黙った。若い男も何か言いたそうだったが口を噤み、雛女がご機嫌に点心をパクつく。小柄で細いのに健啖な女だ。

「なんだかね、おなかすくの。すっごく」

 俺の視線に気がついた雛女は特に恥ずかしそうでもなく呟く。

「前はね、こんなに食べてなかったんだけど。……人間の食べ物は」

 人間は大人の男をまるっと食べていたっけな、と、思い出しかけて思考を中断する。食欲減退してしまうから。それに比べれば寿司だのパフェだの飲茶だの食ってる分には平和で問題ない。魅鬼は飢えてやつれることはあっても見目が悪いほどやせ細りはしないし肥満とも縁がない。人間に擬態していても人間ではない。

 対照的に、食ったものが体調と肌艶にストレートに影響する俺は人間だなぁ、と。

「それ苦い?一口味見していい?」

 ふだん飲んでる焼酎やウィスキーに比べれば度数も低く飲みやすい紹興酒をくいっと呷り注いでもやりながら、当たり前のことを考えていた。




 そうして、夜更け。

「……起こすよ」

 声をかけてから肩の下に腕を差し入れられる。ぐったりついでの狸寝入りはバレていたらしい。口元に差し出される冷えた水をごくごくと飲みほす。水気を搾り取られてカラカラの体が潤んでいく。

「へんなこと疑ってごめんなさい」

 素直に謝るからには誤解は解けたらしい。

「おこってる?」

 どっちかというとうんざりしてる。オマエにじゃない。

 夕食の後で連れ込まれた家主の部屋でを食べたんじゃないかと詰問されて、昼間の外出を咎められて、面倒くさくなって確かめりゃいいだろうとか口走った自分の短気さにうんざり。すぐに自棄になるのは悪い癖だ。人生で何度目かの大失敗。

 いった言葉は取り消しがきかない。冗談だと打ち消してみても、僕に言っちゃいけない冗談だよねと詰め寄られて、その通りだったからろくに抗えもしなかった。会陰の窪み使った擬似性交ペッティングで半月も誤魔化してきたのにケタミン抜きでは初めての本番を、不本意ながら合意の上でイタすことになった。

 いつの間にかマトモなやり方を習得してて、避妊具コンドームを用意してたのはともかく、歳の若い女の子みたいに腰に枕を敷かれたのはもう、ナンていうか、ナンとも。

「すごい、すいつく。……きもちいい」

 真っ裸の全身を抱きしめられる。肌を貪られながら、それはこっちの台詞だとうっすら考えた。若い。髪はさらさら、指先も膝もまだ柔らかい。重なる熱も、何もかもわかい。男の二十歳はまだ身長も伸びきってない。

「すごい、よかった。さいしょとさいごであじかわるの、すごい。あまくなったあとも、水菓子くだものから蜂蜜からアイスワインみたいに、すごく、ナンて、いうか……。おいしかった、っていったら、おこる?」

 ご満足ならなによりだ。あれだけの真似をしといてさせといて、まあまあだったとか言われたらこっちの立つ瀬がない。

「本部で尋ねられるんだ。契約は成立したか、って。……した?」

 してない。

「まだ怒ってる?」

 当たり前だ。強姦レイプされとしてヘラヘラしてられるか。それとは別の話として、分からないって、周囲には言っておけ。

 息を詰めて待たれてる。俺が作った組織の『本部』とやらだけじゃない。成立したら舞台が廻る。微妙なバランスで成立してる不可侵は破れて硬直してる事態が動く。それを踏みつけるにはまだ体力が戻りきってない。

「あした、ぼくと昼ごはん食べに行こう。夕方まで講義ないから」

 俺はいいが、それこそ本部とやらの許可が出ないだろう。

「あいつがよくてぼくがダメってことはないし」

 あの秘書官は左腋に拳銃吊ってた。弱ってる俺に対しても警戒怠りないあたりはわりと気に入った。近接格闘なら誰にも負ける気はない。秘書はもちろん玲一モトカレ相手でも。体力が万全で、契約だの隷属だの殴っても殴り返してこないの分かってて手を上げるのは矜持にもとるとかのややこしい事情抜きの場合に限ってだが。

「拳銃なんてすぐに買えるし」

 問題は武器の携帯じゃない。逃げてく俺を後ろから撃てるかだ。

「……ムリです」

 当たり前だと言い掛けてふっと胸が冷える。笑いながら撃ちそうな奴を思い出して。もちろん玲一モトカレじゃない。そのもっとまえ、むかしのおとこ。

 あいつも最初はそうじゃなかった。というか、最後の半年以外は。頭が良すぎて周囲を睥睨する悪い癖はあったが、基本俺には、ずっと優しかった。やさしかったような気がする。よく思い出せない。

 飢えは人格を破壊する。強烈すぎる不幸も嫉妬も、制御不能な依存症も。壊れる前の若いあいつがどんなだったか、記憶は朧で頼りない。

「ごめん。さむいね」

 ふるっとしたのを誤解した若造ガキが離れてクローゼットから絹毛布を取りだす。敷布は既に替えられて寝心地は悪くない。抱擁をとかれて手足を伸ばすとすぐに間近に添われる。

「順番まちがえるとつらいね。逢引デートもしないでヤっちゃった僕が悪いんだけど、キスもお預けでまちがいとりもどすのホントにつらい」

 当たり前だ。オマエが悪いんだ。海より深く反省してろ。

「……あなたの方が魅鬼ならよかったのに」

 耳たぶを齧られる。ピアスの穴の窪みはうっすら残っていても、皮膚と肉はもう塞がってる。それちゃんとか?

「今夜はいいよ。おなかいっぱい。……ピアスも実は買ってるんだけど、ちゃんと病院で消毒してからお医者さんに、つけて……」

 もらおう、といい終わらないうちに先に眠られて、暫く寝息をうかがった。熟睡を確認してそっとベッドを抜けだす。

 昼間はこの部屋でタブレット弄ってることが多いからうす暗闇の中でも家具の配置は分かる。ちなみにこの部屋に監視カメラはない。だから以前はこの部屋は出入り禁止だった。最近は『本部』の監視も緩んで、私的事情プライバシーも少しは尊重する姿勢をとっている。

 帰宅時に放り出されたままの荷物から家主のスマホを取り出しても起きる気配はない。寝たふりて見逃してるンなら大した雅量だ。

「起きろ。風呂の使い方が分からん」

 返事はない。無心に眠っている。お疲れなのはお互い様でよく分かるが、こんな無防備で大丈夫かこいつ。

 とか。

 思った時点で負けなのは分かってた。



 

 明け方まで家主のスマホを弄ってから自分の部屋に戻って眠る。昼間にちょっと弄られたというか懐かれた感じはしたが構わず眠り続けた。目が覚めたのは部屋の片隅で動作音がしたから。事務所の電子レンジから持ってきた俺のスマホ。

 登録してあった電話番号は、仕立て屋を覗いてほぼ削除済み。ごく最近、追加で登録したむかしの雛女の番号だけがいきてる。ちなみにそれは、玲一にスーツや時計と一緒に持っていかせた。

 こっちがきたか、と思いながら立ち上がる。くるならこっちが先だろう、とは考えていた。スマホを掴んだとたんにムカついて音声をオンにするなり、挨拶もなしに。

黄泉戸喫よもつへぐいを待ってからなんの用だ」

 喧嘩腰で言ってからまた後悔。自分で聞いても語尾の揺らぎは、迎えに来るのが遅いと難じる以外のなにものでもなかった。

『……ほんとに生きてた』

 不幸中の幸いは電話の向こうのバカが声の震えに気づかなかったこと。ちなみに俺の声が震えてるのは忌々しさと腹立ちのせい。

『警備は解除した。車をまわすから一階におりてろ』

 それは警備を遠隔操作する家主のスマホが奪われたことを意味する。手に落ちたのは、スマホばかりじゃない。

 舞台が廻った。

「オマエとはもう縁切りだ。二度と寝ない。薄情者」

『最後はまさか俺に言ったンじゃないな?』

 ギャンギャンこっちが喚いても男は怒ってない。

『百万回生きた猫になる寸前だった。一回ぜんぶ終わった。次とか、先とか、どうしたって考えられなくて』

 それは、嘘ではないと知ってはいる。

『全面戦争上等で、仇討ちして終わっちまうつもりだったンだぞ?』

「帰れなくなるのをわざわざ近くで待ってたくせに恩にきせンな、バカヤロウ」

 甘い優しい口調で宥めるのを鼻先で笑いとばす。たぶん若造ガキとの契約はもう成立してる。死ねないようにしておいてカラダだけ使おうって初期目的を果たすコイツの心積もりは分かってる。

 わかってるつもりだった。

『いろいろ誤解だ。ガキは閉じ込めた。五年に一回くらい血液パック放り込んでりゃアンタは自由だ。俺と寝たくないならとりあえずそれでいいから、来い』

 微妙な脅しに首筋がヒヤリとする。俺に甘いからうっかり忘れてたが、そういえばこれは怖い男。

『オーナーが朝から腕まくりでカウンター磨いてお待ちかねだ。俺も楽しみで眠れてない。来ればすぐ、わかる』

 自信満々というより事実だからっていう強さで電話の向こうの男が笑う。笑ってる。知らないくらい全開で心から。俺が生きてることを嬉しそうに。

『あいしてる』

「寝起きだ。迎えは30分後に」

『専用エレベータだろ。地下駐車場に乗り付けるから寝巻きで構わない』

「オマエはともかくマスター居るンなら格好つけさせろ」

『おい。俺ァ地獄のシットマンだ忘れたか?』

 返事をせずに通話を終わる。すぐ折り返しで鳴ったが無視して着替えた。それ自体は10分もかからないが、別にすることがあった。

 舞台が廻る。それは分かってた。どうするのかも決めていた。

 



 



 


 

  

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むかしおとこ ひとむかし-3 林凪 @hayashinagi

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