むかしおとこ ひとむかし-3

林凪

第1話


 平日の夜8時、美女の集まるクラブはキャストゲストも少なめで、その分、ゆったりとした時間が流れていた。

「レイちゃーん、パパが休憩して一杯のみにおいでって……、あら?」

 少し前に黒服兼ホール係として入店した男性スタッフはいつの間にかマネージャー兼用心棒になった。客という名の売り上げを巡ってギスギスしがちな女の子たちを宥めるのがうまく、愛想はそれほどでもないのに客をよく覚えて、背の高いハンサムということもあり酔客たちに妙な人気がある。

「マミおねぇさん、レイちゃん知らない?」

「0番テーブルよ。今日はむかしのお友達が来てるから邪魔したらダメよ」

 込み入った話をする時やワケアリの接待に使われる、物陰で個室のようになったボックス席。

「えー、つまんないー」

 若い女の子が物陰に配置されたボックスを覗き込む。ちらりと見えた『お友達』は巻き髪を長く垂らしたその子より若く見えた。



 思いつめた様子で早口に事態を説明された後、大人の男は。

「頑張りすぎた次の日にノータック穿くのは止めとけ」

 そんなことを告げた。かなり真面目、真摯とさえいっていい低い声。

「後ろから見ると腰がフラついてんのすぐバレる」

「……なんでいま、そんなこと言うんですか」

 若い客の口調は丁寧だが声には苛立ちがある。

「今なら聞く耳を持っていそうだから。話に関係ないくもない。余裕のなさが全部つながって固まって動けなくなってんだ」

 テーブルについた『指名』に言われるがまま、客がボトルで注文したのは宮崎の麦焼酎。定価は5000円、時によりプレミアがついて市価で8000円ほど。店での値段はその5倍。安い酒ではないがこのクラブにはゼロがひとつ多い酒がいく種類もある。ボーイが氷と水とグラスのセットを運んできた。セットの価格は『100年の孤独』と印刷された紙に包まれたボトルの定価と同じくらい。

「何ヶ月もたってんのに情人イロが一番好きな酒もまだ知らないで」

 若い男が全身を強張らせる。反応を見られたのだと悟って。

「あ、それ入荷はいったんだ」

 ボックス席を行儀悪く覗いたキャストが声を上げる。

「大好きなの。いいなぁ。ねぇ、一杯だけ飲ませて」

 行儀が悪い上に厚かましい。でも邪気のない人懐こさに愛嬌があって、遠慮のなさが親しみに変換され可愛らしい。

「グラスで奢ってもらえ。これはもって帰らせる」

「こんなお店で買わなくても通販ならもっと安いよ」

「こんなで悪かったな。オマエの勤め先だ」

「入荷するまでちょっと待たされるけど」

「こいつオンナと喧嘩しててな。いますぐ要る」

「ああ、失敗したときの避妊薬みたいな。イロイロ、値段じゃない時ってあるよね。わかるわぁー」

「真面目なツラでなに口走ってやがる」

 苦笑しながらマネージャーはボーイを呼び止め。

「こっちの、ナンか失敗して青くなったことがあるお嬢に同じの一杯、グラスに注いでやってくれ。水割りか?」

「やだ、友達の話よ決まってるでしょ。アタシまだバージンだもん。ロックでお願いします。ダブルね」

 若いとはいえ二十台半ばの女の子が高い声で言うのと、

「同じものをもう一本、追加で」

 二十歳になったばかりの若い客が注文を出す声が重なる。

「金の使い方は堂に入ってンのになぁ」

「ドウニイルってナニ?」

「慣れてて格好いいこと。今の注文、タイミングとか格好よかっただろ?」 

「美味しいお酒飲ませてくれる人はみんなカッコいいわ。ありがとうございます」

 L字になったソファのシートを詰めてやったマネージャーの横に座りながら女の子は真顔で礼を言った。

 グラスと瓶が運ばれてくる。お先にいただきますと会釈して女の子がグラスに口をつける。キュッと半分飲み干して、嬉しそうに息を吐くのが本当に可愛い。マネージャーが客のために注いでやるのを待ちきれずに残りの半分を、今度はゆっくり、グラスにキスするように唇を寄せて味わう。

 その動きをまじまじと若い男は見ていた。

「聞きたいことがあるなら飲み終わる前に聞いとけ。女の秘密たずねられるのがバカ高い酒のみにこんな店に来る意味だ」

「えー、ハンサムさんでもケーバンは教えないよ。結婚するまでは」

「やめとけ。これと結婚したら物凄いことになる」

 グラスの中に氷は一つ、ごく薄い水割りをマネージャーは客の前に置く。グラスの前で客は青ざめている。物凄い、という意味に痛めつけられて。

「なぁ、彼氏にな」

「彼氏いないけど、仮定として、うん」

「疲れてるからごめんって言ったとき、じゃあってクチ使われたらどうする?」

「すぐに彼氏じゃなくなるわ。ダイキライになるから」

 客が凍りつく。ああ、と、女の子は事態を察した。

「絶対に許せないか?」

「バージンだから、ソーゾーで言うんだけど」

「その前置きちょっとしつこい」

「腹がたつのは悲しいからなんだわ。痛くはないし跡も残らないけど、彼氏に吐き出すモノ扱いされたら悲しくて泣いちゃう」

「……ッ」

 若い客が露骨に動揺する。

「そうじゃないって分からせてくれれば、許してくれる優しいヒトもたまにはいるんじゃない。アタシは許せないけど。……ソーゾーでは」

「だとよ。よかったな」

 若い客を見ないままマネージャーがコメント。

「あいつはこの世で一番やさしい」

「えー、いいなぁ。美人さん?」

「すれ違ったら棒立ちして顔だけ振り向くくらいの二枚目」

「ニマイメって?」

「美男子」

「ふぅん。EXILEでいったら誰?」

 いまどきの女の子は珍しがりもしない。

「一人も知らないから分からん」

「ドラマあるよね、男のヒト二人でごはん食べるやつ」

「見てないがあるのは知ってる。きのうの夕飯とかだったか」

「似てるけど違うかも」

「一緒にメシ喰ったり酒飲んだりは大事なことだよな」

「ダイジよねぇ。おごちそうさまでした」

 ぺこり、顔の両側の巻き髪を揺らして女の子は退場する。行儀は悪いが姿勢はよく、深い会釈は舞台挨拶のようにきまっていた。

 女の子が遠ざかってから小さな声で。

「食事しなくていいでしょう、あなたは」

 嘘を非難する口調だった。食事の必要がないのはこの若い客も同じ。数カ月前、そうなった。

「きまった時間に二度は喰うようにしてる。習慣にしとかないとうっかり忘れて怪しまれるから」

 人間は食べなければ死ぬ。死なないのは人間ではないから。その秘密を悟られれば狩られる。擬態は姿だけでなく習性も真似なければ意味がない。

「ムダじゃないですか」

「喰えば美味いし普通に消化する。害にはならない。あいつに一人でメシ食わせるのも可哀想だ」

「そういうことはよく分かりません。やさしいというのにも異議があります。会って一時間で口の中をぐちゃぐちゃにされました」

「反撃されただけだろ」

 言いながらマネージャーは客の顎下に視線を投げる。骨のラインはすっきりとして歪みはなく、骨折を継いだようには見えない。

「……手加減しやがって」

 悪態はこの場に居ない二枚目に向けられたもの。

「あいつは昔からガキにあまい。ツブしときゃ永遠に減るのに立ち上がれない程度ですませる。本気で顎やられてたらおまえ、一生まっすぐ立てないところだったぞ」

「別の人にも言われました。本当ですか」

「100年前に軍人が何人居たと思う。ベストテンをマジめに狙ってた」

 剣術射撃系ではない素手の格闘が専門。武器の携帯が難しい現代日本にもっとも適合した技能。

「まぁ飲め。好きにならなくていいが味くらい覚えとけ」

 言いながらマネージャーは自分のグラスにも勝手に注ぐ。

「あいつは食後に、氷水チェイサー横においてシングルをで飲む。時間かけないんで口説く暇がない。自分から誘い出しといてクイッっと飲んだらさっさと帰りやがる。初めてのときはがっかりした」

 関係を持つ前に一緒に飲んだのは一度だけ。それでもその一度の逢引デートは強引に関係を成立させた後で丸め込むのにたいへん役に立った。

「舶来のアイリッシュウヰスキーずらり揃えてるバーでわざわざ、ドイツの麦の粕取り焼酎たのんだりしてな。マスターのふるさとの地酒で、頼まれたマスターはすごく喜んでたが」

 男には読めなかった店名が産地の地名だったということはあとから聞いた。麦の蒸留酒を好きなことも飲み方の傾向も知らず、逢引デートに到っては若い客は耐え切れずうつむく。悔しそうというよりも悲しそう。

「想像していたことと、ずいぶん違いました」

「思ってもなにも会ってすぐ、交際0日だろ」

「直接は。でも調書と写真で、いろいろ」

 なんの調書か見当はつく。あのサバサバした二枚目が書くことを億劫がっていたむかしの相手との『関係』に関する調書は森鴎外の『性欲的生活ヰタ・セクスアリス』もどき。行為自体の描写はなくても本人視点の供述は、思春期の妄想を掻き立てるには十分だっただろう。

「オモってた訳か」

「……恋焦がれていました」

「思ってたより、ずっとヨかったろ」

「分かりません」

「ん?」

「まだ、まともには」

 客のグラスはいつの間にか空になっている。『百年の孤独』は焼酎にしてはクセがなく飲みやすいが度数は高い。体質的にアルコールがダメというわけではなさそう。マネージャーの男は同じくらいの薄さで二杯目を作ってやった。

抗原反応アナフェラキーショックで意識がないうちに隷属はすませましたが、セックスはひどく嫌がられて、ケタミンなしでは、まだ」

 グラスをソーサーに置く男の表情が強張る。

「言えばあなたは怒って協力してくれると思いました」

 酔って度胸がついたのか若い客はハキハキと話す。

「告白をもうひとつ。本当はムリにさせたんじゃない。水溶液を直腸投与したらせん妄がひどくて自分から。耳たぶ舐めてくれながら、クチでするから痛いことしないでくれって」

 身体的な興奮・覚醒作用をもつアップ系が多いセックスドラッグの中で、ケタミンは異質なダウン系。呼吸や血圧という自律神経に作用することなく思考や神経といった大脳皮質部に浸透する。そもそも麻薬ドラッグではなくての解離性麻酔薬。知覚を歪め鎮痛・鎮静効果も高い。

 朦朧とさせての強姦レイプ目的には向かず、合意の上での性交で被挿入イれられる側の恐怖や苦痛を軽減させるために多用されていた。脱法的ながら合法だった2007年までは。

 現在も系統薬が本麻酔前の導入用として使われるだけあって身体的な副作用は少なめ。ただし神経系に作用するため幻覚・妄想等のせん妄は多発する。外見の酷似した相手をむかしの恋人と誤認することは当然あり得る。

「甘えた声だして自分からしたのに醒めたら勝手に落ち込んむとか、小娘バージンでもあるまいし。本部の監禁が苦しそうだったから交渉して住まいも移してあげたのに少しも感謝しない。ぜんぜん食べないからあてつけみたいに痩せて、なにをどうしろっていうんだ」

「拉致監禁をちょっと緩めたからって感謝されるわけがない」

「ちょっとでもずいぶん頑張ったんですよ。本部に誓約書を何枚も書いたし、マンションも進学したときから捕まえたときの為に用意してた」

粘着質ストーカーすぎて気味が悪い。それ持っておうちに帰れ」

「他人の機嫌をとったことがありません」

「なら世間に出る前に修行しとけ」

「だからあなたに、どういったらいいか分からない。……ご一緒しませんか」

「あ?」

「ケータリングで、食事でも酒でも」

 ここに居ない相手を呼び出して、と若い客は言わなかった。外出は認められていないらしい。

「連れ出しの伝票切っていただいて結構です。遊びに来てください」

「嫌だね」

「僕のことはともかく、彼が可哀想だと思われませんか」

「ひでぇ相手でも新しい飼い主だ。慣れなきゃいけないのに未練募らせるほうがかわいそうだろ」

「じゃあ僕と寝てください」

「なに考えてる」

「つぎ泣かれたら、死にます」

「あ?」

「本当は泣いたかどうかもはっきりしてない。俯いてため息をつかれただけで。それがどうしてこんなに重いのか分かりません。他人の感情がなんで内側に入ってくる」

「酔ってるな」

「悲しいのも痛いのも僕じゃないのに、どうして僕がこんなに苦しい」 

「惚れて抱いて他人でいられるとか思ってンのがそもそも士道不覚悟だ」

「他人に何か頼んだことなんかないのに」

「歪んでンなぁ」

「僕自身の為じゃないのに、どうしてこんなに必死な気持ちになる。分からないことばかりで死にそうです。僕と寝て抱き方を教えてください」

「俺に甘えンな、ガキ」

 男は冷たく哀願を拒絶。

「不可侵協定は結んだ。そっちは創始者兼最高顧問ファウンダー実験体モルモットに喰われて混乱してんだし、こっちは派生の仕組メカニズムを知れるなら知りたい。同族がって点では利害が一致してるから、しばらくは現状維持でいい」

 捕獲されている標本体サンプルの存在を含めて。

「だからってオトモダチになった覚えはない。色営業も売春斡旋もしてねぇ。俺の勤務明けは午前様だ。独力で乗り切れ」

「あなたが甘やかしてたから僕が苦労しているのに」

「違う。俺と比べて相対的に損してるんじゃない。オマエみたいにむごいのは滅多にいない。絶対的に、あきれ果てるくらい色々とダメなヤツだ。女の子にもてないだろ」

「人に好かれたことはありません」

「顔も体も頭も良くて金持ってて、それで嫌われるってのは、中身が滅茶苦茶に嫌なやつなんだ」

「みんなこんなですか」

「なにが」

「隷属させたら愛されると思ってた。愛どころか、少しも優しくしてくれない。みんなこんなですか。それとも僕だけがはずれですか」

「首を折られてないのは物凄く運がいいと俺は思う」

「……また来ます」

 ふらっと、若い客は足取りおぼつかなく立ち上がった。

「残り、さっきの女の子にあげてください」




 


 客が店を出た後もマネージャーは0番テーブルから動かなかった。煙草を吸いに外へ行っていたボーイが戻るまで。

「店を出てすぐ、車が迎えに来ました。黒塗りのごついのが」

 ボーイは胸ポケットから出した伝票にナンバープレートの番号を書いて渡す。

「まさか尾行けてないな?」

「あんな怖そうな車をまさか。ただ、乗り込むのをじっと見てるやつが居まして、そっち追いかけたら『クイーンズファー』に入っていきました」

 少し離れた無場所にある、キャバクラと同系列のホストクラブ。

「さっきのお客さんとおんなじくらい若くて、見た目もまぁまぁでしたがホストって感じじゃなかったです。お客さんっぽかった。なか入って様子を見てきましょうか」

「いや、あとで俺が行く」

 答えながら内ポケットからチップを取り出そうとする手を止めて。

「手ぇ、出せ」

 腕時計をはずしながら告げられ、目元涼しいボーイが怯む。

「ちょ、レイさん、それ、ダメっスよ」

「ことば気をつけろ。どうせ貰いものだ。よく見てくれて助かった」

 引こうとした手首をつかまれ腕時計を嵌められる。とっかえひっかえ、いつもすごいの着けているとクラブで話題になる男の腕時計は今日はピアジュ。

「うわ……、すげ」

 巻かれてしまえばサテン仕上げスチールの手触りに抗えない。奮いつくほどボーイは興奮して、きらきらした目で腕時計を見ている。

「なんか、よっぽどなンすか、アイツ」

「ちょっとな」

「あ、スンマセン。聞き出そうとか思ったんじゃないです」

「いっそ聞いとけ。オンナ寝取られた」

「……は?」

 ボーイはマネージャーをまじまじと眺める。オンナを誰かにとられるようには到底見えなかった。

 至近距離でも頬や襟元に水商売特有の荒れた気配はなく健康そうでさえある。背が高くて、何よりカラダの。少しでも心得があるなら決して喧嘩を売らないだろう絶対的な存在感。玄人筋からのスカウトが引きも切らず、街の顔役ヤクザたちは女の子でなくこの男を目当てに時々のみに来る。

「信じられないス。レイさんよりいい男なんてこの世にいないですよ。あんなガキにそんなこと出来るわけない。俺のこと騙そうとしてますか?」

「ガキなところがいいんだろ」

 冗談を言っている口調ではなかった。

「……まぁ、オンナって時々、ナニ考えてるかわかんねースけど」

「だな」

「まだスキなんスか、そのヒト」

「未練がましいことに」

「ガキ、どうするンすか?」

「態度しだいだ。大事にしてたら見逃してやってもいい。泣かせてやがったら殺す」

 男がようやく立ち上がり、テーブルの上を片付けようとする。パッとボーイがグラスや瓶にとびつく。

「店、あと任せていいか」

「はい。……はい」

「早退する」

「はい!」

 





 

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