さよならを忘れて
蒼板菜緒
さよならを忘れて
「たまに浜辺に打ちあがっちゃうんだって。」
こんなふうに。彼女が指さすニュースの画面には、浜辺に打ち上げられた鯨が映っている。周りには専門家だろうか、棒か何かで、鯨を突いている。それを遠巻きに観光客が眺めている。なにあれ、鯨?血まみれなんだけど、なんかグロい。そんな声が画面のむこうから聞こえてきそうだった。
生きているのだろうか。死んでいるのだろうか。どちらにせよ、無事に海には帰れないだろう。どうせ死ぬなら、静かに眠らせてあげればいいのに。
『可哀そうだな。』
彼女の同意を求めるように言う。しばしの沈黙。あれ。ニュースの音だけが居間に響く。返事がない事を不思議に思って、TVから視線を外し、彼女のほうを見る。
彼女は、どんな顔をしていたのだろうか。
鯨をただただ哀れんだ私を、どんな目で見ていたのだろうか。
私の目を見る彼女の目。その目が、ゆっくり私に話す。鯨のような、大きな目。
「なんで鯨が打ちあがっちゃうか、知ってる?」
思い出せない。憶えていない。
「親からも、兄弟からも離れて。あんなに痛そうにして。」
思い出したくない。憶えていたくない。
「*******だって。」
彼女は、なんて言ったのだろうか。
「それって、迷信らしいですよ。」
しんと静まり返ったテーブルの中で、彼女の声だけがそこに居座る。
「一日一食だから痩せるってわけでじゃなくて。一日三食だと、日中継続的に食事をするから、体が食べることを習慣に勘違いしちゃうんですよ。お腹が減ってるわけでもないのに、食べなきゃって。いらない栄養をとるから太っちゃう。」
飲んだくれの、締まりのない笑い声が響く居酒屋の中で、彼女の声だけが理性を保った、人間らしいものに聞こえた。彼女の隣で、ダイエットの成果を自慢していた新入生の女の子は。可哀そうに、口を半開きにしたままぼうと彼女を見ている。
多分、私も。
「一日一食や三食とかじゃなくて、結局大事なのは摂取カロリーなんですよね。」
言い切って、テーブルの真ん中を申し訳なさそうに牛耳っていた、最後の唐揚げを口に運ぶ。やっぱりこれ、美味しいですね。乾いた笑いをこぼす新歓担当の先輩をよそに、彼女はほのかに顔を上気させながら、幸せそうに唐揚げを頬張っていた。
「知ってます?」
彼女の口癖だった。黒髪を肩で緩く切り揃え、バレないように背伸びをしながら、早いはずの私の歩幅に精一杯合わせて、じっと目を見て聞いてくる。黒目が大きな、彼女の目。それに対して分からないというと、彼女は怒った。
ちゃんと考えてくださいよ、先輩。私の話、聞いてないだけでしょ、先輩。
おどけたようにぷりぷりと、頬を微かにふくらませながら怒る彼女の瞳の奥に、微かな恐れと寂しさを見てからは、ちゃんと考えて応えるようになった。
居眠りしているときに、体がびくっとする現象をなんていうか?―急性起床症候群。
ショートケーキのショートってどんな意味?―食べると時間を短く感じるって意味。
シロクマは右利き、左利き?―両利き。
違いますよ~、先輩。そんなわけないじゃないですか。
正解です、先輩。もしかして、答えとか調べてました~?
どんなに検討外れの答えを言っても彼女は笑ってくれた。万が一、正解した時はびっくりした顔で、ちょっとだけ拗ねて、私を褒めてくれた。とても嬉しそうに褒めてくれた。
かしこぶりたいだけだとか、それしか話題がないだけだよねとか、サークルの同期や後輩は口々に言った。
たまに話すと、すごい疲れるんだよね。一方的っていうの?その癖こっちが聞いてないと不満そうな顔するし。
ほんとは、I大に行きたかったんだって。落ちたからって、私たちにアピールしても仕方ないのにね。
ほんとそれ。私たち試験官でも、解答用紙でもないんですけど。ねえ、先輩。
振られた話題に曖昧に笑う。もしかしたら、どこかで彼女に見られているかもしれないと思う。そんなわけないと頭の中で打ち消しても、その言葉に同意しかねたのは、単純に目の前の後輩がタイプではなかったからだ。タイプではなかったから、告白されたときも断った。
そして、タイプだったから、彼女に告白した。
「知ってましたよ、先輩が私の事好きなの」
顔真っ赤じゃないですか。からかいながら、それが当たり前のことのように彼女は言った。耳を真っ赤にしながら、囁くようにそう言った。
「知ってます?先輩。」
大きな黒目が私に問うている。今、彼女がどんな気持ちか。なんて言おうとしてるのか。なんて答えるべきなのか。
「私が誰のこと好きなのか。」
付き合った後も、彼女の質問癖は変わらなかった。何かを見た時、気づいた時、驚いた時、真っ先に彼女は私に聞いてきた。
「どうだった?」「これ、知ってた?」「びっくりした?」
「なんでそんなに笑ってるの?」
ジェットコースターが苦手なくせに、2回目のデートで無理して乗った後、真っ青な顔してそう私に感想を聞いてきた。彼女の心配をする前に思わず笑ってしまった私を見て、彼女はますます気分を悪くして、ますます私を質問攻めにした。
彼女は、私の家で一緒に本を読むことを好んだ。
「私がいいって言ってるんだから、気にしなくていいよ。」
どこか、デートに行こうか。この前、TVで見た美術館とか。
出無精の私が申し訳なさそうに聞くたびに、彼女はそう言った。
一緒に本読んでるだけでも、楽しいじゃん。私、感想聞くの好きだし。
私の家には、彼女の本だけが増えていった。
4段ある本棚の2列目が彼女専用だった。そしてそれは、2列目と3列目になり、4列目の棚も加わって、結局本棚自体が彼女専用のになった。びっしり敷き詰められた背表紙を眺めて、時々彼女は満足そうに笑った。幼い頃のアルバムを眺めるように、卒業写真を見るように、彼女は笑った。
何か彼女が私に問う度に、私はそれに返事をした。
真面目なものもあったし、他愛のないものもあった。
いつでも、そうだった。
「私が今何考えてるか分かる?」
「ごめん、分からない。でも、昨日の飲み会は軽率だった。ごめん。」
「分かればよろしい。」
「さて、今日はなんの日でしょうか?」
「君の誕生日?」
「ぶっぶー。貴方の誕生日でした!」
「今日のご飯何だと思う?」
「うーん。親子丼だと嬉しいな。」
「鶏肉、買ってあったかなあ。」
「いいよね?」
「うん。君は…」
「私が、したいの。」
いつでも、そうだった。それが私たちの形だった。漫才のボケと突っ込みのように、役割が決まっていて、会話はそのレールの上を乗ってどこまでも続いていくように思えた。私が彼女に問いかけることは殆ど無かったし、彼女が私の問いに答えることも、無かった。
だから、最後に彼女が何を考えていたのかも分からないままだ。
駆け付けた時には、既に何本ものチューブに繋がれた彼女に、私は声を掛けることができなかったし、真っ白な箱の中の真っ白な彼女に言葉を掛けることもなかった。
こうやって、真っ黒な石の前で声を掛けることもない。
『なんで鯨が打ちあがっちゃうか、知ってる?』
『親からも、兄弟からも離れて。あんなに痛そうにして。』
『良く分かっていないんだって。』
「なんだそれ。」呆れたようにつぶやくと、彼女は真剣な顔で言い返してくる。
「ほんとだよ。漁船や船舶の影響とか、環境汚染の影響とか色々言われてるけど、実際はよく分からないんだって。」
「じゃあ…」なんで質問したんだよ。
「こうやってさ。」文句を言おうとした私の言葉を遮るようにして彼女は続ける。
「今は皆集まって、鯨の事に夢中だけど、きっといつかは忘れちゃう。」
「この後、鯨がどうなるか知ってる?」
「…解体されるとか?海に還せなかったら、仕方ないし。」
憶えている。忘れていても、何回も思い出す。
「埋葬されるんだよ。砂の中の微生物が鯨を土に還してくれるの。」
微かに笑う彼女の顔。諦めるに笑う顔。私を、全てを諦めているその顔。
「でもね、数年後、また掘り返されるの。調査研究のために。その時にまた、思い出してもらえる。ここに打ちあがったこと。ここで死んだこと。沢山の人が見に来ていたこと。」
何度忘れようとしても、何度忘れても思い出す。
もう若くない、太った私の体を見る度に。
居眠りの、他愛のない夢から飛び起きる度に。
誕生日に、どのケーキを買おうか悩む度に。
ニュースの最初、あどけなく動物が鳴く度に。
すっかり整理整頓された本の背表紙を見る度に。
ジェットコースター、一番上で絶叫しようとする度に。
何度忘れても思い出す。忘れる度にさよならをして、さよならしたことすらも忘れて、いつかその度思い出す。あの日々をまた思い出す。彼女が再び問うてくる。
さよならを忘れて、また思い出す。
さよならを忘れて 蒼板菜緒 @aoita-nao
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