人身事故
葵
序章
「――今××線だ……。すぐに着く。――だから、ごめんって――え? ジュース?……分かった、買ってくよ……はーい、じゃねー……」
友人との電話を切って、一息つく。
完っ全に遅刻した。あー……またやっちまった……。
頭を掻きながら、ため息をついた。
俺がメッセージで遅れんなよって言ったのに……。
俺と友人は隣町に遊びに行く約束をしていたが、俺が朝から寝坊してしまったのだ。
身支度を超特急で終わらせ、朝ご飯も食べずに自転車をかっ飛ばしてきたが、駅前にある駐輪場は空きが一個もなかった。
探し回って、やっと空きを見つけて停めたが、待ち合わせには完全に遅れることとなった。
仕方なく、友人から電話で一報入れたところ、「綺麗にフラグ回収したね」等と、ストレートに皮肉られた。
その言葉が頭の中をよぎり、また俺はため息をついた。
でも、なんだかんだ心が広い友達でよかったよ……思いっきり皮肉られたけど。
仕方ない、自業自得なんだから。
俺は、罪悪感をなんとか切り替えるために、気持ちを割り切り、携帯電話を見た。
携帯電話の時刻と電光掲示板の時刻を照らし合わせると、
どうやらあと3分後に次の電車が来るようだ。
危ねぇ。
この電車を逃したら、危うく待ち合わせしている友人からさらに皮肉られるところだった。
これ以上待たせるのは、非常に申し訳ない。
電車が間に合うという事実が分かってから、俺は少し心に余裕が生まれた。
この余った時間をどうしようか、とあれこれ考えたが、待ってる間、友人から頼まれたジュースを、どこに売っているか調べることにした。
背中にあった肩掛けショルダーを前に持っていき、中身を漁ってスマホを取り出した。
友人が言っていたジュースを検索すると、どうやら期間限定のものらしいという情報がインターネットから手渡された。
期間限定品か……うわ、しかもかなり人気じゃん……。
友人が言ってたジュースがまだ売っている、かつ待ち合わせ場所から近いところを念入りに調べる。
その時、駅のホームに接近ベルが鳴り響いた。
『まもなく、××線に電車が参ります。黄色い線の内側にお下がり下さい』
お、来るな。
俺は黄色い点字ブロックの内側に移動し、周りに人がいないか、辺りを見回した。
誰かにぶつかったら、困るからな。
すると、俺の目はある女性に釘付けになった。
皺一つない、真新しい黒い着物を着た女性だった。
伏せている瞼は哀愁に満ちていて、それが妙に色っぽい。
色白の透明感がある肌は、端正な横顔と相まって美しさが際立ち、髪を上げて露にしている白いうなじも噛み跡をつけたくなるぐらい綺麗だ。
薄紅色の唇が真一文字に引き結んでおり、朱が差している。口紅なんだろうか。
妖しく艶めいていて、扇状的だ。
俺は、女性から目が離せなくなった。
この世界から他の景色や雑音がなくなったのか、という錯覚に陥るほど、俺はその人のことに釘付けだった。
体の底から今まで感じたこともない熱が湧き出てきた。
訳が分からない感覚に混乱しそうになる。
俺は今、ちゃんと立てているんだろうか……。
『まもなく、電車が発車します。駆け込み乗車は――』
無感情で淡々としたアナウンスで、我に帰った。
目の前には、電車が息を吐いて、駅に停止した。
乗らなくては、と意識を切り替えようとした時、視線を感じた。……あの女性がいる方向から。
まさか、視線に気づいて――
俺は、年期が経って錆びれてしまったロボットのように、首をぎごちなく動かして、視線の先を恐る恐る辿る。
女性が、俺を見て微笑んでいた。
こんな美しい微笑みは、今まで見たことない。
本当にこの人は人間なんだろうか、というぐらい綺麗な綺麗な笑顔だった。
俺はびっくりして慌てて目を逸らしてしまった。
電車のドアが空いた瞬間、すぐに飛び乗った。
ドア近くに立っていた人は、驚いたように少し後ずさった後、怪訝な顔をして後ろに退いた。
俺は急いで、すんません、と小さく謝罪した。
発車ベルは案外すぐ鳴った。
俺はほっと一息をつくと、顔を窓へと向けた。
そして、俺はまた固まった。
女性が俺を見て、笑いかけていたんだ。
俺の心臓が跳ね上がった。
今この瞬間の俺の胸に聴診器を当てたら、医者の耳が大変なことになってるんじゃないか、と思うぐらいだった。
身体全身が熱い。苦しい。
俺は胸を押さえて、身体全体をギュッと縮こめた。
はたから見たら、病気なんじゃないか、と心配されそうになるが、まあ大体当たってる。
電車のドアが閉まった。
再度、顔をあげることはなかった。
あげたらあげたで、また苦しくなる。
ああ、でもやっぱりもう一度だけ見たい。
色々迷った挙句、目だけを少し上げてチラッと見た。
やっぱり、美しい笑顔があった。
『まもなく、発車いたしまーす』
車掌さんの気怠げなアナウンスがここらへんで流れるはずなのに、血が脈々と通っている音が邪魔をした。
俺は口の中がカラカラだったので、屈んだまま喉を鳴らす。
変な体勢だったので、些か気管に入って少しむせてしまった。
電車が動きだし、女性がだんだん遠のいていくが、俺が見えなくなるまで、優しげな眼差しで笑顔を向け続けていた。
身体を支える力が徐々に抜けてしまった俺は、吊り革から手がずり落ちて、ぼんやりとドアにもたれかかった。
見知った景色が通り過ぎていくが、俺の脳裏にはあの美しい笑顔が焼き付いて、目で情景を受け取っても、そのまま流されていってしまう。
あの、美しい笑顔は、また見ることができるのだろうか。
きっとこれから生きていく中で、美しいと感じることはあの笑顔で最後なんだろうな、と、どこか確信めいたものを感じた。
その後、どうやって友達のところに行ったのかは分からない。
気づいた時には、ファミレスの机に、中身が肌寒くなった俺の財布が置かれていて、目の前に座っている友達が、大きいパフェを嬉しそうに頬張っていた。
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