第1話 立場

 蒼衣あおいが教室を出て階段に向かっていると、一人の生徒が駆け寄って来た。ボタンを留めてない紺色のコートから見えるブレザーの校章は臙脂えんじ色で、それは中等部二年生であることを表している。


「蒼衣先輩、部室棟までご一緒してもよろしいですか」


 蒼衣のことを慕ってくれている後輩の一人、十名とな響姫ひびきである。部活は違うが、たまに蒼衣が所属する和楽器に顔を覗かせに現れる。


 まだあどけない顔が緊張を滲ませて蒼衣を見上げていた。


 そんな後輩を安心させるように蒼衣は「一緒に行きましょうか」と微笑んだ。それだけで響姫は顔一面に安堵を見せて、少しうわずった声で「はい」と返事をした。


 そんな後輩の様子に蒼衣は密かに苦笑する。


 校内には響姫みたいに蒼衣を慕ってくれる後輩たちがいくらかいた。中には「お姉さま」なんて呼ぶ子までいる。


 いつ頃からそんな立場になったのかははっきりとは覚えていないが、おそらく中等部三年生時の文化せいか祭で三味線のソロを披露したあたりだろうか。記憶に間違いがなければそこから「お姉さま」などと呼ばれ出した気がする。


 蒼衣が通う星花せいか女子学園は中高一貫の女子校である。スール制度こそないが、中にはそういう関係を持つ生徒たちもいた。


 だから蒼衣も何となく先輩に憧れを抱く気持ちはよく分かる。かつて出逢った素敵な先輩たちに、蒼衣も憧憬の眼差しを何度送ったことだろう。


 高等部二年生となった今ではその先輩たちも皆卒業してしまい、今は自身が憧憬の眼差しを送られる立場になっている。


 自分自身が「お姉さま」という立場でいていいのかは未だに疑問がある蒼衣ではあったが、後輩たちの夢は壊さないまま卒業したいとは思っている。


「蒼衣先輩、先日の雪すごかったですね。ちゃんと無事にお帰りになられましたか?」


「ええ、大丈夫よ。家から学園までそこまで遠くないから、本降りになる前に帰れたわ」


「何もなくて安心しました。私は寮生だからすぐ帰れましたけど、自宅から通学だと悪天候の日は大変ですよね」


「そうね。そういう時は寮生が羨ましくなるわね」


 星花女子学園があるのは温暖な気候の東海地方だ。雪なんて滅多に降ることもなく、積もることもほぼない。


 だが先日の大寒波はそんな星花女子学園の周りにも雪を降らせ、大地を真っ白に染め上げた。


 普段は落ち着いている蒼衣も白いふわふわした雪に少しだけテンションが上がったのは内緒である。


 蒼衣と響姫は校舎を出て、部室棟へ向かった。今日は先日の雪とは打って変わって晴れている。冷たい冬の風が二人の髪を揺らした。


 蒼衣の所属する和楽器部も響姫が所属する合唱部も部室棟の一階にある。合唱部部室の方が入り口に近いので、二人はそこで別れた。


「蒼衣先輩、ごきげんよう」


「ごきげんよう、十名さん」


 二人は恭しく挨拶を交わして、蒼衣は響姫が部室に消えるのを待ってから立ち去る。


 和楽器部の部室は一つ挟んで隣りだ。


「こんにちは」


 蒼衣は挨拶しながら中に入る。部員たちが皆一斉にこちらに振り返る。


「蒼衣お姉さま!!!」


 中等部一年生の女子三人組が駆け寄って来る。キラキラとした羨望を向けられてこそばゆいが、「お姉さま」としてそんな顔を見せるわけにはいかない。


 鷹揚おうように構えて一年生たちに響姫にも向けたように微笑んでみせる。


「お姉さま、今日家庭科の授業でクッキーを作ったんです」


 三人組のうちの一人が手に持っていたクッキーを差し出す。きれいにラッピングされてピンクのリボンで飾られていた。


「私に?」


「はい⋯! 受け取っていただけますか?」


「もちろん。ありがとう」


 蒼衣は両手できちんとクッキーを受け取る。


「甘いものは好きだから嬉しい」


 喜ぶ蒼衣にクッキーを渡した一年生は顔を赤くしながらも、喜び満面だ。


 そんな様子を見ながら蒼衣は、自分の立場の不思議さを改めて感じる。


 自分はちっともお姉さまなんて柄でもないのに。学園内には蒼衣なんかよりもっと輝いて人を惹きつける生徒はいくらでもいる。アイドルだって在席しているし、女優だっている。そんな表の世界で活躍する生徒に比べたら、和楽器部で静かに三味線を弾いてる自分など、随分と地味な存在だ。


 それでも数いるたくさんの生徒の中から自分をお姉さまとして特別に思ってくれているのだから、星花にいる限りは最後まで「お姉さま」でいようと改めて思う。


「いいね、いいね~。青春の1ページって感じだね」


 部室の隅で漫画を広げていた部長の溝呂木みぞろぎが蒼衣たちを見て、腕を組んで感慨深げに頷いている。


「どういうことですか、溝呂木さん」


 蒼衣が若干呆れたように返す。


「そのままの意味だよ。これぞ乙女たちの園というか⋯。百木ももきさんはどうかそのまま乙女たちの憧れでいてね」


 勝手に浸って感動しているらしい溝呂木に蒼衣は嘆息する。彼女はいつも自分とは少しばかり違う世界にいるようだ。


「なんかさぁ、百木さんたち見てるとこれを思い出すね」


 そう言って溝呂木はかばんから漫画を一冊取り出した。それはスール制度のある女子校を舞台にした漫画である。


 一瞬蒼衣が気まずそうな顔になったが、それに気づいた者はいない。


 この秋に部長になったばかりの溝呂木は先代部長の蓮見はすみに影響されて、大の漫画好きである。特に女性同士の恋愛を描いた「百合」作品に大いにはまっていた。


 蓮見も部活が始まるまではよく部室で漫画を広げていた。あまりに漫画に熱中していて、いつか漫画読書部にでもなってしまうのではないかと危惧するほどに。


 溝呂木も日がたつにつれ、そんな蓮見に似てきている。


 部内でも蓮見や溝呂木に影響された生徒が少なくない。漫画の話で盛り上がることもしばしばだ。


「そう言えば、お姉さまはあまり漫画はお読みにならないですよね」


「確かにお姉さまが漫画を読んでるのは見かけないですね」


 一年生たちが疑問符を浮かべながら蒼衣に話しかける。


 蒼衣はみんなが漫画を読んでいても、一人黙々と楽譜に目を通していることが多い。和楽器部なのだから、別におかしなことではない。


 それに世の「お姉さま」は漫画など読まないのではないか。ならば自身も読まないのが道理だ。蒼衣はそう思っている。 


「⋯⋯私は漫画には詳しくないので」


 興味なさそうに蒼衣は答えてから、部室の端にある楽譜がしまってある棚に向う。


 蒼衣がそう言う以上は一年生たちも話を広げる気がないのか、黙ってしまった。


「百木さん詳しくないなら私がいくらでも教えてあげるのにー。特に百合漫画はいいよ〜。今めちゃめちゃ熱いからね! やっぱさ、百木さんはスールものがいいと思うんだよね。リアルお姉さまなら感情移入しやすいと思うし」


「はぁ、そうですか」


 蒼衣は嬉々としている溝呂木にどうしたものかと考える。


「自身がお姉さまだと逆に興味ないものかな? それならさ、ちょっと変わったファンタジー系の百合なんてどう?」


 溝呂木はその漫画の内容を詳しく説明しながら、かばんから薄い冊子をいくつか取り出した。それは世間では同人誌と呼ばれる自費出版の本である。そしてそれを蒼衣に差し出す。


「百合としてはありふれたジャンルじゃないかもしれないけど、主人公がどことなく百木さんっぽいんだよ」


 蒼衣は手渡された冊子を受け取って、まじまじと表紙を見入る。


「興味ありそうじゃん、百木さん。それ貸すから読んでみなよ。さてと、そろそろ部員そろったかな。部活始めますか」


 溝呂木がそう言うので蒼衣はその本をどうすることもできなくて、突き返すことがでになかった。


(なんで、が出回ってるのかしら)


 蒼衣はひっそりと重いため息を吐き出した。



 

 

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