小狸

 大学時代の友人と久闊きゅうかつじょすることになった。実に半年ぶりであった。感染性の呼吸器症候群が流行していた昨年よりも多少緩和はされたものの、未だ油断ならない状況であることには変わりない。不織布マスクを着用し都内のファミリーレストランで待ち合わせをした、彼は今、確か埼玉の近くで仕事をしていると言っていたか。学生時代と変わらずに彼は五分程遅れて悠長にやってきた。いつも通りの流れで、レストランへと入った。ドリンクバーとサラダと、そしてパスタを頼んだ。昼食を抜いてきて正解だと思った。ウエイトレスが去った後、学生時代と同じような軽快さでもって、彼はこう言った。

「俺、妊娠したんだ」

「ふうん」

 ここで大仰に驚かなかったことを、どうか褒めて欲しい。その発言が脳髄にみ込むまでに、何度思考が爆発しただろう。そしてその爆発を抑え込んだことか。確かに、半年前に会った時より、彼の腹部は膨張している。よくよく観察してみれば、奇妙な身体つきである。脂肪による肥満だとしても、手や足、顔や首のあたりはそのまま――腹部だけが妙に大きい。普通に見ている分には気付かないけれど、改めて言われて見ると、確かに、異様だった。

「おめでとう、で良いのかな」

 思わず叫び出したい狂気を抑え込んで、僕は極力冷静になって言った。彼は照れて笑ったようにして「ありがとうな」と言った。感謝の言葉である。色々な思考が頭を巡る。何が起きた、のだろう。生化学医療は、もうその段階まで到達しているのだろうか。産婦人科? 性転換? 次に僕は、何をけば良いのだろう。

「意外だったよ、君が女性だったなんて」

「俺は男だよ」

「そりゃそうだ」

 知っている。何なら大学の帰り、一緒に銭湯に入っている。体育の授業でも、更衣室は男子用のものを使っていたし、その時は間違いなく、彼は男であった。分かっているけれど、陳腐な問答をしてしまった。いや、でも――と、僕の中の理性が現実を否定する。

「今の時代、古いジェンダー観なんて捨てた方が良いぜ。男が妊娠しない、なんてさ。育児の両立だって、どうしても女側の負担になっちまう。出産だって、命の危険が伴うんだぜ、平等じゃないんだ。だったら、それを男の側で引き受けちまえば、イーブンってことだろう」

「ああ、確かにそうだな」

 何が「そう」なのだ。一体この男は、何を言っているのだろう。確かに、昭和的、家長制度的、亭主関白的な父親像は、令和の世になって批判されるようになった。それは良いことだと素直に思う。ただそれは制度や慣例の話であって、肉体構造そのものに適用できるわけではない。そもそも染色体の形から違う、胎内の発生の段階で決定する。簡単に、人工的にとっかえひっかえの利くものではない。現代の科学ではそれは叶わない――とは思う。解剖学や医学を専攻したことのある者なら分かるだろうが、同じ人間にしても、雌雄しゆうの構造の違いはかなり異なっている。体格、骨格からそもそも異なっており、ある器官、ない器官がある。分泌されるホルモンも違う。いくら多様性を縦横無尽に認めることこそ正義と信じて疑わない現代ではあれど、身体の構造という壁を超えることは、まだ達成できてはいないはずだ。そっと極力不快感を与えないように、彼の全身を見た。医学方面には素人知識ではあるけれど、妊娠とはただ胎児が発育するだけではない、のではなかったか。体格や体調の変化もあると聞く。大き目のサイズのパーカーを身にまとった彼の体格そのものは、半年前と変わっていないように見えた。ただし腹部を除いて。

「じゃあ、何か? 君は、その――不躾な質問になってしまうが、身体の構造的には、女性だったってことか? その、所謂性自認が男性である、と」

「いや違う」

 僕が正気を保つことのできる最低ラインの質問ではあったけれど、彼はそれをも否定した。

「だから言ってるだろう。俺は男で、性自認も男。そして妊娠している、それだけの話だよ」

 その二つは、普通は平行して積まれることのない事象である。それだけの話なのは間違いないが、それだけで済ませてしまって良い話でもない。ただ、この辺りで僕の思考能力が限界を迎えた。理解できない現象に直面した際、人は思考を放棄するらしい。恐らくそれがただしい、このまま考察を続けていたら、いずれ僕は発狂していただろう。

「そうか、いや、失礼、悪いことを言った。いや――しかし驚いたよ、君が結婚していただなんて」

「結婚? していないよ。式を挙げたら君を呼ぶと、真っ先に話しただろう」

 また思考しそうになって、努力してそれを投げ出した。彼には同棲中の彼女がいた。半年前は結婚を考えているが、疫病が落ち着いたらゆっくり準備を、などと言っていた。気になり、しかしそれを抑制する気力もなかったので、僕は尋ねた。

「■■さんは元気か?」

 ■■とは、彼の恋人の名前である。

「ああ。あれ、それも話さなかったか。■■とは同棲している……いや、前に話した気がするな、お前は忘れっぽいからな。うん、まだ入籍はしていないけれどね。彼女も、お腹のこの子が産まれることを心待ちにしている。職場にも休暇を受理されたからね、少し休んで、体調を整えてから出産に臨むよ」

 自らの、ぽっこり膨らんだ下腹部をでながら、彼は優しくそう言った。すっと、己の顔から血の気が引くのが分かった。抑えようとしたけれど、駄目だった「失礼」と言って、トイレに行って吐いた。朝食で食べたシリアルと牛乳が、胃液と混ざった何かが溢れてきた。胃の内容物を出し終わり、トイレットペーパーで口を拭き、便器をアルコールで除菌した。手を洗い、顔を洗って、鏡を見た。鏡の中の僕は、引きつった笑みを浮かべていた。思い切り手を握りしめたのだろう、手のひらに血がにじんでいた。舌が口蓋の上の方を制御不能のまま動き続けるために、唾液が口の横からあふれた。あのまま彼と相対し続けていたら、本当になっていたかもしれない。常識の及ばない、終わった世界を目にすると、人はこうなるのだと学んだ。考えよう。落ち着いて振り返るとしよう。冷静さが取り柄だ。蛇口を思い切りひねり、冷水を浴びることで、強制的に心拍を落ち着かせた。ハンカチで申し訳程度に髪を拭いた。大学時代の彼は男だった。間違いない、銭湯で僕は彼の全身を見ている。男性であることに今更疑念は抱かない。それで結婚を考える恋人がいる。営業の仕事をしている。そして妊娠している。それを彼の恋人も、職場の人間も、それを認識し、認めている。どこまでが嘘でどこまでが真実か、どこまでが正気でどこまでが狂気か、どこまでが男でどこまでが女か、あらゆる境界線がことごとく曖昧模糊となり、僕の脳髄を攪拌かくはんする。半分朦朧もうろうとする意識の中、それでも何とか両足で体重を支えながら、僕は思う。性別間の機能差を度外視するとして、男性としての役割を一旦無視するとして、生物学的な見地を総じて棚に上げておくことにして――それでも一つだけ、氷解せぬ疑問がある。

 彼の腹の中には、一体何がいるのだろう。



おわれ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小狸 @segen_gen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ