第5話・名前

 相手が尊だとわかると気が抜けて、灯里は倒れそうになりよろめいた。

 だが、力強い腕がよろめく身体を受け止めてくれる。


「大丈夫か? 怖かっただろ?」


「は、い……。あ、あの……」


「ん?」


「あの、どうして、ここに……」


 尊がここに居るのは偶然だろうか?

 出掛けた時に偶然灯里を見かけて助けてくれたのだろうか?

 そうだとすると、とても幸運だったと灯里は思った。

 もしも尊が来てくれなければ、自分は今頃どうなっていたかわからない。


「あぁ、聡に頼まれたんだ」


「え?」


 尊は意外な事を口にし、灯里は驚いた。


「聡兄さんに?」


「あぁ。聡から仕事でどうしても家に帰れなくなって、お前が家に一人だって連絡があったんだ。そんで、最近また当麻がウロチョロしてるようだから、心配だって……」


 だから、様子を見に来たんだ。

 そう言った尊は、優しく灯里を見つめた。


「どう、して?」


 尊の言葉を聞いて、灯里は不思議に思った。


「え? だから、聡から電話があってよ。今説明したけど、聞いていなかったのか?」


「え? あ、あの、聞いていました。でも……」


「ん?」


 くい、と尊が首を傾げる。

 彼には灯里の言おうとしている事がわからないらしい。

 灯里が不思議に思い聞こうとしたのは、いくら聡から連絡があったとはいえ、大勢いる生徒の一人でしかないはずの灯里の元へ、尊が来てくれたという事だ。

 だけど、灯里はそれを尊に聞く事が出来なかった。

 今は不良たちに囲まれていたところを助けてくれた事に感謝して、花火大会のこの夜に尊に会えた事を素直に喜ぼうと思う。


「あ、あの、た、助けに来てくれて、ありがとうございます」


 そう言って頭を下げると、オウ、と尊は笑って頷いた。

 尊の笑顔を見て、夜なのに太陽みたいだと灯里は思う。


「古城、今日、聡から外に出るなって言われてたんだろ? 何かあったか?」


「はい……」


 灯里は頷き、当麻の部下の女が自分を迎えに来た事を尊に言った。

 そして、あのまま家に居れば、聡も和利も居ない家に、当麻自身が来てしまうのではないかと思い、外出するふりをしようとして家を出た事を。


「それで……あの不良どもに絡まれちまったって事か」


「はい」


 灯里が頷くと、ふう、と尊が深い息をついた。

 灯里は自分の行動が浅はかだと呆れられてしまったのだろうかと、思った。

 だがそれは違い、


「本当に、間に合って良かったよ」


 と尊は続け、優しく灯里の頭に手を置き撫でてくれた。

 先程までは一人でとても心細かったが、今は尊がそばにいてくれるから、とても安らいでいる。

 尊に、先生、と呼びかけようとすると、


「おい、今日はオフだって言っただろ?」


「んんっ」


 頭に置かれていた手がすばやく灯里の口を塞いだ。


「今日は、マジで俺は先生の仕事はしねぇつもりなの! だから、先生とか呼ぶなよ」


「で、でも……」


 それなら、今の尊の事は何と呼べばいいのだろう。

 いつもは、「先生」だ。

 でも今はそう呼ぶなと彼は言う。

 では、「新堂さん」と呼ぶべきだろうか。

 それとも――。


「名前、呼べ」


「え?」


「俺の名前……尊っていうんだけど、知らねぇ?」


「し、知ってます、けど……」


 本当に名前で呼んでもいいの?

 灯里は尊を見つめ、そう問うた。尊は、


「今日の……今……二人きりのこの一瞬だけ、な」


 と言い、優しく目を細め頷いた。


「尊、さん……」


 小さく呼びかけると、あぁ、と尊は小さく返事をした。

 これは奇蹟か、それでなければ夏の夜の夢ではないだろうかと灯里は思った。

 胸がいっぱいになって、涙が零れそうになる。

 いつか、こんなふうに彼を名前で呼ぶ日がくればいいのにと思う。


「灯里」


「え?」


 名前を呼ばれ、灯里は驚き尊を見つめた。尊は灯里を優しく見つめたまま柔らかく笑うと、


「俺も、今日、今だけな」


 と言い、着ていたパーカーを脱ぐと、灯里の肩にかけてくれた。


「これ、着ておけ」


「あ、ありがとうございます……」


 灯里は尊のパーカーを借りる事にした。

 カーディガンを羽織ってはいるものの、キャミソールの胸元が大きく開いていたからだ。

 尊のパーカーは大きくて、袖を通しても腕が出なかった。

 裾は太ももくらいまであって、ショートパンツが隠れてしまう。

 もしかすると、パーカーしか着ていないように見えてしまうかもしれない。


「なんか……んー……でも、なぁ……」


「ど、どうかしましたか? 変、ですか?」


「いや、そうじゃねぇ。そうだ、ついでにこれも被ってろ」


 尊はそう言うと、パーカーのフードを灯里にかぶせた。

 少し暑かったが、尊に包まれているような気がして灯里は心地良さを感じた。


「誰かに見られると、マズイかもしんねーしなー」


 ぽつり、尊た呟くように言う。

 それは、彼が教師で自分が生徒だからという事だろうか。

 自分と一緒では尊に迷惑がかかるのではないだろうかと思うと、灯里は胸がツキンと痛むのを感じた。

 ここは借りたパーカーを返し、自分は家に戻った方がいいのかもしれない。

 家を出てからだいぶ時間が経っているから、もう当麻の部下の女は居なくなっているかもしれないし。


「あ、あのっ」


 一緒に居たいけれど、尊に迷惑がかかるくらいなら、帰った方がいい。

 灯里はそう思ったのだが、


「じゃあ、行くぞ、灯里」


 と言い、尊は灯里に手を差し出した。


「え?」


 驚いて首を傾げ、灯里は尊を見つめる。


「行くぞ、こっちだ」


「あ、あの……」


 どこに行くつもりなのだろう?

 灯里が戸惑っていると、尊は灯里の手を強引に掴む。


「行くぞ、灯里。人が増えてきたから、はぐれるなよ」


 尊はそう言うと灯里の手をぎゅっと握ってくれた。

 大きな手だなと灯里は思う。

 大きいだけでなく、優しい、とも。

 灯里は、


「はい」


 と返事をすると、尊に手を引かれるままに歩き出した。

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