メルヘン村の必殺仕事人

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第1話

メルヘン村の必殺仕事人


 鏡の前で身支度を済ませたシゾー。レースで縁取られた白いエプロンを掛け、最後に帯状の鎖のアクセサリー、シャトレーヌを腰に着ける。シャトレーヌは純銀製で、細工の施された美しく贅沢な造り。帯状に編まれた鎖に何本かに別れた鎖が繋がり、その先には種類の違うはさみが収まるホルダーが繋がる。また指貫やピンクッション、小さなカルネメモ帖に細いペンシルケースがチャームとして付いていた。その一つ一つが細工の施された美しい物だった。

 エプロンのポケットにシャトレーヌの鎖の先を収めると、シゾーは部屋を出た。

 シゾーが歩くと、編み上げのブーツの堅いヒールの音と、まるで修道女が提げる鍵の束か足枷を引きずって歩く囚人のように、シャトレーヌの鎖の擦れ合う音が聞こえる。


 作業台を兼ねた四角い木のテーブルに、背面の商品棚から取り出した布を広げた。商品棚は田舎の手芸品点にしては珍しく、品揃えを豊富に取り揃えていた。

「この布と、それからそっちのサテンを」

 シゾーは指定された長さをテーブルに刻まれた定規で測り、迷いなく布に鋏を入れた。その鋏はシゾーの魔法の力によって思い描く通りに進み、何の抵抗もなく滑るように布を切り離した。

「マギー、リボンもちょうだい」

「何色かしら?」

 シゾーが布を片付ける横で、祖母のマギーが別の棚にあるリールに巻かれたリボンを取る。

「リボンは娘さんに?」

 マギーからリールを受け取ると、シゾーは躊躇いなく再び鋏を入れる。

 魔法使いである祖母マギーと孫娘シゾーの二人が営むのは、手芸品と雑貨を取扱う白い木蓮の花の絵が目印の、小さな店『マニョリアユロン雑貨店』だった。


「いつ見ても、シゾーのシャトレーヌは綺麗ね」

 常連客のダフネとプルネラだ。一緒に住む祖母のマギーより歳を召し、暇つぶしに朝から昼まで店の前に出した椅子に座って居る。昼に一度家に戻ると、また昼過ぎにやって来ては二人並んで座って居る。風の強い日や寒い日、夏の日差しの強い日には、椅子を店の中へ移しそこに居る。お茶を飲んだり編物をしたり、口数は少ないがお喋りしたり。それが普段の風景だった。

「マギー、毛糸をちょうだい」

「この間と同じ色? それとも別のがいいかしら?」

 マギーは背後の商品棚へ振り返る。背後の商品棚には天井まで高く、色や種類を分けて毛糸が積まれていた。

「同じのを」

 ダフネは手提げ袋から編み掛けの品物を出すとカウンターの上へ広げた。

「あら、貴女きのう編んでたじゃない」

「もう終わっちゃうのよ。次の準備しておかないと」

「あらそう」

 他愛もないダフネとプルネラのやり取りだ。

 ダフネは娘家族と住んでいるが、孫の嫁が来てからは家事を取り仕切る権利を娘に譲り、ここで気兼ねなく隠居生活を過ごしている。

 一方プルネラは旦那が死んでからは一人暮らしで、若い頃からマギーを娘のように思って来た。その頃のマギーもまだ結婚したばかりで、この店も今とは少し状況が違っていた。


   *   *


 とある屋敷の垣根。

「ここをばさーっと、切っちまいてぇんだ」

 広い敷地の剪定は庭師一人では手が足りず、庭師はシゾーに声を掛けた。


 店の外からウインドウを覗き込み、シゾーを見付けるとドアを開け顔を覗かせた町の庭師エンゾ。

「シゾー、悪いが仕事を手伝ってくれるか?」

「ええ、午後からでいいかしら?」

「ああ、一番に頼むよ」

 そうやって時たま仕事を頼んでいく。汚い服で店の中を汚してはいけないと、いつも決して中へは入ってこない庭師。

 小さな町とはいえ、そもそも町で庭師が一人なのかといえばそういう訳ではなく、もう一人この町で評判の庭師、テオが居る。では何故現状庭師が一人なのかといえば、先日、集会所横のつたの剪定をしている時、テオは誤って梯子を踏み外し足を骨折してしまったのだ。原因は、間近に迫った妻のいとこの旦那の兄弟の娘の結婚式に頼まれたスピーチの練習に気を取られたからだった。全治二ヶ月となり、今はまだベッドの上という訳。

 そしてテオと双子の兄弟、兄であるエンゾこそが、困ってシゾーに声を掛けたという訳だった。弟子も何人かいるが、情けないことにまだアシスタントとしては力不足だった。

「あの大きなモミの木は後にしましょうか」

 見据えた先に立派なモミの木が見えていた。切り倒したあかつきには、クリスマスツリーとして町に寄付され、集会所横に飾られる約束になっているのだが……、そのクリスマスにはまだ早過ぎる。

 シゾーはシャトレーヌの鎖を手繰り寄せた。先にはいつも店で使う大振りの鋏がある。裁ち鋏の形態をしているが、シゾーの魔法の力によって別物になる。刃先から柄まで彫金で刻まれた細工は細部まで美しく刻まれ、シゾーの指に吸い付くようにフィットした。

「シゾー、これは君の仕事とは思えないのですが」

 エプロンのポケットから顔を覗かせ訝しがるのは、ハリネズミのエリソンだ。

「いいのよ、切るのが私の出来ることなんだから」

 エリソンは至って普通のハリネズミだった。ヨツアシハリネズミという品種で色もスタンダードとどこにも特別なものはない。強いて言えば性格が普通のハリネズミとは少し違う所があった――。

「外へ出るんですか? では今日はこの帽子を」

 紫外線を気にし、特製の帽子をかぶる。持っている帽子の種類はフェルトの帽子から麦わら帽子まで多彩だ。お気に入りは中でもパナマハットらしい。

 鏡の前で色違いのネクタイをあれこれ替え、悩ましく眉根を寄せた。

「ディナーですか……赤い蝶ネクタイは、ちょっと主張し過ぎですかね、青い方で」

 こんな具合だ。

 因みにハリネズミはネズミではなくモグラの仲間だったりするので、正直食べ物が気持ち悪い。だがエリソンは、

「うぇっ。こんな物食べ物ではありません!」

 ハリネズミが好物とする昆虫やミミズ、ナメクジを嫌い、人間と同じ物を食べる。

「エリソン、具合悪くなるわよ」

 シゾーの心配など聞き耳持たずだった。エリソンいわく、昆虫を食べる方が具合が悪くなるらしい。虫やミミズを食べるなら、人間と同じように牛や豚を食べても変わらないというのがエリソンの持論だ。


   *   *


 遠慮がちに店へやって来た顔馴染みの客をマギーが笑顔で出迎える。

「いらっしゃい」

「こんにちは、マギーさん。……シゾー、髪を少し切ってもらえるかしら?」

「ええ。ルイーズの婚約が決まったんですってね。おめでとう」

「あら、そうなの?」

「シゾーより先に行くなんて」

 シゾーに気を遣い、嬉しいはずの気持ちを表に出せず、複雑な表情でうっすらと笑みを浮かべて俯いた。

 婚約が決まった娘はシゾーの三つ歳下のルイーズ。シゾーとは幼馴染みで、小さい頃からよくシゾーが面倒をみていた。ルイーズは何をやるにもシゾーの真似ばかりして……。ファッションを真似、遊びを真似、勉強まで、追い付こうと真似をするくらい。唯一真似出来ないのは、魔法の力だけだった。そんなルイーズがシゾーよりも先に結婚する。それを思い返せばルイーズの母親は、喜び半分複雑だった。

「そんな顔しないで。喜んでいいのよ。私もすごく嬉しい!」

「ホント?」

 妹のような幼馴染みの婚約の報告に、シゾーは心から喜んでいた。優しく微笑む。

「……そうね」

 ほっとした様子でルイーズの母親は顔を上げ笑顔になった。


 店へ入って来る前から彼の表情は幸せに満ちていた。いつか彼がこの家に幸せを運んで来てくれることをマギーは願っている。

「やあ! マギー」

「あらローラン」

「変わりはないかい?」

 制服姿で現れたのは町で一人の警察官ローランだ。

 小さな町に事件は無く、犬が迷子だとかどこの家の子供が泣いているとか、誰かが梯子から落ちて怪我をしたとか……。そんな事件とも言えない事件ばかりしかない。

 ローランは少し離れた都会の街からこの小さな町の警察官として派遣されやって来た。やって来たその日にこの店を訪れ、シゾーと出会い一目で惹かれてしまった。いわゆる一目惚れで通いつめているのだが、本人は職務の一つだと隠しているつもりでいるらしい。だが周囲にはバレバレだった。マギーが願う所以の一端だ。

「ええ、お陰様で」

「そう……それで……シゾー……は?」

 姿の見えないシゾーを探して目を游がす。

「居るわよ」

「そうですか。いつも居る人の姿が見えないと心配で」

 完全に見透かされている。本人は全く気が付かない。

「いつも通りダフネとプルネラも居るわ」

「そ、そうですね」

 ぎこちなく苦笑いで誤魔化すローランをマギーは微笑ましく見る。

「エリソンも居るわ」

「や、やぁ、エリソン」

 カウンターの上に座るエリソンはチラリとローランの方を見ると、鼻をピクピクと動かした。それが挨拶のように見えた。

「今日は?」

「えっと、また後で来ますね」

「ええいつでも待ってるわ。次はお花を持って来て」

「花?」

 鈍いローランは首を傾げながら、シゾーにも会えず、どこかションボリと肩の力が抜けた様子で店を出て行った。

 その日の午後。

「シゾー! これを君に」

 差し出された小さな花束。シゾーは突然ローランから花を贈られ、驚くが素直に贈り物を受け取った。花を贈られれば嬉しくないはずがない。戸惑いながらも頬が緩む。

「あ、ありがとう。ローラン」

 ローランは満面の微笑みで返す。ローランがシゾーに選んだ花は赤いポンポンマム

「こっちはマギーに」

「あら、私にも? ありがとう」

 断る理由も無いので受け取るが、そういうことじゃないのよね……。とローランの的外れな行動にマギーは困り顔で二人のやり取りを見た。

 お宅訪問の手土産を要求した訳ではなかった。シゾーへの気持ちを形で示して欲しかったのだ。でなければローランの気持ちに気付いているシゾーもそれに応えない。けれどローランにはそれが分からなかったらしい。マギーは肩で小さくため息をついた。

「今日はどうしたの? 花をくれるなんて」

「たまにはね」

 嬉しそうに花束を見て尋ねるシゾーに、ローランは満足げに答えた。


 シゾーは花瓶に生けた花束を自室の窓際へそっと置いた。中庭から風が入り小さな葉を優しく揺らす。

「シゾー、君は男性から花を貰うということがどう意味を持っているのか分かっているのですか?」

「ええ。だからこうして大事に飾っているんじゃない」

「いいえ。全然分かっていません!」

「自分は何も貰えなかったから、拗ねているの? あ、魔女のお伴なのに猫じゃないって言われたこと、まだ根に持っているのね? からかわれた訳じゃないのに」

「そんなこと、言われるまで忘れておりました。ローラン様は優しく接して下さいますから」

 精一杯の皮肉なのかとシゾーはクスッと笑う。ローランが優しく接するのはエリソンの背中のトゲが怖いからだ。

「食べちゃダメよ」

「誰が花なんて食べますかっ!」

 怒るエリソンを後目に花を見詰めた。シゾーは花の意味を知っていた。

「君を愛す」

 小さく呟いた。

「何か言いましたか?」

「別に。嬉しかっただけです」

 マギーが心配するほどローランは鈍感で的外れではなかった。実はシゾーに贈った花は選びぬかれ、花言葉に意味を託していた。短時間で選んだにしてはかなり冴えている。シゾーに想いが巧く伝わらなかったように思えて、しっかりと伝わっていた。


   *   *


 カウンターの上にちょこんと小さな子供の手が乗る。カウンターに届かないほどの幼い子供だ。覗き込むとサーシャがいた。サーシャは裏の通り沿いに住んでいる。

「シゾォ、ちゅめ(爪)きって」

「いいわよ。外へ行きましょ」

 椅子を準備した。抱き上げて座ろうとするとそれを拒み、シゾーのスカートの裾を引っ張り先に座れという。いつもと違う様子にシゾーは少し驚き首を傾げた。どうやら自分からよじ登って座りたいらしい。足を無理矢理シゾーのタイツを履いたスネ辺りにかけるが、滑ってなかなか登れず、少し手助けすると、慣れた様子で満足気に膝にちょこんと座る。

 準備は万端だ。シゾーはシャトレーヌに掛けた小ぶりの鋏をレース細工の銀のホルダーから取り出した。

 鋏とホルダーは対になり、隣町の銀細工職人により造りあげられた一点物。細部まで丁寧に仕上げた細工はシゾーの為の特注品だ。イヴィーにより誕生日プレゼントで贈られた物だが、数ある中で唯一気に入っている。だがその言葉は禁句で、気に入っているなど本人に言おうものなら、鬼の首を取ったばかりの大騒ぎになることが目に見えているので、贈られた時に礼を一度言ったきりでそれ以上は決して礼や感謝を口にしない。

 鋏の柄にも彫金の繊細な細工が施されていた。シゾーの指に丁度良く収まる。

「どうして、ちゅめってのびるのかなぁー?」

 怖がらずサーシャが指を差し出すのは、シゾーの魔法の力だった。ぷにぷにとした幼い手指をシゾーは優しく握る。

「サーシャと一緒に成長しているのよ」

「きらないと、いけないの?」

「そうよ、人を傷付けるし、折れたら自分も傷付くからね」

「いたいー?」

「ええ、傷を付けるのも付くのも、とっても痛いわ。それは良くないこと」

 痛みに嘘は無い。だが幼いサーシャの知らない所でシゾーはあらゆる“モノ”を切り続けている。

「ちゅめきったらね、ママがサーカスちゅれてってくれるって」

「サーカス?」

 そういえばサーカスの興行が来ると、どこかで貼り紙を見た。興味がなかったので、サーシャに言われるまで見たことも忘れていた。どこで目にしたのかさえ思い出せない。

「サーシャは何が一番観たいの?」

「キリンさん」

「キリン? どうして?」

「キリンさんのふさふさんとこをね、よいしょってするの。たかいでしょ?」

 予想外の答えには彼なりの考えがあった。サーカスと言えば花形の空中ブランコや道化のピエロ。動物芸ならライオンや象じゃないかと答えを安易に想定したが違った。

「そうね。サーシャは高い所を見てみたいのね」

 残念ながらサーシャがサーカスでキリンを観ることは叶わなくなる。


 その客は店を閉める三十分ほど前にやって来た。正確には、その客が店へ入って来るのを三十分ほど気長に待っていた……のだが――。

 シゾーの目に最初に入ったのは、店の中を片付けている時だった。

 一人の若い女性が足早に店の前の石畳の道を横切った。それだけのことなら普通気にも止めないのだが、直ぐに戻って来るとまた足早に店の前を横切って行ったのだ。それが見慣れない女性なので、ふと目についた。

 急用でも思い出しのかしら……。

 それでもこの時はまだその程度で、シゾーもまさか、自分に用があるとは思わなかった。

 すると同じ女性がまた店の前を横切ろうとした。目で追うと、ウインドウからドアの窓越しに移り、今度は一瞬躊躇うように足の速度を緩め、そしてまた足早に通り過ぎて行く。かと思うとまた戻って来て、一瞬店を見て足早に通り過ぎて行く。行ったり来たりを繰り返し、さすがにシゾーもその不可思議な行動に気が付いた。

 足早に来る。躊躇う。店のドアに手を掛けようか迷う。やっぱり通り抜ける。けどやっぱり戻って来て店を一瞬見て足早に通り過ぎる。を機械仕掛けの人形のように繰り返した。どうやら店に入りたいらしいが、何か躊躇う所があるらしい。シゾーは女性が自分のタイミングで入って来るのを待つことにした。

 すると突然、あんなに行ったり来たりしていた姿がぱたりと見えなくなった。暫く待ってみたがやはり来ない。

 諦めたのね……。

 店は閉店時間。シゾーが店のドアに施錠しようと近付くと、どこかで見ていたのか慌てて女性がドアの前までやって来た。驚く速さでノブを掴む。

 ドアの窓越しにシゾーと目が合い、動揺してハッと慌ててノブを離した。それからもう一度ノブを掴み、

「まだ、いいですか?」

 ドアを開け、言って一転して強い眼差しでシゾーを見た。

「ええ、どうぞ。ウチにあるものでしたら」

 招き入れ、シゾーはいつも通り、接客する時と同じようにカウンターの中へ戻った。

 女性はソワソワした様子で店の中を見て回る。回るというほど商品は置いていないが……。そもそも商品には用事がないならしく、体裁的に一通り見て回ると、シゾーの向かいに立った。

「あの……」

「はい」

 どこか心ここに有らずな様子の女性は、見たところシゾーと同じくらいの年齢のようだった。二十代半ばくらい。背丈も同じくらいで。素朴な田舎娘という感じではないが、生活は決して楽ではないのだろう、荒れている手先から見て取れる。

「……何でも切ってくれるって、本当ですか?」

 女性の言葉に、シゾーの穏やかな目付きが一転する。

「私が切れるものなら」

「人を……男の人を切って下さい!」

 あまりにも唐突なお願いだった。


 ドアの施錠をすると、窓部分に布製のシェイドを引き下ろした。

 女性を招いたのは店の奥にある自宅の一室。応接室として使う部屋には女二人暮らしを物語るような家具が揃っていた。小花柄のソファセットや、可愛らしい装飾のテーブル。飾られた額やちょっとした小物がそうだった。

 暗い表情で体を堅く強張らせて、緊張した様子で女性はソファに座る。

「こんな時間にすみません。明日にしようか迷ったんですけど」

「構いませんよ、丁度お店を閉める所だったので」

 シゾーはコーヒーを入れ、女性の前にカップを置いた。

「それで……説明して頂けますか、切りたい理由」

 前置きをするような言い方はしなかった。冷たくさえ感じるが、シゾーの雰囲気のせいかそんな風には聞こえない。女性も自然に話し出した。

「一年前まで私、別の町に居たんです。そこで独り暮らしのご夫人のお宅に住み込みで、お手伝いをして働いていました」

 つつましく、贅沢ではないけれどそれなりに満ち足りた生活をおくっていた。

「ある時、友人が興行に来たサーカスへ誘ってくれたんです。奥様も行くように言って下さって、出掛けることにしました」

 その日は一日お休みをもらい、友人と二人、開演の何時間も前からサーカスの天幕の周りをうろうろとしていた。同じように、サーカスを楽しみに客が早い時間から集まり、出店や人気にあやかった商売もあり、賑わっていた。

「私達、うろうろしている内に団員の方達が移動や寝泊まりに使っている、貨車の置かれている場所へ迷い込んでしまって」

 迷って困っていると、男が声を掛けて来た。

「君たち、ここは立ち入り禁止だよ」

 男は、サーカスの花形である空中ブランコの曲芸師だった。ただ人気のある曲芸師というだけではなく、スタイルや笑顔が素敵だと特に女性の間で人気があった。そんな男と知り合い、親しくなるのに時間はかからなかった。

「最初はとっても優しい人でした。いえ、最後まで優しかったんです。だからつい……」

 空中ブランコの華麗な曲芸と同様、言葉巧みに騙された。

「仲間が怪我をしてね、公演に出られないんだ」

「まぁ、お気の毒に」

「田舎にいる兄弟達は借金の返済を迫られているらしい。何とかしてやりたいんだけど……俺だけじゃ足りなくて、難しい」

「いくら、必要なの? 私で役に立つなら」

 今思えば、これが始まりだった。気付かない内に何度とそれなりの額の金を渡していた。

「あぁ助かるよ。君は美しい心を持っている」

 これがお決まりで常套句だった。言われる度、愛されていると勘違いしていた。

「二人の為だよ。今預ければその金が三倍になるんだ」

「でも……」

「今の額が三倍になれば、結婚した後」

「結婚? 私と!」

「あぁ。二人で暮らそう、そうすれば生活がずっと良くなる」

 慎ましく生活して貯めた貯金ももう、残り僅かになっていた。だが結婚という言葉に惑わされた。

「分かったわ。私達二人の為よね」

「君は世界一美しい心を持っているよ」

 信じて、残りの全財産を男に預けた。

「お金を彼に預けた次の日、サーカスごと居なくなっていました」

 シゾーはコーヒーカップを口に運ぶ。女性が話すまま、一度も相槌は入れなかった。

「でももうそれはよかったんです。けれどきのう、彼に会ったんです」

 男に騙されたことを知り、失意のまま仕事を辞めて町を離れた。心機一転新たな町に移り住み、仕事にも慣れた頃、サーカスの興行がやって来ることを知った。そしてカフェで出会ってしまったのだ。

「逃げようと思って、慌てて席を立ったら彼に当たってしまったんです」

 ぶつかった拍子に床へ倒れ込むと膝と手を付いた。弾みで提げていたハンドバッグの口が開き、中身が辺りに散らかってしまった。ハンカチや口紅と共に明らかに現金が入っていると分かる封筒が目の前に広がる。その日は丁度、給料日だった。

「そのまま逃げてしまえば良かったのに、思わず彼の顔を見て『ごめんなさい』って謝ってしまって。そしたら、」

 ぶつけられた挙げ句目の前で倒れられ、まるで自分が悪いようだと男は苛立っていた。だが散らかったバックの中身に気付くと態度を一変した。

「大丈夫かい? ごめんなさいだなんて、『君、美しい心を持っているね』お詫びをさせくれないか」

 バックの中身を拾い集めると、男は手を取り優しく微笑んだ。

「そう言って、コーヒーをおごって来たんです。彼は私のこと、ぜんぜん覚えていませんでした」

 思い出し、悔しさに涙が溢れた。女性のふっくらとした頬を伝う。

「それなのに私……彼に会えて、嬉しかったんです。だから、だから……」

 シゾーは持っていたカップをゆっくりとテーブルへ置いた。

「その男を切ってほしいのですね?」

「……はい。名前はトロンプ」

「そのお話し、お請けします」


 最初はたまたま通りかかっただけだった。聞こえてしまったというより、孫の話し声が聞こえたので意識的に聞き耳を立てた。

「請けるのね?」

 女が帰ると、マギーはシゾーに声を掛けた。

「ええ、マギー」

「何て、何て不幸なの」

 悔やむように握りしめるマギーの手元に気付くと、シゾーはつい目を背けた。仕事を引き受ける度、マギーは代々伝わる血脈の力に苦しむのだ。娘、孫へと受け継がれた魔法の力は使い手によって違う。善きものにもなれば邪悪なものへとも変わる。

「貴女一人嫌な役目を引き受けて……。私の魔法が貴女と換わればいいのに。そうしたら、貴女から不幸な力を解くことが出来るわ。好きな所へ自由に飛んで行けるのに」

「おばあ様」

 シゾーは優しく呟いた。自分の力に不服はない。けれど仕事を引き受けるごとにマギーの苦しみを増やしていく。そのことに心が痛んだ。


   *   *


「ローラン……」

 シゾーは肩でため息をつく。その表情は困った様子と苦笑いの混在した顔だ。

「いや、大丈夫。出来るよ、俺にも」

 ダフネとプルネラにそそのかされ、ローランは編物に挑戦した。

「ヒマね?」

「いえ、ヒマでは……」

 言ってみたものの、語尾を濁す。暇だとは言いたくはないが、こう平和な街だと警察官としての仕事が無い。

「あら、毎日ここへ来てるんだから、ヒマじゃない」

「ちょっとこれ手伝って」

 そうこうしている内に、気付けば腕には毛糸が巻かれている。

「ローラン、貴方何も出来なそうよね」

「そうね、出来なそう。そんなんじゃシゾーに振り向いてもらえないわ」

「それくらい出来ますよっ!」

 プルネラの挑発に乗り、編み棒と毛糸を持たされていた。肩肘に力が入りガチガチに編み上がり編み物は失敗する。続けて刺繍をやっているのだが、覚束おぼつかない手元に無理が見える。もう二時間はやっているだろうか。そんなローランの姿に気付いたシゾーは呆れて見ている。

「いいじゃない、誰がやったらいけないという訳じゃないし」

 マギーがポット片手にやって来た。

「お巡りさんがこんなことしていられるんですもの、平和ってことね」

「マギー……」

「シゾー、カップを持って来て頂戴」

 マギーの視線を追うと、ウインドウ越しに準備されたカップが見えた。カウンターの上に人数分のカップを乗せたトレーが置いてある。

 カップを取って戻ると、ローランが突然飛び上がる。

「イタッ!」

「どうしたの、ローラン?!」

 シゾーは慌ててトレーをダフネに預ける。預けられたダフネも突然のことに大慌てになった。カップ同士が当たり、ダフネの膝の上でガチャガチャと大騒ぎだ。

「ゆ、指が……」

「指? 針が刺さったのね」

「い、いや、つ、つった!! イテテテテ……ッ!」

「ええっ?!」

 シゾーの心配をよそにローランの返答は斜めに着く。

 ダフネもプルネラもマギーも、そしてシゾーも、一瞬固まり思わず笑ってしまった。

「イヤだ、ローラン」

「慣れないことするからよ、この子ったら」

「ローランってば」

 三人にからかわれるがローランはそれどころではない。シゾーは痛みに苦しむローランの手から刺繍枠と針を取り上げ、シャトレーヌに繋がる小振りな鋏を取り出した。

「ソ・ル・シエル・ニ」

 そして刺繍糸を切り離す。

「おっ? おぉ?! 治った!」

 能天気な驚きでグーパーと繰返し手を動かしてみせる。シゾーの魔法のお蔭だということも知らずに。

「ダフネもプルネラもローランをからかわないで」

「あら、そんなの簡単だって言ったのはローランの方よ」

「そうよ」

「まさか、賭けてないでしょうね?」

 シゾーの疑う目付きは厳しい。横で笑いながらマギーがお茶を淹れている。ますます怪しい。

「シゾー、さすがにそんなことは……」

 そんなことが過去にも数え切れないほどある。二人は常習なのだ。ローランには今まで手を出していなかった。さすがに警察官を賭けに巻き込むほどあくどくはない。ダフネとプルネラの逸らした何食わぬ顔に、ローランも冷や汗もので苦笑いが退いてしまう。

「ローランも、慣れないことはやめて。お茶を飲んだら仕事へ戻ってね」

 シゾーの気遣いに、ローランは気まずそうに頭を掻いて頷いた。


   *   *


 シゾーはデザイン画を持ち、まだ設営途中のサーカスを訪れた。名目は売り込み。

 出迎えた団長やマネージャーの前で、シゾーは妖しげなメガネを掛けて大風呂敷を広げて演じて見せる。

「コスモポリタン・サーカスと聞いて居ても立っても居られず直ぐに伺いました。見事なパフォーマンスや動物使いはこの田舎町でも評判ですわ。そこで是非、わたくしどものデザインしたコスチュームを採用して頂きたくて」

「そう言われましても、ウチにも専属のデザイナーが」

「それは勿論です。ですが、アグライア・リーニュはご存知ですよね? わたくしその縫製を担っておりますマニョリアユロン工房ですの」

「アグライア・リーニュですか、ええ勿論知ってますよ! 流行の最先端ですから。知らない人はいないでしょ」

「是非、アグライア・リーニュを担うマニョリアユロン工房の名前を付けて一着でも」

 アグライア・リーニュと言えば名の知れた高級ブランド。今シーズン気鋭のデザイナーを採用したことでも話題になり、更に知名度が上がった。オートクチュールの下請けを担った縫製工房だと説明すれば、腕は保証付き。信用もあり高級ブランドから選ばれたという宣伝効果もあった。相手にしてみれば舞い込んで来た好機を逃す手はなく、直ぐに仕事は決まった。


 合図に顔を出すエリソン。苦しそうにエプロンのポケットから上半身を出し、短い両前脚がシゾーの歩調に合わせてふらふらと揺れる。

「巧く入り込みましたね。正直驚きものです」

「ええ、さすがに私もこんなにすんなり受け入れてもらえるとは、思わなかったわ」

 妖しいメガネをはずし、天幕を振り返った。まずは、男に会う為の足掛かりが出来た。


   *   *


 何の前触れもなくドアが開くと、突風と共に髪をなびかせた女が現れた。まるで映画のワンシーンがここで繰り広げられたように。

「女優のイヴィー・マルソー!!」

 思わず叫ぶローランに、イヴィーは高級ブランド、アグライア・リーニュの帽子の下から女優の顔でウインクと共に「イ・シェリ・ト」と唱えて微笑む。

 人を魅了する微笑みで数々の映画の主演を務め、『魅惑の心泥棒』と言うキャッチフレーズをつけられた映画女優、それが誰しも知るイヴィー・マルソーだ。

「あら、判っちゃった! お巡りさん良く知ってるじゃな~い」

 ローランは突然現れた魅力的なイヴィーの微笑みに射抜かれ、虜になった。

「ど、どど、どうしてイヴィー・マルソーがここに?!」

「どうしてって、だってココ、私の家だもの~。彼女、私の娘。ヨロシクね」

 衝撃的一言に固まるローラン。その横でシゾーが心底嫌な顔をしていたことには気付かない。

「む、娘?! シゾーが?」

 言われて見れば、マギーとシゾーの丁度中間の顔がイヴィーだ。比べるまでもなく良く似ている。だが子供がいたなど聞いたことがなく、初耳だ。

 突然のイヴィーの帰郷に、マギーもシゾーも驚いた。元々口数少ないシゾーの口数は更に減り、まるで閉ざした貝殻のように完全に黙り込んでしまう。

 店が無駄に騒がしくなり、気付けば常連客の姿は一人も見えなくなっていた。いつだって店先の椅子に座っているダフネとプルネラさえ、いつの間にか姿を消している。母親イヴィーが現れた時の騒動は、常連客にとってもシゾーと同じただの台風。厄介でお騒がせなものでしかない。そして逃げるが勝ち。さわらぬ神にたたりなし。とばかりに、そそくさと逃げた常連客には慣れた騒動だった。

「イヴィー、どうしたの突然帰って来るなんて」

「そんな嫌な顔しないでマギー。久しぶりに娘が帰って来たんじゃない、もっと嬉しそうな顔してよ」

「久しぶりどころか、何年ぶり……」

 やっと口を開いたシゾーは重く皮肉っけたっぷりに呟き顔を逸らす。

 いつも帰って来るのは突然なのだ。母イヴィーと前回会ったのはいつだろう。考えなければ思い出せないほど前のこと。

 前回会った時はそう、誕生日の贈り物にシャトレーヌに着ける鋏を贈ってくれた。それはその前に会った時の失敗を踏まえ、会ってから決めただけの打開策に過ぎなかった。その前に会った時は、既に大人だったシゾーに子供服を持って帰って来たのだ。

「だって、子供が成長するなんて、思わないじゃない!」

 そう言い放った母親の言葉がシゾーは今でも忘れられない。マギーに叱られ、続けた言い訳がひどかった。

「スクリーンの中の子供はいつまでも子供よ!」だった。

 呆れはて、思わず「確かにね」と頷いてしまったことも鮮明に覚えている。

 思い出し笑いが込み上げ、ため息と共に鼻へ抜けた。

「映画のイメージとだいぶ違うな」

「あの人とは関わらない方がいいわ。町の人はみんな知っているの」

 有名女優の真実の姿を信じがたいローランは、カウンターに肘を掛けフンっと小さく息を吐いた。魔法の力も真実を前にローランには一瞬しか効かなかったらしい。

「マギー、プルネラはどこ? せっかく帰って来たんですもの、うんと抱き締めたいわ」

「貴女が嫌で行っちゃったわよ」

「どうして?!」

 やり取りに火の粉が飛んで来そうだと気付いたシゾーはローランをつつく。

「コーヒーでも飲まない?」

 ここは逃げ出さなければ!

 シゾーに誘われ、断る理由が無いローランは喜んでその誘いを受けた。二人は逃げるように店を出る。シゾーの靴音とシャトレーヌの鎖の音が店のドアが閉まると耳に残った。

「あの二人……付き合ってるの?」

「……ちょっと、違うわね」

 二人が出て行ったドアの先を暫く眺めた。


 高いアーチの天井に印象的なシャンデリアが下がる洒落た店内。ショーケースにはケーキやパイが並び、小さな町でもカフェはいつでも客の姿で賑わっていた。

 シゾーは向かいに座るローランを見詰める。ローランは暫く黙ってカップを口に運び、そして言葉を選んで声にした。

「また、やるのか……」

「ええ」

 ローランはカップをテーブルの上のソーサーに戻した。今だけは向かいのシゾーを見たくない。怒りを堪えて眉間を寄せた。苦い顔を背け、黙って窓の外を眺める。

「ローラン……」

 人を傷付けていることを知っている。でも、やめることは出来ない。自分が出来ることだから。

 シゾーはなだめるのと同時になぐさめの手を、カップへ手を掛けたままのローランの腕に添えた。


「いっそのこと、洋品店にしましょうよ! ウインドウには最先端のドレスを飾るの。ちょっととはいえアグライア・リーニュの下請けをやってるんですもの、もっと宣伝しなくっちゃ!」

 朝から騒々しく、予想通り客は一人も来ていない。ダフネが外から覗いて帰って行ったのも確認している。イヴィーの姿を見たのだ。

「その台にはミシンを置いて」

「誰がミシンを使うの?」

「あら、そんなの簡単でしょ! シゾー、やりなさいよ」

 母親イヴィーとの縁をぷっつりこの鋏で切れたらいいのに、とシゾーは表情冷ややかに悪心を抱きポケットの中で鋏を握る。

 代弁するようにカウンターの上から傍観していたエリソンが口を滑らせた。

「帰って早々これですか」

「エリソン! 聞こえてるわよ」

 シゾーが動物と話せる魔法を使えるのはイヴィーから受け継いだ。当然、イヴィーにもエリソンの声が聞こえる。

「クワバラクワバラ……」

 エリソンはまるで魔法のようにまじないを唱え、寝床へ逃げ込んだ。上手く入りきれずお尻が丸見えだったりするが、そこは責めない。

「そうね、今の半分くらいは商品を置いてもいいわ」

「イヴィー……」

「なーにママ?」

 傍若無人な態度の娘に、疲れた様子でため息をつくマギー。祖母のその姿にはシゾーも堪えられなかった。

「お願いだから、私をこれ以上悪い人間にしないで下さい!」

 ホルダーに収めた鋏を振り上げた。シャトレーヌの鎖が擦れ合い抑制をかける。

「シゾー!」

「何よ、良かれと思って言ってるんじゃない!」

「ママが居なくたって、マギーと十分ちゃんとやっているわっ! 邪魔をしないで」

「邪魔……」

 私は邪魔だったの? 悲しげに崩れる表情。イヴィーは肩を落とし黙り込んだ。そんな姿にシゾーは店の外へと飛び出した。

 まるで子供みたい。ママも、私も……。

「イヴィー!」

 窘めるマギーも心は複雑だった。

「ママ! 私だって、あの子と上手く付き合いたいのよ。でも、シゾーは私のこと嫌ってるの! ここで魔法が使えたら、とっくに使ってるわっ」

「イヴィー!!」

 マギーは声を荒げた。

「分かってるわよ。…………あの子、鋏使ってくれてるのね」

「大事にしてるわ」


 小さな町に行く所もなく、逃げる所もなかった。店へ戻ると直ぐ、ローランがやって来た。

「どうしたの?」

 訪ねて来るだけ来て何も言わずに顔を歪めて立つローラン。きのう、カフェから無言で立ち去り、シゾーを置き去りにしたことが後ろめたい。シゾーの方はきのうのことなど気にしていなかった。むしろ、今こうして何食わぬ顔で接する自分は残酷だと、ローランよりも心が痛む。

「……髪を、切ってくれないか」

「髪を? ええ」

 ローランの髪などいままで一度も切ったことがなかった。戸惑いながらも、いつもと変わらず頼まれた切る仕事を請ける。

 店の裏、小さな中庭の石畳にイスを置いた。薄紫の藤の花がしだれ、葉が優しく揺れる。風に乗って白い野バラの香りがほのかに二人の鼻先へ届いた。

 直ぐ横の緑色の格子窓の中はキッチン。向かって建つ建物の二階がシゾーの部屋だった。同じ緑色の格子窓には、ローランが贈ったポンポンマムが飾られているのが見える。

「どれくらい切る? そんなに伸びてないみたいだけれど……」

 髪を切るのはシゾーに会う口実に過ぎなかった。だが窓際に飾られたポンポンマムに気付き、シゾーに対する自分の気持ちに改めて気付いた。

『君を愛す』

 シゾーがやっていることを知っていても、それが自分の気持ちだ。

「半分だけ切ってくれ」

「半分? 構わないけど……」

「残りの半分はまた明日切ってほしい。そうすればまた明日も会えるだろ?」

「ローラン……」

 自分は本当に残酷でずるい。切ることで人を傷付けている。それを知っているのに、それでもローランは想いを寄せてくれる。そんな気持ちに甘えて自分は何も応えない。それどころか……。

 シゾーはこの気持ちを魔法の力で切れたらいいのにとさえ思った。顔を上げられない。

「だから、半分」

 俯くシゾーを優しい表情で覗き込むローラン。まるですべてを見透かした様子でシゾーを見詰めた。それに応えるようにシゾーが見詰め返した時、年甲斐ない黄色い声を上げた要らぬ気配に気付く。振り向けばイヴィーが店の裏のドアから顔を出しニヤニヤとこちらを覗いていた。

「キャ~ッ!! 続けて、続けてよ!」

「イヴィー……」

 心底嫌な顔をした。さすがに今回はローランもそんなシゾーの様子に気付く。

 元凶はこの母親か……?

「私が二人に取って置きの魔法、かけてあげましょうか!」

「ママッ!!」

 シゾーが本気で怒っているのが分かったのか、肩を竦めて慌てて店の中へ戻る。バタンと閉ったドアの向こうで、マギーがイヴィーを叱っている声が聞こえる。それが以外にも本格的に叱られているものだから、二人は思わず吹き出して笑ってしまった。

 シゾーの怒っていた気持ちも消える。

「ローラン……」

「分かってる。君に出来ることは切ることだけ、だね」

 シゾーはコクリと頷いた。


 女優イヴィー・マルソー見たさに客じゃない客が連日集まった。

「見て! 本物よ」

「どうしてこんな所に居るのかしら?」

 騒ぐ客の横でシゾーは「こんな所で悪かったわね」と悪態をついた。横目で母イヴィーを見れば、知らん顔で鼻歌を歌っている。

「あれは良い見本です。騒ぎ立てれば相手の思うツボですよ」

 珍しく昼間起きているエリソンがシゾーをたしなめた。毛糸玉に顎をのせ、小さな目がぼーっと遠くを見ているのは、騒がしくて眠れなかったせいだ。

 騒ぎ立てなくても、客は勝手に騒いだ。

「目が合ったぞ。美人だなぁ」

「イヤ! 彼女は俺を見たんだ」

「オレに笑いかけたよ……」

 その殆どがこの町の人間ではなく、噂を聞き付けた近くの町の人間だった。この町の人間は、特に男性はイヴィーの魅力に懲りているので近寄らない。イヴィーの魅力に惹かれ、家庭崩壊の危機を迎えた家がどれだけあるか……。その殆どすべての男性に興味がなかったというから恐ろしく、人騒がせだ。そんな憎き恋敵となるイヴィーに会いたい女性もこの町には殆ど居なかった。憎めない人柄だということは知っているのだが、進んで関わらない。けれど、イヴィーのお騒がせが小康状態になったことが一度だけある。町が穏やかだった時期。それは一人の男性を選び、シゾーを妊娠していた時期だ。女優イヴィー・マルソーに子供が居ることを知っているのも、この町の人間だけだった。

「シゾー、何だか外が煩いわ。今日はもうお店閉めましょうよ」

「…………。」

 誰のせいだと思っているのよ! 言葉も出なかった。

 二人のやり取りに、無意識に首を振り裏のドアを閉めた。マギーの落ち込んだ様子に、プルネラは慰めに肩へ手を掛ける。

「マギー」

「プルネラ……。どうしてこうなっちゃったのかしら。あの子さえしっかりしていれば、シゾーばかり苦労しなかったのに」

「昔、美も魔法の力の一つだって言ったのは貴女よ。イヴィーも頑張っているわ」

「そうね……」

 二人はゆっくりと歩き、中庭に面したキッチンでお茶を飲むことにした。


   *   *


 マニョリアユラン工房にサーカスから要望があった。曲芸師とコスチュームのデザインについて打ち合わせをして欲しいという。シゾーは早速サーカスへ出向き、そこで例の男と出会えた。

「君が?」

「はい、わたくしがデザイン縫製致しますわ」

 トロンプはシゾーの美貌に一目で引き寄せられた。シゾーは女優イヴィーの娘なのだ、魔法の力が無くても、メイクで少し手を入れれば偽りない保証付きの美しさになる。

 確かにトロンプは魅力的な男だった。だが自分でそのことに気付いている「オレってかっこいいだろっ!」的なナルシストな所があり、会話を進めるほどシゾーは辟易へきえきした。勿論そんなことは表情に微塵も出さず、終始微笑んだ。

 舞台裏の楽屋で打ち合わせを済ませ、トロンプの前で帰り道に困ってみせる。

「イヤだわ、わたくしったら。どっちに出たらいいのかしら……」

「ここ薄暗いから迷うんだ。外まで送りますよ。荷物が重たそうだ。俺が持つよ」

 カモは一発で難なく引っかかってくれた。

「出口が解らなくなっていたの、助かりましたわ。荷物まで持っていただいて」

「これくらい」

 サーカスの設営が進む敷地。外へ出れば田舎の野原を町まで抜ける砂利の一本道だった。

 シゾーの荷物を持ったまま返そうとせず、引き留めた。

「ここで別れるのは惜しいな。そうだ、今晩一緒に食事に行こう!」

「あら、助けて頂いたお礼に、わたくし、おごらなきゃいけないかしら」

 自分の誘いに乗らない女はいないと思っている。こういう所がナルシスト的だと嘲りシゾーの口端が呆れて上がる。冗談で交わし、半ば無理矢理な形で荷物を奪い返すと、トロンプは女性から聞いた例の常套句を口にした。

「顔だけじゃない、何て美しい心の人だ」

 早速、言ったわね……。

「イヤですわ、ご冗談」

「冗談なんかじゃ。オレは冗談なんか言わないんだ。だから是非!」

「ええ、分かったわ」

 食い下がるトロンプに、負けたとばかりにはにかんで見せる。いかにも内心喜んでいるように見せ、食事に行く約束をして、別れた。

 トロンプはシゾーをカモとして捕まえたつもりでいただろう。だがシゾーにしてみれば術中にまんまとはまってくれたのはトロンプの方だった。


 砂利の一本道へ出ると、後方から単気筒のエンジン音と共に砂煙を巻き上げながら一台のバイクが走って来た。シゾーの横まで来るとゆっくりと止まり、着けていたゴーグルを上げた。ローランだ。咥えていた煙草を砂利道へ落とし、ブーツで踏み消した。

「今晩、一緒に食事に行くことになったわ」

「そうか」

 どこかぶっきらぼうにそう言うと、ヘルメットをシゾーに差し出した。ゴーグルを着け直し、後ろに乗ったシゾーの腕が自分の腰へ回ってくるのを確認する。そして再び走り出し砂煙を巻き上げた。


 エプロンのポケットの中から顔を出すエリソン。

「シゾー、あんな強引な男と本当に食事に行くんですか?」

 顔の小さいハリネズミの表情は読み取れないが、確実に嫌そうなのが言い方で分かった。

「行くわよ。まずはお手並み拝見」

 たぶん、二度も同じ常套句で女性に声を掛けている以上、詐欺にあったのはあの女性だけではない。どれほど男として魅力があるのか、知ることにした。だがシゾーは予想通りのナルシストぶりにがっかりする。

 約束通り町の小さなレストランホールで食事を一緒にした。

 終始トロンプは、サーカスの花形空中ブランコの曲芸師である自分の話ばかりをし、女性に気を使う話は一切なかった。今までどれだけモテて来たかまで親切丁寧に話して聞かせ、どこを取っても何を見ても、一つも魅力を感じなかった。騙された女性達はどこに惹かれたのか、シゾーには正直疑問でならなかった。

 食事を済ませ店を出ると外は暗く、街灯や店の窓から漏れる灯りが暖かく石畳の街路を照らしていた。

「何て楽しい時間だったんだろ。また明日も会おう。同じ時間でいいね!」

「ええ、わたくしも会いたいわ。とっても楽しかったんですもの」

 満面の作り笑いで返すと、トロンプはシゾーの手を取る。

「本当に、君は何て美しいんだ。心まで美しい」

 ムードもへったくれも無く、独り善がりにトロンプはシゾーの唇へ自分の唇を重ねようと目を閉じ迫って来る。

 そんな二人を建物の影から見ていた男が居た。咥えていた煙草を石畳に落とし、怒りを込めて踏み消した。制帽を深くかぶり直すと街灯が照らす街路へと踏み出す。

 シゾーが迫るトロンプの尖らせた唇から顔を背けた時、グッドタイミングで現れる。

「こんばんは」

 巡回に歩く制服姿の警察官、ローランだった。

 邪魔をされたトロンプは不愉快そうに振り返るが、シゾーは手を振りほどくと何食わぬ顔でローランに挨拶を返した。

「こんばんは、お巡りさん」

「こんばんは。生憎の夜ですね」

 ローランの言葉に釣られトロンプは空を見上げるが、澄みきった星空だった。

「お巡りさん、何を言ってんですか。星空ですよ?」

 邪魔された苛立ちに低い声で柄が悪く、別人のような態度に変貌した。

「カップルのお二人には、曇り空くらいの方がいいでしょ。星空じゃ丸見えだっ」

 お前になんかに言ってない。

 強く言い捨てるローランの態度もまた悪くなる。生憎の夜とはシゾーと自分にとってだ。心配しているのもただ一人シゾーのことだけ。だが普段のローランを知らないトロンプは変貌にまったく気付かない。ローランはぶちギレる寸前の所を警察官としての倫理観で食い止めている。

「それじゃ私はここで、また明日」

「あ、あぁ。ぃや、え。あぁ、また……」

 しれっと別れの挨拶をするシゾー。トロンプは慌てて引き留めようとするが言葉が続かず、目もくれなかったシゾーを引き留めることは出来なかった。

「お巡りさんも、おやすみなさい」

「おやすみ」

 シゾーはローランに合図のウインクをすると立ち去った。ローランはそれに応え制帽に手を添え挨拶を返すと、安堵し笑顔でその後ろ姿を見送った。


 ポケットの中から優しくエリソンを出し、ベッドへ降ろした。もう片方のポケットに収めたシャトレーヌは、留め具を外すとドレッサーの鏡の前へ置いた。鎖の擦れ合う音がする。

「あんな見え見えの男に女性はコロッと騙されるのですね」

 エリソンは小さな前脚で頬杖をつく。

「そうね……。私には結局、どこに惹かれる要素があったのか解らなかったわ」

「どうにも好きになれませんね」

 前脚の頬杖の方向を変えながら小さな顔の眉間を寄せた。

「私は頼まれただけなんだから、そこに感情って心はいらないわ」

「ローラン様にも、そのようにお伝えした方がよろしいんじゃないですかっ」

 シゾーは答えなかった。ローランは言わなくても分かってくれることを知っているからだ。


 トロンプの前では別人を演じ続けた。文字通り、妖しげなメガネをかけて変身もしている。でなければ、町中では顔馴染みに気付かれてしまうから。そしてもう一人、今は大騒ぎするイヴィーも町に居る。

「祖母の遺産があるから、生活は苦しくないの。だから、アグライア・リーニュの仕事を受けているのは何て言うか……自分の為。本当はお金なんていらないの」

 金に困っていないことを匂わせ、ちらつかせてみせる。

「それは凄い。困らないほど……」

 目算でもしているのか、わざとらしいほどの笑顔で相槌を打つが、目は笑っていなかった。


 道化のピエロがニコニコと笑いローランに風船を差し出した。断ると大袈裟に泣き、しょげてみせる。

「安全上の簡単な調査です。問題が無ければ直ぐに帰ります」

「どうぞどうぞ、見て行って下さい」

 サーカスの団長は誇らしげに、保安調査に訪れたローランを案内した。

「今までに事故は? 移動の列車の脱線……。動物が逃げたり、怪我は?」

「縁起でもない。ウチのコスモポリタン・サーカスは一度もそのような不祥事を起こしたことは」

「それは安心ですね」

 一通り見て回り調査を端的に済ませると、サーカスを後にした。

 煙草を咥え、設営されたサーカスの天幕を仰いだ。中の様子に疑わしいものや怪しいものはなかった。団長もどちらかと言えば好印象だ。

 トロンプの単独犯行なのか――。

 だとしたら、設営準備に二週間、公演に二ヶ月。その二ヶ月半あまりで巧くことを動かす。

 煙りをくゆらせ、脇に抱えていた制帽を深くかぶると乗って来たバイクへ跨った。単気筒のエンジンを操り、来た砂利道を戻ることにした。


「公演前だっていうのに、仲間が怪我をしてね……」

 女性から聞いていた話と同じことを語り出した時は正直驚いた。騙すにしても、もう少しバリエーションが欲しい所だ。

 バカなのね?

 シゾーにバカ認定され、さらにはナルシストな詐欺師ときては救いようがなく、良い所がまるでない。

「あらぁ、大変だわ」

「そうなんだ。田舎には兄弟達が居て、借金の返済の期日が迫っているらしんだ……」

 トロンプは神妙な表情で語尾を濁す。だがよく聞いていれば変なことを言っていたのに気付く。田舎に兄弟達が居て借金の返済の期日が迫っている。

 だからどうしたの? 田舎に兄弟達が居る人も、借金がある人も、世の中には大勢いる。どこに同情すればいいのか、騙された女性の気持ちに添えずシゾーは困った。きっと純粋だったに違いないと、無理矢理納得する。

「お金が必要なのね。祖母の遺産が役に立つなら、いくらでも出すわ」

「助かるよ!」

 言ってシゾーの腿に手を置いた。そしてトロンプは刹那固まる。

「イデェーッ!! 何だよ、はぁ~?!」

 汚い言葉で叫んだトロンプ。痛みの走った手を握りしめ困惑の表情を見せる。

 思わず笑みに口角が上がってしまうのをシゾーは堪えた。

 腿にあるエプロンのポケットには、片方にシャトレーヌに繋がる鋏類。もう片方にはハリネズミのエリソンが入っている。いやらしく腿を撫でようとしたトロンプの手に、逆立てたエリソンの背中のトゲが刺さったのだ。直じゃない分軽症だ。

「ハリネズミよ。夜行性なの。まだ眠っているわ」

 ポケットからそっと取り出し、逆立てないように撫でる。

「ハ、ハリネズミ…………。そ、そうか、かわいいなハハッ、ハハハハッ」

 無理して笑っているのが、シゾーにもエリソンにもバレバレだった。


 じっと覗き込み、トゲトゲのエリソンの背中をサーシャは慎重にゆっくりと撫でる。

「エリソーン……?」

「サーシャ、エリソン今は眠っているからいいけど、勝手に触っちゃ駄目よ」 

 エリソンは店の中にしつらええられた定位置の寝床で丸まって寝ていた。

「いちゅおきる?」

「夜よ。たまに日中も起きてるけど」

 そこへせわしなく店のドアが開き女性が飛び込んで来た。

「サーシャ!」

 髪を乱し息を上げて慌てている。そんな女性をシゾーは慣れた様子で、苦笑いで出迎えた。

「いらっしゃい、デュバラさん」

「すいません、またご迷惑おかけして」

 サーシャの母親だ。三日に一辺はこうして同じことを繰返している。

「あらサーシャ、また黙って来てたのね」

 マギーも苦笑いだが笑いきれない。母親の心配を思えば悠長にはしていられない。

 サーシャの家は店の裏の中庭の先、真裏の通り沿いとごく近くにあるが、ぐるりと迂回する分子供一人で来るには心配になる。

「黙って出て行っちゃ駄目って言ってるでしょ!」

「サーシャおみせいってくるねっていったもん。ママがきいてないんでしょ!」

 頬っぺたを真っ赤にし、膨れっ面になった。

 サーシャの言い分は確かだった。もうすぐ四歳になるサーシャには産まれたばかりの妹ココがいる。母親はココに付きっきりなのだ。サーシャを構う時間が圧倒的になかった。息子の言葉に母親は反駁も出来ない。

「デュバラさん、ココちゃん連れてらっしゃいよ。ダフネもプルネラも、私も居るわ。少しくらいならみててあげるから」

「ありがとうございます」

 早速ココを預かることにした。だが言ってはみたものの、ダフネとマギーの経験は今は昔と役には立たず、マギーの子育てを手伝った経験しか無いプルネラも見ていることしか出来なかった。慣れない三人の婆やにココは泣き続ける。

「困ったおばあちゃん達だこと」

 そこへ現れたイヴィーがココを抱き上げる。すると部屋中に響いていた泣き声がピタリと止んだ。それどころかニコニコと機嫌良く微笑み、嘘のようにおとなしくなる。

「ココ、泣いたら美人が台無しなのよぉ」

 驚いたことにイヴィーの人を惹きつける魔法の力は赤ちゃんにまで利いたのだ。


 中庭で咲く白い野バラが最盛期を迎え、甘い香りに包まれた。蒔いた水が石畳の上で眩しく日差しをはね返し、葉が短い影を落とした。

「私もママと同じ、空を飛ぶとか、平凡な魔法が使えたら良かったのに……」

「イヴィー? ……何かあったの」

 水やりの手を止め、マギーはじょうろを置いた。

「ちょっと疲れただけよ」

 美。人を惹き付ける魔法の力をイヴィーはマギーから受け継いだ。そしてもう一つは動物と話せるという力。シゾーはイヴィーから動物と話せる魔法の力を受け継ぎ、もう一つは望むものを何でも切れるという力を持った。

 代々続く魔女の家系に生まれ、使う魔法の中でも特質して使える魔法は二つ。二つの魔法の力の内、どちらかが娘へと受け継がれる。


 シゾーは縫製の仕事をしながら店番をしていた。イヴィーが帰って以来、ローラン以外の常連客の足はぱったり遠退いてしまい、暇でしょうがない。エリソンのいびきまで聞こえる。

 視線に気付き顔を上げると、イヴィーが見詰めていた。来た時同様、アグライア・リーニュの服で身を包み女優の顔になっていた。

「ママ?」

「シゾー、一つ呪文を教えてあげるわ。ローランと仲良うまくいくように」

「ママ。ローランとは違うって」

「聞いて。シゾーの力になりたいの。でもママ役立たずだから」

「そんなことは……」

「いいのよ、分かってるから。だからママが出来ることを教えてあげるの!」

 イヴィーは取って置きの人を惹き付ける呪文を教えた。呪文は取って置きだから、『どうしても』『今しかない』という時にだけ唱えて使うようにと言う。自分の努力なくして魔法の力は成立しない――。

 そしてまた、来た時のようにイヴィーは何の前触れもなく突然家を出て行った。

「マギー、イヴィーはどうして帰って来たのかしら?」

「さぁ、何で帰って来たのかしらね」

 マギーは知っていた。娘に会いたくなって帰って来ることを。けれど、それは本人が伝えることであって、シゾーにはイヴィーの気持ちは伝えず黙っておいた。


 嵐のような数日間が過ぎ、いつも通りの静かな日常へ戻った。その一方で、

「それで……金は?」

「持って来たわ」

 シゾーの言葉にトロンプは堪え切れずニヤリと笑う。もう金のことしか頭にない。

「でも、貴方にあげるお金はない」

「……な、何?」

「言ってるでしょ、貴方にあげるお金はないの」

「おい、ふざけないでくれよ。君は美しい心の人じゃないか」

 聞き間違えたとばかりに笑って繕おうとするが、シゾーはじっとトロンプを見詰めたまま何も言わない。

「何が望みだ? ん、結婚か?」

「……。」

「それならそうと、早く言ってくれよ。勿論考えてたさ!」

「浅はかね。願い下げよ」

 即答するシゾーに、トロンプの顔色も一瞬で変わった。

「もう一度言うは、貴方にあげるお金はないの」

「ふっ、ふざ。ふざけんなーっ!! 金があるんだろ、出せ!」

 欲望あらわに本性を現した。金を奪おうとシゾーに襲いかかる。だがトロンプの指一本シゾーには届かなかった。

「ふざけてないわ。でも、私を捕まえられたら、あげてもいいわよ」

 サーカスの天幕の下、舞台広場を囲うように設営された客席。シゾーは不敵の笑みを浮かべると、客席を一段走り出した。ブーツのヒールの音が響き、シャトレーヌの鎖がガシャガシャと擦れ合い音を立てる。曲芸師であるトロンプは軽い身のこなしでシゾーの後を追いかけて来た。

 追い掛け回され、練習や準備に慌ただしい舞台裏へと紛れ込む。

 玉乗りやジャグリングの曲芸を練習する横をすり抜け、柔軟体操を行う軟体芸の女性越しに振り返る。ボーリングのピンに似たクラブやリングといったジャグリングの道具が舞うその先にトロンプが居た。目が合いシゾーはウインクで余裕を見せつけた。

 房の付いたビロードの垂れ幕を越えると、キリンの足に出くわす。さすがに驚いたが、前足と後ろ足の間を素早くすり抜けた。

「キリンさん後でウチに来て! サーシャが会いたがっているの!」

 キリンがシゾーの頼みに応えるように頭を低くした。笑ったようにも見える。

 更に奥に逃げ込むと木の扉があった。掛け下ろされた鍵を上げて中に入ると、鎖に繋がれたライオンがいた。扉がライオンの檻直結の専用扉だったことにシゾーはまったく気付かなかった。

 追い掛けていたトロンプはシゾーが扉の中へ入るのを見て、いやらしく口角を上げる。

「おいおい、さすがのオレも、助けらんないぜ」

 もう逃げ道がないことを知っていたトロンプは余裕をみせ、ゆっくりと扉へ向け歩き出した。

 トロンプが知る限り、扉を開けると繋がれたライオンがいるはずだった。大人しく調教され、むやみに近寄らなければ危険はない。だがトロンプはまったく予想外の状況に襲われ腰を抜かした。

 トロンプが扉を開けると、ライオンは低い声で威嚇の鳴き声を上げ歯をむき出して来る。それと共にずしりと重い前足に爪を立てパンチを繰り出したのだ。当たれば打撃は強く、爪に引き裂かれ一溜まりもない状態だった。

 シゾーはライオンに守られ、悠然と、けれどトロンプが腰を抜かしている隙に素早く扉を出た。スカートをつまみ、軽く腰を落として挨拶をする。

「ライオンさん、ありがとう」

 ライオンは勇猛に一吠えして答えた。

 シゾーは来た場所を戻り、再び舞台広場に逃げ込んだ。舞台広場には天幕を支え、空中ブランコの支点になる印象的な二本の高い柱がある。

「またここへ来るとはな、もう逃げ場はないぞ」

 声に振り返れば、腰を抜かしていたはずのトロンプがもう追って来ていた。

 ま、あれくらいならね……。

 ジリジリと追い詰められ、後退るシゾー。敷き詰められた砂地にブーツを履いた足が取られる。トロンプの頭には金のことなど消え、今はただシゾーを追い詰めることしかない。

 間を詰め寄られ、柱に設置された梯子状の踏み台に背をぶつける。もう登るしかシゾーに逃げ道はなかった。シゾーが踏み台を登ると、トロンプは待っていたとばかりに駆け寄りその踏み台を取り外し力一杯遠くへ放り投げた。そしてもう一方の柱へと走る。見ていると、軽々梯子を登って行く。先回りする気のようだ。シゾーは踏み台を外され、その高さに飛び降りることも出来なくなっていた。残された道は柱の上。狭いが舞台として飾り付けられた空中ブランコの為の踊り場へ登るのみ。


 踊り場に立つと、もう一方の踊り場にトロンプも立っていた。向こうにはこちらへ来る為の術がいくらでもある。だがシゾーには為す術がなく、追い詰められここまで来てしまった。十メートル以上もある目の眩む高さに、安全冊を掴む手先には無意識の内に力が入っていた。

 さすがに高いわね……。

 下手に動けば落ちてしまいそうで、じっと向かいのトロンプの動向を睨む。そして留め置かれていた受け手キャッチャー用の特殊な型のブランコに目が留まった。

 トロンプは慣れた手順で素早く自分だけ腰の両脇に命綱を繋ぐ。留め置かれていた空中ブランコの棒を手にし、踊り場から足を踏み出した。

「自分から逃げ場を失うような場所を選ぶとは、バカな女だぜ」

 シゾーはブランコに乗り、空中に居た。キャッチャー用の特殊な型のブランコは、棒で組まれた座面の無い椅子のような形だった。

 トロンプの言葉にシゾーの口角は小さく上がる。墓穴を掘ったわけではない。勿論筋書きがあったわけでもないが、逃げ回ったのも、柱に登ったのも、トロンプの方から追いかけて来るようにシゾーが仕向けた。少し冷静になれば分かるはずだった。

 先回りして柱へ繋がる梁を伝い、綱を渡ったエリソンから声が伝わってくる。

『シゾー、この綱、ワイヤーが入っています』

トロンプが操るであろう綱を、来る前に食い千切れるものならと、エリソンは健気にも前歯を使いかじっていた。だが前歯に硬い物が当たった。

『分かったわ。大丈夫、心配無い』

『お気を付けて』

 シゾーは先を見越し、エプロンのポケットにいたエリソンに偵察を頼んでいた。最初に客席を飛び越えたのは、エリソンが飛び出せるようにと助走を付けたに過ぎなかった。実際、エリソンからすると飛び上がった拍子に無理矢理放り出されたようなものだったが。

 そうこうしている内、トランプが迫って来ていた。

「来たら切ります」

「何を切るっていうんだ? 何をだ、どうやって切る?」

 トロンプは体を大きく揺らしブランコの振り子を大きくすると、タイミングを図りシゾーの乗る空中ブランコへと跳び移った。

「約束通り、金をもらおうか。そうすれば、オマエもここから安全に降ろしてやるぜ」

 棒を掴んでいた手の横に足を掛けカエルのような姿になると、アクロバティクに瞬時に立ち上がる。シゾーの足元の棒にぶら下がって見えていたトロンプが目の前に現れた。

「勘違いしているようね。来たら切ると言ったでしょ」

「何ほざいてんだよっ」

「貴方の為に最後の舞台を用意してあげたの。分からない? 警告はしたわ」

 シャトレーヌに繋がれた小振りな鋏をポケットから取り出し、トロンプへ詰め寄り突き付ける。突然のことに驚き、反射的に足を退くと、同時にブランコの端の棒の細さに片足の爪先を滑らせた。

 牽制であり、小振りな鋏はホルダーに収まったままだった。

「お、おい、穏やかに話し合おうぜ。美しい心の人じゃないか!」

 突き付けられた物騒な物に身の危険を感じ取ったのか、トロンプは繕おうとする。

「ある女性に頼まれたの」

「何のことだよ?! お前いったい誰なんだっ?!」

「もう、分かっているでしょ。だから切る」

「お、お前に人が切れるのかっ!?」

 片手でブランコの綱を、もう片手は命綱を掴んでいた。そして片足が細い棒に乗っている。アンバランスにブランコは大きく揺れ傾く。揺れに一瞬怯んだシゾーを見て、追い込まれた状態にも関わらずなお見苦しく虚勢を張る。

「フンッ、何が切るだ!」

 どこかにまだ、支柱の上は自分のテリトリーだという甘い認識がトロンプにはあった。視界に自分が乗って来たブランコが入り、振り子がいきていることが判る。逃げる算段を付けた。

「私に人は切れません。それに……大事なこの鋏をそんなことで汚したくはないわ」

「汚したくないだぁ? 何を切るって言うんだそんなハサミで。命綱か! ワイヤー入りのこの綱が切れるとでも?」

「それはどうかしら」

 視界を邪魔する命綱の一本を、シゾーは取り出していた小振りな鋏で無表情にバッサリと切り落とした。呪文を唱えた口元が小さく動く。

 更にバランスを崩し、まさか本当に切れるとは思っていなかったトロンプは慌て、何も考えずにブランコの綱から手を離した。曲芸時と同じようにアクロバティックに振り返り、さっきまで乗っていたブランコの棒を掴もうとする。だが乗り手のいなかったブランコとは振り子のタイミングが合うはずもなく、掴めなかった。一方だけが切れた命綱にバランスを崩し、悲鳴を上げて宙吊りになった。落ちた時に受け止めてくれるネットも無く、地上は目が眩むほど遥か下だ。

「ご希望に添えず残念ね。私は望めば何でも切れるの」

 一歩前へ出ると端の棒の上に立ち、ブランコの振り子を大きくする。宙吊りのトロンプの命綱へ届く距離に迫る。シャトレーヌへ繋がる鎖を手繰り寄せ、ホルダーから大振りの鋏を取り出すのがトロンプの目にも見えた。

「ヤ、ヤメ、ヤメローーーーッ!!」

 魔法の言葉と共にシゾーの力が宿る鋏が一閃する。

「さよなら。サ・アデュー・ラ」

 ワイヤーは垂直に切れ、救いを求めるトロンプの手や表情がスローモーションがかり、地上に吸い込まれるように非情に落ちて行く。その先は見なかった。重く堅い音が天幕の下にこだました。


   *   *


 ダフネとプルネラは珍しく、ソワソワと新聞を読んでいる。そんな二人の後ろからシゾーも覗き込んだ。

 普段は老眼で読む気もしない新聞だが、この町で起きた数少ない大事件を取り上げていたから、釘付けだ。

「不慮の事故ですって」

「『安全危惧の管理は使う者に任されていた』ですって。自己管理ミスってあるわ」 

 サーカスの花形、空中ブランコの曲芸師の落下事故。同情の余地のない、日頃の整備を怠った故に起きた落下事故として世の中には知れ渡った。

 トロンプのことはそれで済まされていた。

「ローラン、行って来たんでしょ? 大変だったわね」

 マギーはねぎらいの温かなコーヒーを出す。

「はい。仕事ですから。綱が切れた事故だと断定しました」

 調査や事故特定をしたのは、町で一人の警察官であるローランが行なった。


 老齢の男が天幕を見上げた。

「命綱が切れたのか」

 やはり町でただ一人の医者だ。ローランと共にサーカスを訪れ、検視を行なっている。

 空中ブランコの行なわれる空間は目が眩む高さだった。

「切れてますね……」

 舞台広場に横たわる男。腰に繋がる命綱の切れた端を手に見詰めた。命綱は断面が分かるほどスッパリと、綺麗に刃物によって切られている。

 医者は命綱を見ようとしなかった。例えそれが事故原因だとしても、死因ではない。自分の仕事以外に興味はなかった。

「大方、点検もろくにしなかったんだろ。劣化による損傷の不慮の事故か」

「ええ、間違いなく」

 原因に興味は無く、落ちた事実だけを見る医者。ローランには好都合だった。人の手によって切られたことは明らかで一目瞭然だった。そしてこの命綱を切ったのがシゾーだということも勿論知っていたからだ。


「サーカスもこれで中止ね」

 マギーの一言に、楽しみにしていたサーシャの顔がシゾーには浮かぶ。きっと、キリンが見れずにがっかりして拗ねているに違いない。そんなことを思った時、店のドアが開き客がやって来た。入って来たのが見慣れない女性客ということもあり、みんなの目が集中する。女性客は気にすることなく、店内でシゾーを見付けると真っ直ぐにやって来た。

「いらっしゃいませ」

 シゾーはいつもと変わらず女性客を出迎えた。

 カウンターの中へ入り、準備しておいた紙袋を差し出した。中身は――、

「頼まれた“もの”です」

「あの……」

 驚きと躊躇いに刹那言い淀む。

「ありがとうございました」

「私は、私が出来ることをしただけです」

「はい……」

 ぎこちなく、小さく微笑んだ。帰ろうとする女性をシゾーは引き留め、その手に紙袋を持たせた。紙袋はずしりと重く、中には騙し取られた物が入っていた。

「お気を付けて」

 ドアまで付き添うと、女性を見送った。その後ろ姿は心なし足取りが軽くなっていた。

 入れ違いにサーシャが走ってやって来る。その後を赤ちゃんのココを抱いた母親が追って来た。今日は一人ではなかった。

 出迎えたシゾーはサーシャの目線に合わせ腰を下ろした。

「サーシャ、これをあげる。お仕事でサーカスへ行ったの。キリンの首の毛を切ってきたのよ」

 団員の動物使いに頼んで、シゾーはキリンのたてがみを切らせてもらっていた。ゴワゴワの毛を小さなタッセル状に束ねた。色といい質感といい、まるで箒のような毛束。

「しっぽ?」

「たてがみ。首の所の毛よ。これを握ってキリンに登って見たかったんでしょ? だから……出発!」

「え?! しゅ、出発?」

 横で聞いていたローランが驚いて濁った声を出した。

 シゾーはサーシャの手を取ると店を出た。二人を追いかけ、店に居たみんなが付いて来る。ローランはサーシャを抱き上げると肩車をして、シゾーと共に小走りになる。町外れのとある屋敷までやって来た。そこは数日前、垣根の剪定を頼まれた所だ。

「あっ! キリンさんだぁ」

 目線の高いサーシャがいち早く気付いた。キリンだけではない。ゾウやライオン、クマもいた。サーカスに登場する動物達が、シゾーの頼みに集まっていた。興行が出来なくなったサーカスはこのままサーカス列車で別の街へ移動する。

「サーシャの為に立ち寄ってもらったの」

「キリンさんによいしょってしていいのぉ?」

「いいえ、見るだけよ」

「うん」

 サーシャだけではなく、一緒に連なってやって来た店に居たみんなも動物の登場に喜んだ。

 その後この屋敷の庭は『キリン広場』と呼ばれるようになった。


   *   *


 マニョリアユラン雑貨店のいつもと変わらない朝、シゾーはシャトレーヌの鎖を手繰り寄せると鋏を取り出した。作業台を兼ねた四角い木のテーブルに布を広げ、迷いなく滑るように布を切り離す。店の外に置かれた椅子には常連客のダフネとプルネラが居る。マギーも混ざり、三人で話している姿も見慣れたいつもの風景だ。

 店の中へ戻って来たマギーは一通の手紙を手にしていた。

「シゾー、あなた宛に郵便よ」

「誰かしら……」

 手紙を受け取り、シャトレーヌから小振りな鋏を手繰り寄せた。レターオープナー代わりに刃先を開き手紙の封を切る。差出人に心当たりはない。

「わたしが持ちましょう」

 横に居たエリソンが封筒を持った。立ち上がるとまるで大きなキャンバスを抱えているようなサイズ感だ。中には薄紙の便箋が数枚入っていた。繊細で流れる筆運びの字がびっしりと書かれている。

『望むものを切って下さると聞き、失礼ながら手紙を書きました。どうかお願いです、私の望むものを切って下さい』

「何が書かれているのですか?」

「うん……切って欲しいと」

 シゾーは手紙の先を読み進め、また、切れる“もの”を切るために魔法の力を使うことになる。だがそれはまた、別のお話。


                                


                     おわり

                    (2017年2月 完 2022年4月 加筆修正)

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