第69話 許嫁と触り合いっこをするまで
「莉音くんって、男の人の割に髪の毛柔らかいですよね」
リビングにドライヤーを持ってきた結愛は、コンセントにプラグをさして電源をつけた。
ここの家にあるのは高価なものなので、静音だった。
結愛はソファに座っている俺の髪に指を通し、ドライヤーで風を送る。
「俺は別に普通だと思うけど」
「そうですか?ふわふわしてて触り心地がありますよ」
「まあそう感じてくれるのならいいんだけど」
毎日ロングヘアーを維持している結愛の手つきは手慣れていて、美容室にいるかのようにドライヤーが心地よい。
他の人よりも少し長く伸びた前髪が、この時はやけに軽く感じた。
「莉音くんも、もう少し髪を短くすれば雰囲気が明るくなりそうですけどね」
俺の後ろに立ってドライヤーをしてくれる結愛は、髪の全体を乾かしながら言う。
「…………結愛は、俺に明るくなって欲しいのか?」
「明るくなって欲しいというか、明るくなったら今よりも人も寄ってくるのかなって。そしたら莉音くんの良い所を知ってくれる人が増えそうなので」
てっきり結愛の好みの話かと思ったが、そういうのは関係なく、ただ俺の交流関係を増やそうとしてくれたみたいだった。
「勿体ないんですよ。莉音くんみたいな人格者、滅多にいないと思うので」
「俺が人格者なら、結愛は聖人か何かか?」
「違いますから」
後ろにいる結愛がどんな顔をしてその言葉を発しているのかは分からない。
ただ聞こえてくるのはドライヤーの音と、結愛の落ち着いた声だけだった。
「莉音くんは、髪の毛を触ってても優しい人だっていうのが伝わってきます」
「そんなわけないだろ」
「本当ですよ?」
結愛はドライヤーの風量を弱め、乾き始めた俺の髪をさっきよりも強く触れた。小さな手で髪に指を通し、数秒だけギュッと手の平に納めた。
「結愛の事だから嘘ではないと思うけど、全く信じられん」
「否定するのか褒めるのかどっちかにしてくださいよ」
いくら結愛の言う事だとはいえ、髪に触れただけでその人が優しいとか伝わるとは思えない。
人の髪なんて触れる機会がほとんどないからハッキリとはいえないが、それだけで伝わるはずがない。
そんな事を考えて、今の話を信じていない俺を見透かすように、結愛は俺の耳元に顔を近づける。
もう乾かし終えたのか、ドライヤーの電源は切っていた。
「…………そんな事を言うなら、莉音くんも私の髪触って、確かめてみますか?」
小さく囁いた声が耳を通り、いきなりの提案に唾を飲む。
結愛の、しかも異性の髪に触れるなんて、果たして許されるのだろうか。
正直に言えば、触れてみたいという気持ちはあった。結愛の綺麗な髪を本人からの許しを得た状態で触れられる機会なんて、今後二度と来ないかもしれない。
「…………触ってもいいのか?」
「はい。いいですよ。まあ私からは何も感じないと思いますけど」
もう一度聞いてみるも、結愛が否定する事はない。自分の髪に指を通して俺を見つめる結愛は、少しペースを上げて、数回瞬きをした。
「女性の命とも呼ばれるものを、俺なんかに触らせてもいいのか?」
「…………嫌だったら、そもそも提案しないので」
「そうか」
「…………はい」
俺の体温は再び上昇しているのを感じ、顔に熱が昇りつつあるのも自覚があった。結愛も同じようにポッと色付いており、その表情には艶やかな魅力があった。
「や、やっぱり男の子は髪の毛が乾くの早いですね。莉音くんの場合はお風呂上がってから時間が経ってたので、元々乾きつつあったのかもしれませんけど」
結愛は話を変えるようにして電源を消したドライヤーを片付けて、それを手に持って動き出そうとする。
「私、一旦ドライヤーを洗面所に戻しに行くのでちょっと待っててくださいね」
「俺が持っていこうか?」
「いえ、私が立ってるので私が行きます」
流石にドライヤーをかけてもらい、しかも後片付けまで全て任せてしまったのには責任感を覚えたが、俺が振り向いた時には結愛は足を動かしていた。
ドライヤーを洗面所に戻しに行った結愛は、その後すぐにリビングに帰ってきた。そして今度は俺の後ろではなく、いつもと同じように隣に来た。
今日はネグリジェなんかの清楚感溢れる寝巻きではなく、もこもこと暖かそうなスウェットのようなルームウェアを着ていた。
「では、どうぞ……」
隣に座った結愛と向かい合い、瞳を合わせる。結愛は瞼を下ろして瞳を閉じ、顔をぐっと近づけた。結愛の顔は、もう腕を伸ばさなくても届く距離にあり、長いまつ毛がピクリと動いていた。
【あとがき】
・次話がどんなお話かは、もう僕から言う必要はなさそうですね。
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