第61話 許嫁の帰るべき場所

「結愛、落ち着いたか?」



 その後、俺と結愛はどこに寄り道をすることもなく、真っ直ぐ帰宅した。

 ただの一度の会話もなく、静かな空間だけが流れた。



 帰り着いてからも暗い表情をしたままの結愛は、顔を下に向けたまま、黙ってソファに座った。




「別にどうもしてないですよ。私を置いて出て行った人なので、元々そういう人なんでしょうし……。期待なんて何もしてないですから」



 結愛の目に光はなく、むしろ開き直ったような口調で話をする。

 いつにもなく長舌な結愛の隣に座るが、ハイライトのない瞳は、全てに絶望しているかのような暗さだった。




「………まだ結愛の母さんだって確証はないわけだし、本当に知らないだけかもしれないぞ?」



 今の俺にはそう言うしか選択肢がなく、励ますように言った。

 それが結愛には何も響かないというのは、もはや言うまでもない。

 



「確かに確証はないですが、確信はあります。ずっと探していた背中ですよ?見間違えるはずがありません」



 まさに結愛の言う通りで、小さい頃からずっと信じて待ち続けた母の事を、結愛が見間違えるわけがない。



 父からの愛情はなく、結愛は母に最後の希望をかけていたのだ。

 それがこの結果だなんて、見ていた俺ですら叫びたくなるくらいには心が痛んだ。




「そう、だよな」

「何で莉音くんが悲しそうな顔をしてるんですか」

「あまりにも結愛が報われないから……」

「…………母や父のことは前に莉音くんお話した時に吹っ切れました。なので今更どうとも感じていないですよ」



 結愛は顔に笑みを作り、こちらに心配させないように無理をして平気そうな顔をする。

 表情はきちんと作りきれておらず、口元は少しだけ引き攣っていた。




「今日はもう部屋に戻りますね。私のせいで、空気を悪くしているので」



 行き場のない微笑みを浮かべた結愛は、ソファから立ち上がって自室に戻ろうとする。

 このままどこかに消えてしまいそうなほどの寂しさを身に纏っており、それがヒシヒシと伝わってきた。




(…………せめて俺だけでも)



 俺に出来る事なんて限られていて、やはり俺が結愛のことを愛するなんて、そんな無責任な発言は出来ない。



 それでも、結愛には幸せになって欲しいという気持ちはあるため、せめて自分だけは結愛の心の寄り所になりたかった。



 家族という、普通の人からすれば当たり前に持っている関係を失う悲しみは、人一倍知っているから。




「…………結愛、別に無理して表情を作らなくていい。泣きたい時には泣いていいし、笑いたい時には笑えばいい。友達になら、そんなの隠さなくていい」



 結愛のような優しい人は、人前では泣かない。

自分が泣くことで、相手に余計な心配させてしまうと知っているから。



 だから1人で抱え込んで、1人で泣く。

 それが当たり前のように。




「莉音くん、私、本当は……」



 でも本当に優しい人は、ちゃんと人前で泣ける人だと思う。

 だって、1人で抱え込んで1人で泣いている人は、自分には全然優しくない。



 自分を騙す事で、相手のことを優先するから。



 人の事ばかり考えて自分の気持ちを押さえ込むのが、必ずしも優しさとは言わない。

 人に優しくて、そして自分にも優しい人が、本当に優しい人だと思う。



 なので、結愛のように全てを1人で抱えて無理に表情を作るのは、決して優しさではない。

 それは相手に迷惑をかけずに済んだという、自己満に過ぎない。



 あくまで俺は、結愛に対してはそう感じる。



 相手に余計な心配をかけてしまうかもしれないという配慮を持っていながらも、それでも自分の気持ちを表に出せる勇気を持つ人の方が、ずっと優しい人だ。



 震えながら口を開く結愛の瞳には、水滴が溢れていた。




「私、本当はずっと期待していました。自分には期待していないと言い聞かせていたけど、心の奥底ではいつか迎えに来てくれるんじゃないかと、淡い希望を抱いてました」

「そうか」



 表情を崩しながらも、自分のずっと秘めていた感情を表に出した結愛は、止める事なく溢れる雫の量を増やした。



 結愛だって親から愛を貰いたいはずで、その想いを俺と少し話しただけで振り切れるわけがない。

 ただでさえ人よりも純粋で純情な結愛だ。

 本当はずっと母の帰りを待っていたはずだ。




「…………莉音くん、ちょっとだけ待ってください。一度気を緩めたから、涙が止まりません」



 慌ただしい様子で涙を拭う結愛は、子供のように小さくポツンと立っていた。




「そんなに急いで涙を拭おうとしないていいから。誰も急かしたりしない」

 


 俺もソファから立ち上がり、結愛のすぐ側に向かう。手の届く距離に来たら、そっと結愛の頭に手を置いた。



 小さい子を宥めるように、ポンと優しく頭を撫でる。

 柔らかくて細い髪が手の平を通して感触を伝え、同時に手の内に収まる頭に、より結愛の小柄さを感じた。



 結愛の表情は、ちょっとだけ緩んだ。




「…………莉音くん、少しだけ胸をお借りしても良いですか?」

「好きなだけ使ってくれ」



 俺と結愛の距離は、過去最高レベルで近くなる。結愛の小さな頭は、ちょうど胸元の辺りに当たった。



 結愛が顔を胸に埋めたら、余った両手は俺の後ろに回ってきた。

 今は結愛がハグをするような形で接近し、体の柔らかいあちこちの部分が、俺の体に押し付けられた。



 数秒後には小さな嗚咽や唸り声が聞こえ始め、俺はそれを見ないように目線を逸らした。

 目は逸らしたものの結愛の頭は撫で続け、しばらくはそのままの状態で、リビングで時間が流れるのを待った。




「…………迎えなんて来ないと分かっているのに期待し続ける私は、きっと馬鹿なんです」



 どれくらい時間が経っただろうか。気が付けば結愛の声は小さくなり、上を向いて俺と瞳を合わせていた。



 目には泣いた跡が残っており、瞳にはまだ薄らと雫が残っていた。




「馬鹿なわけないだろ?結愛に悪い所なんて一つもない」

「そう言ってくださると、少しは心が安らぎますね」



 結愛は小さく微笑みを浮かべるが、今は無理しているようには見えなかった。自分の中の想いを口にしたから、多少は楽になったのかもしれない。




「でも、もう誰も私を見てくれないし、誰からの迎えもない。結局私は1人なんです……」



 楽になったとはいえ、もう結愛の中に希望がないことに変わりはない。信じていた母も、希望の光は褪せてしまった。

 もう振り向いて貰う人も、振り向かせたい人も、結愛には誰もいないのだ。




「…………俺が見てるから」



 孤独感を出し、悲しいオーラを出したままの結愛に、俺はそんな言葉を掛けた。



 別に変な意味はない。もう誰も見てくれる人がいないのなら、俺が側で見ていれば良い。それだけの話だ。




「結愛が他の人にちゃんと自分を見て欲しいなら、俺が見てる」

「…………本当ですか?」

「本当だよ」



 結愛は母の事があったからか、俺のことも簡単には信じられないようだった。

 信じたいけど、また裏切られるかもしれないと、そう思っているのだろう。



 結愛の瞳の中には、若干の光が戻っていた。




「それは許嫁だから仕方なく、、ですか?」

「許嫁だからと言うのもあるが、何よりも友達だからだな。だけど仕方なくとか、そんな義務的な気持ちは一切ない」



 ここまで来ると、もうただの友達という言葉では表せないような気がする。

 友達としての一線を超え、その先のような関係に近いような気が。



 だが、俺と結愛は友達である以前に許嫁だ。友達以下でも友達以上でも、どちらでもない。今は。




「…………素の私は、わがままで不器用で、性格も凄く悪いですよ?」

「それでも目を離さずに見てるよ。だって許嫁ってのは、家族みたいなもんだろ?」



 至近距離にいる結愛の表情を視界に入れて、俺は口元をやんわりと緩めた。




「…………そうでしたね。莉音くんは、前にもそんな事を言ってくれましたね」

「そうだな」



 いつだったか。結愛に今と同じようなセリフを言った記憶がある。その時の結愛の表情と今の表情が重なり、浮かんだ笑みの深さが比較出来るくらいに分かる。



 もちろん今の結愛の方が、心からの笑みを顔に露わにしていた。




「なら、莉音くんは私のことを目を離さずにずっと見ていてくださいね?」



 結愛は無垢な上目遣いをして、その潤んだ瞳がいつも以上に魅力を増した。

 



「…………まあ正直結愛は猫みたいなとこあるし、結愛から離れるまでは俺で良ければ側にいる」

「莉音くん……」



 幼さの全面に出た可愛らしい表情に、俺は正面から見られずに誤魔化すような返答してしまう。

 あんな反則な表情を自分の胸の中でされれば、誰であっても直視は出来ないだろう。



 一歩下がって距離感を元に戻した結愛の瞳の中には、すっかりと眩しいほどの光が映っていた。




『ガブッ』



 次に結愛が取った行動は、部屋に戻るわけでもソファに座るわけでもなかった。



 細くて小さな手を伸ばして、俺の手を口元に寄せた。




「ゆ、結愛!?」



 結愛に取られた手は、止まることなく口元に近づき、そのまま柔らかなプルプルとした唇に挟まれる。



 人差し指の第二関節の辺りには結愛の小さな歯も当たり、ツンと弱い痛みが全身に走った。

 それがもう一度行われ、唇に挟まれた指は解放される。




「…………莉音くん。猫だって、時には凶暴になりますよ?」



 その時の結愛の表情に悲しい雰囲気なんて一切なく、顔は当然のこと、首元まで赤く染まっていた。








【あとがき】


・あとは莉音くんの過去とかを含めた話を書けば、そこからはイチャイチャですね。


ちなみに、莉音くんの胸を借りている時の結愛ちゃんの心情は


(莉音くんの胸の中、落ち着きます……)


でしょうね。

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