第25話
琴の音や人の笑い声などが、遠くから微かに聞こえてくる。
粉雪が舞い散るこの寒い夜に、弘徽殿で雪を見る為の管弦の宴が催されていた。
弘徽殿には、撫子の御方の姉に当たる保子中宮がお住まいになっており、中宮はとても明るく活発な方と世間では評されている。姉妹だけだけあって撫子の御方によく似ておいでだろうと、珠子は勝手に思っていた。
撫子の御方も今夜は弘徽殿にお渡りになっており、女房達もお供としてついていっている。人が大勢いる宴がとても苦手な珠子は、一条と一緒に淑景舎で留守番をしているのだった。
「珠子様もおいでになればよろしかったのに。惇長様もおいでなのですから」
「そうは言っても、苦手なのよ本当にああいう場所は」
「そうですわねえ……。珠子様みたいに一見外に出るのが好きな方に見えて、実は怯えてしまわれる方は多いのですよ」
「一言余計なのではなくて?」
温かな湯気を放っているあつものを一口すすり、珠子はじっとお碗越しに一条を睨んだ。
子供のようなそれに一条は苦笑した。
正月を過ぎて、もう十九の歳を重ねたのだからもう少し大人になってもらわねばと思うが、それが珠子の魅力の一つなのかもしれないとも思う。
珠子の隣で、猫の桜も餌を食べていた。
「惇長様も一度くらいは、こちらへお渡りくださるとよろしいのに」
「仕方ないわ、例の妖騒ぎのためですもの。奇病を患った彼女とつながりのあった公達は、皆こちらに来ないじゃない。彰親様はそんなに懇意じゃなかったのかいらっしゃるけど。うふふ」
珠子は袿の上から胸を押さえた。
そこには御守りのように、惇長からの文が入っているのだった。
「存じては居りますが、その御文ももう少しなんとかならなかったのでしょうか。あの方は昔から無頓着と言うか、なんと言うか……」
「いいの。いただけただけでもうれしいから」
一条は、本当にその文で満足なのかと言う顔をしているが、実際珠子は満足していた。
何しろ初めてなのだ。
あの後朝の歌は一条がせっついて書かせたものだから、気に入らなくて燃やしてしまった。
でもこれは違う。惇長自身が珠子を思って書いてくれたのだ。
惇長の文には、
『右の繋がりのせいで、そちらに行くのを父から止められている。勤め以外に筆を持つのはおっくうで便りを書かなくてすまない。私は元気なので、貴女もさまざまな事に用心して元気でいるように』
とあり、紅梅の花がひとつ、押し花になって一緒に入っていた。それが春を思わせる甘く芳しい匂いで珠子はとても気に入っている。
「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして……、なんて哀れな様におなりになったらどうなさるおつもりでしょう」
「うふふ、大丈夫よ。そんな日は来ません」
せっかく訪れた春に、昔の春の方が良かったとか思うなんて春に失礼だと、珠子は思う。
もっとも、桜が咲く春はこれからだから思うのかもしれないが……。
「まだお若い珠子様には、わからない心境なのでしょうか」
「どうかしら。それなりに楽しい春は経験しているつもりよ。路と暮らした春は楽しかったわ。でもこれからはもっと楽しい春が待っているはずだし、路だって私がしょげ返って昔を懐かしんでいたらがっかりするわ」
「……本当に、貴女という方は」
いつも真っ直ぐに前を向く珠子に、一条は呆れ顔で笑いながら降参した。
倒れて熱を出したり、妖に噛み付かれてうなされている珠子を見たせいで忘れていたが、本来の彼女の姿はこうなのだ。
そう言えば二条の邸に来た頃は、外に出せだの、菜を作らせろだの、藤の花が見たいだのさんざんな我侭を言っていた気がする。
ふと一条は、惇長の亡き正妻である詔子を思い出した。
詔子も珠子に負けず美しい姫君だった。
いつも控えめで、深窓のお姫様らしく御簾の中で過ごし、それこそ立ち歩くのも稀で、ましてや端近に寄るなどありえなかった。姫君としての教養もすべて優れており、それでいてそれを鼻にかけるような卑しい性格ではなく、女房達にも平等に接した。文句のつけようのない、まさしく惇長の正妻にふさわしい姫君だったと言える。
対して珠子は、どうしても賎民と一緒に暮らしていたせいか、なかなかじっとしていられない。用があれば一条を使えばいいのに、すぐ自分で済ませてしまう。姫君の教養は琴だけが優れており、字はまずまず、他は壊滅的だ。裁縫の腕が素晴らしいが、それはどちらかというと姫君のすることではなかった。
また、人見知りがどうにも激しい。詔子のように区別無く接するのが苦手で、癖があったり、嫌味などを言う人間をかわしきれず、くたくたになって参ってしまったりする。清濁併せ持つのが不可能なのだ。
それは珠子が生来持っている純粋さの欠点というべきもので、濁るのを極端に嫌うためだと一条は思っている。賎民にもそういうやからが居た筈だが、それこそ路が選別して徹底的に排除していたのだろう。よくこれで市井に出るなどと言っていたものだ。その辺りが世間知らずな姫君らしい。
でも、そうでなければならない。詔子と似たような姫では惇長を救えない。
そう一条は確信していた。
桜の季節は目前に迫っていた。惇長が珠子に持ちかけた契約結婚の期限はすぐにやってくる。それに関して惇長は、一条に何も言わない。つまり続行しているのだ。
惇長は確実に珠子を意識しているし、どちらかというと執心気味だ。珠子は健気に惇長を慕っている。気持ちが通じ合っているのなら、本当に結婚すればいいのにとやきもきしてしまう。
珠子は落ちぶれたとはいえ、れっきとした宮家の姫君で卑しい身分ではない。後ろ盾なら左大臣とつながりを持ちたい有力貴族が、いくらでも養女に引き取りたいと申し出てくるだろう。
つまりは、惇長の気持ちひとつで、どうにでもなるのだ。
しかし、惇長は珠子に負い目があるのでなかなか素直になれない。もともと人に弱さを見せるのを嫌う性格であるため、余計にかたくなになっている。
おまけに親友の彰親が珠子に求愛している。
あの嵐の夕方にああは言ったが、惇長は彰親を一番近しい友人に思っているので、その遠慮とやらもあるのかもしれない。
押しが強いようでいて、恋の分野では躊躇ってしまうのだ。
自分の身分、相手の身分、世間の目、敵、味方、内裏での立ち位置、さまざまな問題が惇長を雁字搦めにしている。
文だけもらって放置されているというのに、無邪気に喜んでいる珠子を、一条は気の毒に思った。
「あら? 桜はご飯がいらないのかしら」
桜は、出した魚にほとんど口をつけていなかった。
いつもガツガツ食べているのに、今日は少しだけ食べて、落ち着かない様子できょときょとしている。
「鼠でもいるのかしら」
その珠子の声につられたのか、桜はすっと立って下げられている格子戸へ歩いていき、ふんふんと何やら臭いを嗅いでいる。
外に鼠か何かいるのだろうかと珠子は思い、戸を開けてやった。
すると、それまで静かに臭いを嗅いでいただけだった桜が、いきなり廂を走り出した。
びっくりした珠子は、一条の静止の言葉も耳に入らず、必死に桜を追いかけた。
こんな広い内裏では桜が迷子になってしまう。
この時、珠子の頭から、重要な事実がすっかり抜け落ちていた、……自分が迷子になってしまうという可能性に。
珠子が桜に追いつけた場所は、淑景舎から渡廊を抜けて、幾たびも角を曲がって、また渡廊を抜けてまっすぐに行った殿舎の縁だった。管弦の宴の賑わいが近いので弘徽殿に近い殿舎のひとつだろう。案の定桜は鼠を追いかけていたようで、雪が積もっている縁のところでガツガツと食べていた。
「……もう! いつもは鼠をこんなに追いかけもしないくせに」
食べ終わるのを待ってから桜を抱き上げた珠子は、さてここはどこだろうと途方にくれた。
珠子は淑景舎から外の殿舎へ移動したことがなく、本当にどこなのやらさっぱりわからない。一条も探してくれているだろうが、大声で女房が叫ぶ姿などみっともないのもいいところで、一条がするはずもなかった。
満足そうに、桜は珠子の腕の中で頭を掻いていた。
「多分こっちだから……」
振り返った珠子は、いつの間にかそこに殿方が立っていたので、びっくりして桜を落としかけた。慌てて顔を隠そうとしても両手は桜を抱くのに塞がっており、男から背を向けるだけで精一杯だ。
桜が細く鳴いた。
珠子は淑景舎にやって来る公達の対応をすべて一条にまかせていて、みしらぬ男と一対一で接するのはこれが初めてだった。
だからどうやりとりしたらいいのかわからない。
早くどこかへ行って欲しいと思うのに、男は立ち去る気配がなく、それどころか近寄ってきた。
「梅の花の精と言ったところでしょうか?」
そんなわけないだろうと珠子は思いながら、頭を横にぶんぶんと振った。
一条はまだ来る気配もない。
この殿舎は誰も居ないのか、しんとしている。
「その猫は見覚えがありますよ。彰親の君が位を賜ろうとしておいでだったのを、一度だけ見ました」
男は、珠子が困っているのを察せないようだ。
珠子はくらくらしてきた自分を戒めた。
こんな所で倒れたら、何をされるかわかったものではない。
唐突に彰親が言っていた、禍々しい気配に用心しなければならないという忠告を思い出した。
桜は何も知らずに暢気に鳴いている。お腹が満腹でご機嫌なのはいいが、こんな目にあわせた桜が憎らしい。
如月という季節はとても寒い。ましてや今夜は粉雪が降っている。
身体が冷えてきたのだろう、珠子はぶるりと身体を震わせた。
「冷えておいでのようですね。こちらへどうぞ」
男がいきなり珠子の腰を抱きかかえ、室内へ引き入れようとし始めた。
「え? ちょっと……っ」
「ああやはりかわいらしいお声だ。どうぞこちらへ。火桶がございますから温まりましょう」
見知らぬ男に屋内へ入れられるなんてとんでもない。
珠子は焦ったが男の力に敵うはずも無く、あっさりとどこかの局へ引き入れられてしまった。
先ほどまであんなに冷えていたのに、珠子はじっとりと汗が滲むのを覚える。
とんでもないことになったと、生きた心地もしない。
一条も彰親も惇長もいないのだ。
男は相当な身分なようで、局は美しい調度品が揃えられていた。
先客がいた。
珠子は振り向いた女房に、目を見張った。
「貴女、霧の君では?」
「中将の君……」
男の部屋に居たのは、同輩の恥ずかしがり屋の霧の君だった。
ここは淑景舎ではないのに、なぜ居るのだろう。
「おや見知っている仲だとは。貴女は撫子の御方の女房ですか?」
男が背後から言うのに、珠子は黙って頷いた。
局に入ったからには座らないわけにもいかず、珠子は桜を床に置いて、袖で顔を隠しながら座った。
焚かれている香が、しみじみと哀れ深いものを漂わせており、二人が逢瀬を楽しんでいたのではないかと、珠子は今更気づいた。
それならとても気まずい。
おそらくみっともなく走る足音がするから、男が出てきて確かめたのだろう。
一条に知られたら、なんというはしたなさだと怒られそうだ。
「あの、霧の君とこの方のお邪魔はしたくないので……」
「構いませんのよ。成時の君とはそういう仲ではございませんの。ただの童時代からの仲良しなだけの、あっさりしたものですから」
普段の姿からは想像もつかないほど、霧の君はしっかりとした口調で話した。
あの恥ずかしがりはなんだったのか。
珠子は怪訝に思った。あまりに違いすぎる。
再び、彰親の忠告が頭を過ぎった。
まさかとは思うが、違うとも言い切れない。珠子にはそれを判断できなかった。
霧の君は、ふいに微笑み、珠子の隣に座った成時に言った。
「ちょうどよろしかったわ。成時の君、こちらが貴方が探しておいでの中将の君です」
「え? この梅の精が?」
成時というのはどこかで聞いた名だ。
どこかで……。
確か一条が歌を持ち出して……、そうだ、妖に噛まれた時に自分宛の恋文を一条に託した男の名が成時だ。
とんでもないところに来てしまった! 珠子は中座しようとして成時に肩を掴まれ、落ちかかる髪を掻き分けられた。
(そうだわ、詔子様の兄君に当たる方が……)
湖で見た詔子の美貌を、珠子は生身で間近に見た。
男であっても、珠子と美徳のように面影は損なわれていない。
「ああ! やっとお会いできました。珠子姫」
一気に珠子は緊張した。
内裏では流れていないはずの自分の名を、なぜ成時が知っているのだろう。
間違いない。
絶対に成時は、撫子の御方を陥れようとした人物と繋がっている。
逃げなければ……。
拒絶する珠子の気持ちに反して、身体は、喜びに打ち震えている成時に、そのままあっけなく抱き寄せられてしまう。桜は驚いて霧の君の方へ下がった。
「あ、あの……」
「姫。ずっとこうしたかったのです。美しい梅の精、やっとここに……!」
霧の君は、自分の袖の中に桜を招き入れた。
そして初めて会う者同士を置いて、静かに部屋を出て行く。
部屋に残るのは香の香りと一組の男女。
淑景舎へ戻る霧の君の唇には、不穏な笑みが浮かんでいた。
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