第3章 移りゆく季節

第24話

 如月に入り、珠子は内裏に戻った。

 淑景舎は以前より明るい声に満ちていて、風通しのいい場所に変わっていた。

 妖の病魔が去ったせいもあるが、女房の顔ぶれがわずかに変わったのもある。

 珠子の天敵の、あの右京が女房を辞めていたのだ。

 すっかり元気になった宰相がもたらしてくれた情報によると、右京は重い病気に罹ってしまったらしい。

「お顔を始め、身体中……それこそ手先まで赤い発疹が出来ていたの。長い里帰りだと思っていたら、お辞めになってしまって……。そうね、中将の君が里帰りなさって間もない頃のお話よ」

「そうなの……」

「彼女と関係のあった殿方は、大慌てで御物忌やら加持祈祷するやらでこっそり大騒ぎよ。左近衛大将も、だから休まれていたのではないのかしら?」

 惇長の事だ。珠子は胸をわずかに騒がせ、それ治めるように扇をゆっくりと扇いで首を傾げた。

「それなら妹君の撫子の御方が何かとおっしゃるのではない? 兄君の事で何も知らぬ風なんてとても無理よ」

「そうよねえ。上の方々は沢山の人に囲まれているもの。隠し事なんて無理よね。でも長い間御物忌されていたのね」

「……そうね」

 珠子は緊張して、扇が震えていないか気が気ではなかった。

 右京は、間違いなく彰親に呪詛返しをされた影響で、そのような病になったのだろう。妖は消滅したが、その瘴気は持ち主のところへ還るのかもしれない。

 幸い宰相は、右京と違って噂好きではないため、すぐに話題はほかの話にそれた。

 ほっとした珠子は、そこで初めて、斜め後ろから誰かが自分をじっと見ている視線を感じた。

 振り向くと、確かにそこで自分を見ている女房がいた。これといって特徴が無い顔つきで、こんな人がいただろうかと珠子は記憶を巡らせる。

「あら霧の君。相変わらずおとなしいのね。こちらへいらっしゃいよ」

 気づいた宰相の君が明るく誘ったが、霧の君と呼ばれた女は恥ずかしそうに袖を口に当て、後ろへいざってしまった。

「霧の君……って?」

「ずっといらしたのに御存じないの? まああの方はいつも片隅にいらっしゃるから」

「本当に知らないわ」

 珠子が言うと、宰相の君はさもおかしそうに扇を口に当てて笑った。

「だから霧の君って言われてるのよ。居るようでいらっしゃらないから。あら、これはすこし意地悪かもしれませんわね」

 改めて後ろを見たが、もうそこに霧の君の姿はなかった。


 その夜は、雪は降らないものの凍えるような寒さだった。

 都でもこの寒さであるのに、山の奥深い熊野で修行している美徳は大丈夫なのだろうかと、珠子ははるか遠くに居る兄に思いを馳せていた。

 隣の一条は、まだ撫子の御方の御前に居るらしい。

 誰かの局からぼそぼそと男の声がする。誰かの恋人が来ているのだろう。

 夜も遅くなった。火桶の火に灰を被せて、もうそろそろ寝ようかと思っているところへ、彰親が身を滑らせるように入ってきて珠子は困惑した。

「……嫌だわ、どうして今いらっしゃるの?」

「まあそう冷たい事をおっしゃらないでくださいよ」

 片目をつむり、彰親は珠子のまん前に座った。

 こんなところを人に気づかれたらと、珠子は気が気でない。

 この時代の住居は、几帳や屏風で隔ててあるだけの空間だから、何もかも丸聞こえだ。現に今、他の女房のところへ訪れている殿方の気配や、碁石を片付ける音、衣擦れの音などよく聞こえる。

 昼ならまだしも、香をたきしめた殿方が夜に局に訪れるのは、そういう関係だと思われるようなものなのだ。

 人のことを探る趣味は珠子にはないが、そういう趣味の女房はたんといる。

「はいはい。恥ずかしがりやの貴女の為に結界を張りましょう」

「え、そこまでは……」

 珠子は印を結んだ彰親を止めようとしたが、もう結界は張られ何も聞こえなくなってしまった。

 これはつまり、彰親がせまってきても誰にも聞こえないということでもあり、それはそれで困るのだ……。

「さあこれで誰にも聞こえませんから、安心して愛を語れますよ」

「……本当の用件をおっしゃってください」

「やれやれ、私も貴女を愛しているというのにこれだから」

 思わせぶりな流し目をする彰親に、そのまま甘い雰囲気になるのを珠子は警戒した。

 幸いそんな雰囲気にはならず、彰親は直ぐに真顔になった。

「姫。貴女によからぬ気配が漂っているのです」

「気配?」

 はっきりしない言い方に、珠子は眉をひそめた。

「ええ、惇長殿の傷も癒えましたし、あまりの長い里帰りは新参の女房にはよくありませんからお戻りいただいたのですが、数日で桜花殿か私の屋敷へ帰って欲しいほどの禍々しさです。星回りもです。念のために桜と一条を貴女の近くにおいておりますが、油断がなりません」

「何が見えるの彰親様には」

「見えません。ただ嫌な気配が漂っているのです」

 彰親の目は、珠子を見ているのに、見えない誰かを見ているようだった。

 珠子は自分の周囲を見回したが、何も変わりが無い。現実では何も起きていないし、あれ以来平穏そのものだが、彰親が言うからには、それは事実なのだろう。 

 しかし、わかっていても、珠子は内裏を離れたくはなかった。

「私はここに居ます」

「姫!」

「だって、どこに行っても禍々しい気配ってあるものでしょう?」

「それは確かです、ですが、」

「だから、その為に皆、加持祈祷をしたり御物忌をしたり、方違えしたりするんだわ。私は御仏の有難さをよく知っていると思っているし、妖を祓う方々を否定はしないわ。でも結局のところ、私がしっかりしていれば済む事じゃないの。この間の妖は別として、自分の屋敷に居た時だって何も怖くなどなかったわ」

「それはそうですが、姫、」

「どこに居ても同じだと思います。私に災いをなそうとする人は、なんとしても私に接触しようとするはず。だから今は逃げても無駄ではないかしら……」

 珠子は深窓の姫君ではない。

 誰かにじっと守られながら、屋敷の奥深くに引っ込んでいるなんて無理なのだ。

「貴女が今まで無事だったのは、助けてくれる人がなんとか間に合ったからですよ。この先はわかりません」

「それでも、です」

 彰親が子供を諭すように話しても、珠子の意思は変わらない。

 兄の美徳のような術者はもっと居るはずだ。

 どれだけ彰親が結界を張ろうとも、美徳はたやすく抜けてきた。

 そして言っていた、破れぬ術など存在しないと。

「破れない術なんてあるわけ無いわ。どこに居ても同じだから、逃げたくないだけ」

「姫……」

 珠子は両手をついて彰親に頭を下げた。

「いつも守ってくださってありがとうございます。でも、今はここを離れたくないんです」

 彰親は黙っている。

 これだけ言ってもわからないのかと、呆れているのかもしれなかった。

 本当のところ、内裏に珠子が留まりたい理由は、惇長にあった。

 あの妖が滅した後、一ヶ月の休暇を惇長は取ったが、彰親の屋敷に居たのはほんの数日で、すぐ桜花殿へ帰ってしまった。

 それも、珠子はゆっくり休むようにと置いてけぼりにされたのだ。

 ひと月の間、文や言伝を待っていたが、惇長からはなんの音沙汰もない。

 つまり、あの共に寝た夜から珠子は惇長に逢っていない。

(あの接吻はなんだったのかしら。どうして私を命がけで救ってくださったのに、何も言ってくださらないの? 何か一言でもと思うのは私の我侭なの?)

 一方通行の恋に珠子はずっと悶え苦しみ、少しでも惇長の気配がする内裏に居たいのだった。

 

「……惇長殿の為にですか」

 彰親が呟くのに珠子は黙って頷き、顔をうつ伏せにしたまま姿勢を正した。

 ふうと、あからさまなため息を彰親はついた。

「私にもあの方の考えはさっぱりわかりませんよ。何故そんなに貴女を厭うのでしょうかね。詔子様のことはそりゃ苦しいでしょう。ですが……」

「詔子様って本当にどういう方だったの?」

 珠子は顔をあげて、ずいと膝を乗り出した。

「え? それは私もよく知りません。歌が大層お上手で、お美しい方だったというぐらいしか……。貴女の中においでなのだからお話しになればよいのではないですか?」

「聞いたけど、過去の事は聞いても仕方が無いって……」

「成る程。一条から聞く彼女の性格が正しいならば、そう言うでしょう。彼女は貴女と同じで、常に前を向いている方だったそうですから……」

「……私に似ているの?」

 彰親が腕を伸ばして、不安気な珠子を横から抱き寄せた。

 珠子は抗わない。変に騒ぐほうが、却って男心を煽ってしまうのを本能的に知っているのだ。

(ああそれにしても……)

 珠子は自分の弱さを思い知る。

 彰親の腕の中は、惇長と違って静かな優しさに満ちている。

 この優しい人に応えたなら、どんなにか楽だろうと一瞬珠子は考え、それはあまりにも彰親に失礼だと己を恥じた。

「似ているかどうか、目通りが叶わなかった私にはわかりません。ただ、惇長殿は貴女の中に別の女の面影など見ていないと思いますよ」

「それならうれしいのだけど」

 萎れている珠子に彰親が笑った。

「大体、歌がお上手だった詔子様の面影が、歌が大嫌いな貴女のどこを探したら見つかるんですか? 惇長殿はきっと姫の歌の駄目ぶりに惹かれているんですよ」

「まあひどい! これでも励んでいるのにっ」

 俄かに元気が出て頬を膨らませた珠子に、彰親が一通の檀紙で包まれている文を目の前に見せた。

「はいこれ。その歌が駄目な男からです」

「え?」

 両手に檀紙が押し付けられ、珠子は信じられない思いで受け取った。

 惇長が文をくれるなんて初めてだ。

 凍み入る寒さだというのに、身体中がかっと熱くなって、湧いてくる喜びを抑え切れない。

 とてもうれしい。

 彰親が離してくれないので、珠子はそのまま文を広げた。

 やや切なげに目を細めた彰親がじっと見ているのに、文を読むのに夢中の珠子は気づかない。

 恋の奴は、一体誰なのだろう。

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