第9話

 雨が降らず、御簾内からでも陽の強さがわかるほど暑い日々が続いている。昼下がりだけあって蝉の声が騒々しい。

 風はどこへ行ったものやら、そよとも吹かない。

 珠子は生絹すずしぎぬの薄い単衣を羽織り、長い黒髪を重く暑げに後ろへ流しながら、氷水を入れた盥に白い手を浸して涼を取っていた。

 手をそっと水からあげると、優しい水の音がして、それがとても癒される。

 浮かんでいる氷はとても冷たく、さすがに触れるのは躊躇われた。

 夏に氷を得られるのは、裕福の証だ。

 昨年はどうやって過ごしていただろうと思い返しているところへ、さやさやと優しい衣擦れの音が近づいてきて、珠子はため息をついた。

「おかげんはいかがですか?」

 予想通り、夏直衣の彰親が御簾を上げて入って来て、珠子の隣に座り、袖を静かに払った。蒸し暑い屋内でも涼しい顔をしている彰親が、うらやましいのと同時になんだか妬ましい心地がする。

 珠子は床に伸びて寝ている猫の桜を撫でながら、ぷいと顔を横に背けた。

「……いつまで貴方の屋敷に居ないといけないの? それも一人で」

「仕方ないでしょう、惇長殿は七日に宮中で行われる七夕の準備で忙しいのですから」

「……貴方は暇そうね。おかしなこと」

「ふふ、私はもっぱら裏方ですからね。表の華々しいお役目は、他の方々にお譲りしているんですよ」

 そんな事でいいのだろうかと珠子は思いながら、手を拭き、近くに畳んであった夏の袿を肩にかけた。さすがに肌が透けて見える生絹は殿方の前では恥ずかしい。

 その奥ゆかしさを彰親は好ましく思い、目を細めた。一条の薫陶のおかげで、品のない乱暴さが消え、好ましい姫君らしさが珠子の身につきつつある。素直な性格で純粋な心の持ち主だけに、宮家の姫君らしい清らかな美しさだ。

「姫も七夕に何か願うのですか?」

「もちろん。お裁縫の上達をね」

 七日の夜は、棚機津女(たなばたつめ、古事記に出てくる巫女で、村の災厄を除いてもらうために水辺で神の衣を織り、一夜限りの妻になるのを待っていたという。たなばたの語源と言われる)と織女おりひめにちなんで、手芸の上達を願う事が一般的なのだ。宮中では七夕祭りが行われ、貴族の家では一晩中香を焚いたりする。そして数日後には祖霊を弔う日が来るのだ。

(路と父宮様、お母様を一人で弔おう)

 珠子はそう思いながら最近は過ごしている。

 兄の美徳はあの日以来現れない。

 一条や彰親に詳しい事情を聞きたくても、いつもはぐらかされてしまうし、惇長にはめったに逢えないため、珠子は苛苛していた。彰親は言霊を操る陰陽師だけあって、口はかなり巧い。世間知らずでのんびりした性質の珠子が、誘導尋問など掛けられるはずもない。

 確実な隠し事を知っていながら、それでいて珠子が逃げたりしないのは、惇長の傍に居られなくなるのに耐えられないからだった。

「ふふ。そう言えば姫はとても刺繍がお上手でしたね」

「それくらいしか取り柄がないもの」

 彰親が静かに扇を仰ぎながら抱き寄せて来るのが嫌だったが、珠子はやはり逆らわずに顔を背けて袿を丁寧に前に合わせた。彰親の手は明らかに自分を欲していると、自惚れでは無くはっきりと分かっている。だが突っぱねるのははしたないと、一条に言われたのをいつも思い出し、我慢していた。どのみち彰親はそれ以上は要求してこない……。

 もちろん、珠子が彰親を嫌っていないからこそでもあるが。

「ねえ姫。姫は惇長殿がなんでここへ貴女を連れてきたか知ってる?」

「方違えでしょ? 私は信じてないけど高貴な人たちは信じているようね」

 ざっくばらんな珠子の言い方に、彰親は眼をぱちぱちとさせた。

 方違えとは、禁忌の方角を避ける陰陽道に基づいたやり方である。近いうちに惇長がどこかの屋敷を貰うらしく、そこへ珠子も連れて行くつもりらしかったが、その方角が悪いらしい。

 用意が出来次第すぐにそちらへ移動できるように、前もって彰親の屋敷へ……という話らしかった。

「方位神の祟りが恐ろしくないの?」

「別に。気にしてたら何もできませんし。貴方は気にしたほうがよろしいのでは? 陰陽師なのですから」

「そりゃそうですけどね。……本当に姫は型破りな方ですね」

 彰親は、珠子を褒めているのか貶しているのか、わからないような言い方をして笑った。

 彰親の小さな屋敷は都の片隅にひっそりと建っている。家人は中年の女房が一人と、若い女房が二人、彰親の小間使いの少年が一人、家司の年寄りが一人いる。

 周囲に人家はなく、人の声は屋敷の人間のもの以外聞こえない。

 虫の声でかしましい夏は楽しく過ごせても、冬は北風の吹きつける音のみのような気がする。それとも冬は冬で雪の舞い散る音や、火桶の火のわずかな音が暖かく響くのだろうか。 

 二人で話していると、若い女房の楓が碗を持ってきて二人の前に静かに置いた。どうも彼女は珠子を彰親の恋人と思っているようで、珠子の肩を彰親が抱いていても何も言わなかった。しかし目が、主人の恋人はどういう姫だろうという好奇心できらきらしており、悪意がかけらほどなくても、そんなにじろじろ見られたら気になって落ち着かない。

 一条が居たら、楓を叱り付けるに違いなかった。

「中将様、どうぞお召し上がりください」

「あ、でも……」

「どうぞご遠慮なく」

 中将とは珠子の仮の名前だ。

 この時代、女は名前を人にさらさない。珠子は貴人ではないから必要ないと文句を言ったが、彰親は頑としてその要望を受け付けなかった。

『惇長殿との契約を無効にする気ですか?』

『…………』

 そう言われては、珠子は頷くしかなかった。

 惇長はあの近江への旅の後一度も珠子の前に姿を現さなかったのだが、一月経った昨日の昼、唐突に彼女の前に現れて、方違えの必要があるから彰親の屋敷へ行くようにと立ったまま言い放った。あまりのそっけなさに、惇長がそのまま立ち去るまで、珠子は唖然として何も言えなかった。

 仲良くなった一条は引越しの準備で忙しくて付いて来てくれず、昨日の夕刻に珠子は身一つで彰親の屋敷に連れてこられた。彰親も屋敷の使用人たちも珠子に優しくしてくれるが、珠子は寂しくて仕方が無かった。

「姫、氷が溶けてしまいますから、早く召し上がれ」

 やっと珠子を離した彰親も、銀の碗に盛り付けられている甘い汁をかけた削り氷を勧めた。高価なお菓子に、珠子は気が咎めてしまって手が出ない。

「楓さんは?」

「私は冷たいものは苦手なんです。どうぞお召し上がりください」

「でも……」

「せっかく氷室から出してきたものを削りましたのに、召し上がってくださらないと寂しいです」

 可愛く微笑まれ、珠子は躊躇いがちに匙に氷をとって口に運んだ。あまづらがかかっている削り氷は、すっと口の中で溶けた。

「式神が氷を作っているのかと思ったわ」

「何の娯楽草紙をご覧になったのかわかりませんが、式神は依り代が無いと実体化しませんよ」

 くっくと彰親が笑った。珠子は隣に寝そべっている桜が式神の依り代であるのを知らない。桜に憑いているのは虎のあやかしで、式神とは陰陽師が使役する鬼神の事だ。

「でも貴方のおじい様はできたのでしょう? 一条戻り橋の下に住まわせていたって」

「ふふふ、さもご覧になったかのようにおっしゃる」

「だって……」

「食えないじいさんでしたから、人をたばかるなんてお手の物でしたよ。嫌なじじいです」

「貴方みたいな?」

「私はあそこまで根性は捻じ曲がっていませんよ」

 本当かしらと珠子は思いながら器を置いた。その瞬間、またあの香がふっと香った。

 最近ますます強く香っている。それを誰もわからないというのだから気味が悪い。彰親をちらりと見たがやはりわからない様だ。いや違う、美徳は言っていた……わかっているのにわからない振りをしているのだと。でもそうは思いたくない、珠子は彰親を信じたかった。きっと彰親でもわからない事があるのだと。

 だが、随一と謳われる陰陽師の彰親でも気配がわからないとは、一体どういう妖なのだろうか。

(一体何を信じればいいの?)

 誰にも縋れない心細さを珠子は今まで知らなかった。ずっと自分は強いと思っていたが、それは傍らに誰かが居てくれたこそなのだと痛いほど思い知らされる。生まれた時から傍に居てくれた路はもう居ない。彼女は珠子が一人になるのをとても心配していた……。

(霊でもいいから私に会いに来て欲しい)

 でも本当はもっと来て欲しい人がいる。だがその人間はここ最近ずっと行事にかかりっきりで、珠子に逢いに来てくれないのだった。


 夜。

 大きな月が夜空に浮かび、ちぎれ雲を照らしている。昼間の暑さはなりを潜め、涼しい風が格子越しに入ってきて気持ちがよく、子猫の桜ものんびりと寝ていた。

 もう皆寝静まっている刻だというのに、何故だか珠子は眠れない。

 虫達の鳴き声はあのボロ屋敷に住んでいた頃から馴染んでいたものだ。手入れが行き届かなくなった庭は虫達の絶好の住処で、珠子はいろんな虫を採っては篭に入れて喜んでいた。特に蝉がお気に入りで、羽化する為に地上に出てきた幼虫を御簾に上らせて、蝉になっていくのをじっと見つめたりしていた。

「喉が渇いたな……」

 しかし手元の碗には水は無く、かといって真夜中なので寝ている女房達を起こすのも気が引ける。

「ま、いいか。厨に行って自分で水がめから汲んでこよう」

 月がこうこうと照らす明るい夜だったので、紙燭は必要なかった。

 縁もひんやりしていて、素足に心地いい。 

 碗を持って縁をそろそろと足音を立てないように歩いていると、楓の話し声が聞こえた。楓の部屋は珠子の部屋からは遠く、厨はもう目の前だ。

「ではまことなのですか?」

「……断りきれなかったのだろうな。まあ、主上直々の縁談ではね」

「帥の宮様の姫君……ですか。お美しいと評判な方ですね」

「ああ、笛をよくされるらしいよ。歌詠みとしても有名な方だ」

 男の声が誰かはわからないが、貴族独特の気位が高い感じがする。こんな夜更けに彼女の部屋に居るという事は、楓の恋人なのだろう。恋人達の語りを邪魔しないようにひっそりと縁を歩いていた珠子だったが、次の楓の一言で足を止めた。

「惇長様の新しい北の方には、最適ですね」

「そうだな」

 惇長。

 珠子はその名前に耳を疑った。立ち聞きはよくないと思いつつも、妙にくぐもって聞こえる二人の会話から耳が離せない。

「彼は主上の覚えもいいし将来的には大臣も夢ではない男だからね。やり手の帥の宮様が逃すはずが無いさ。左府も願っても無い縁だろう」

「先の政変の立役者でいらっしゃいますものね、帥の宮様は」

「ああ、だから仕方ないな。惇長殿も評判の美人を北の方にできそうで良かったさ。またやっかみが増えるだろうけど、そんなのあいつは屁にも思わない冷酷な奴だし」

「ほほほ」

 珠子はそれ以上聞いていられず、厨には向かわないでふらふらと自分の部屋に戻った。

 そのまま寝床の畳の上で丸まって寝転がる。唐突に虫の音が止み、ひんやりとした畳に心の中も冷えていく気がした。

(方違えって……、本当はこういう事だったの)

 諦めにもにた悲しさが身体中を満たし、珠子は小さく笑った。

 珠子を追い払うための方違えだったのだ。

 あの屋敷の中で、珠子の耳に何らかの形でこの縁談を知られるのを惇長は恐れたのだろう。聞けば契約結婚が嫌になって逃げ出すかもしれないと……。

 新しい屋敷とやらも口実で本当はないのかもしれない。

「……だったら、契約なんてもういらないじゃない」

 言ってみて、珠子は弱弱しい自分に気づいた。

 契約としての結婚だと惇長は言ったが、結婚などではない。惇長にとってはただの慰み者なのだ自分は。

 何しろ惇長は隠し事をしているのだから。

 言わなければならない何かを言ってくれないのだから。

「なんであんな人好きになってしまったのかしら。……愛されるわけなんて……ないのに。一年だけの契約なのに」

 こんなめそめそした自分は嫌いだと珠子は思いながら、かかってくる黒髪を自分の手で掻きやった。この黒髪を撫でてくれた手は、今頃他の姫君の髪を撫でているのだろう。あの広い胸に抱いて、凛々しい顔で姫君に微笑みかけて……口付けて……。

 そこまで想像して胸がますます痛み、気がついたら縋りつくように名前が口に上っていた。

「……惇長様」

「呼びましたか?」

 不意に、几帳の影から居ない筈の男の声が聞こえ、珠子は飛び起きた。顔をあげた珠子の前の几帳から、狩衣を着た惇長が現れ、月明かりに浮かび上がった。

「なんでここに……」

 珠子が身体を震わせていると、惇長はその大きな手で珠子を抱き寄せて黒髪を柔らかく撫でた。

「なんでとはご挨拶ですね。でも来て良かった、珠子が私を好きだとわかったのですから」

 珠子はおぼろげな月明かりでも分かるくらいに、顔を赤くしてつんと鼻をそらした。

「何も言ってないわ、私は……」

「おや空耳だったか? 姫が愛されるなんて思ってないとおっしゃった相手は、彰親でしたか?」

「そんなわけないじゃないっ、私が好きなのは……っ」

 言いかけて珠子が袖で口を隠そうとする前に、すばやく惇長の唇が重ねられた。押し返そうとした両手は掴まれ、さらに引き寄せられる。口付けは長く、気がついたら珠子はそのまま惇長と寝床に臥していた。

「ご安心なさい。今は珠子だけですから」

 首筋を惇長の唇が這い、そこが熱を持つ。

 惇長はいつもこうだ。情緒も何も無くいきなり珠子を求めて翻弄する。そしてそれに彼女は逆らえない。

「うそ……、だって……ああ!」

 愛撫が激しさを増し、珠子は好きでたまらない男にしがみついた。後朝の朝、あんなに抱かれるのは嫌だと思ったのに、今は惇長が欲しくて身体中が疼いている。

「うわさはうわさですよ。私は誰とも当分結婚はしたくないので」

「ほんと……なの?」

「もちろん嘘はつきませんよ」

 嘘ではないだろう。珠子はその言葉に安心しながらも、でもそれはあと7か月だけだと悲しくなった。そして嘘はついていなくても隠し事をしている癖にと思う。

 憂えている珠子は、鈍く輝く透明な美しさで惇長を誘った。

「何を不安に思う? 私は珠子のものなのに……」

 さらに濃厚になる香の匂い。

 甘く気高いその香は、まるで珠子を見張っているかのようだ。

「ああ!」

 惇長に貫かれて揺さぶられ、心の奥底から歓喜がわきあがってくる。それはぬるぬると擦れる部分から生まれてくる愉悦と一体化して、珠子に途方もない望みを抱かせようとするのだった。

 いつの日か、契約結婚は止めた。本当に結婚しようと言ってくれるのではないかと。

「ふ……う……わ、私、おかしいの……っ」

「おかしい?」

「惇長様が優しくしてくれないと……、苦しいの……あ……ん……」

「そう、すまなかったね。寂しかったか?」

「っ……寂しい……。だからっ……」

「大丈夫、これからはたびたび……参ります。だから泣かないで……。七夕の時は一緒にいられませんが……っ終わったら一緒にまた出かけましょう」

 欲しかった、優しい惇長の声に珠子は目から涙を溢れさせた。

 その涙を惇長の唇が吸う。

 淫らに揺れ動く二人の腰はぴったりと重なり、お互いを貪り尽くさんとばかりに動きが激しくなっていく。

 上り詰めようとしている珠子を胸に抱きながら、惇長は寝床の薄縁の下の貝を手にした。それは美徳が珠子に渡したものだ。

 喘いでいる珠子の耳を舐めながら惇長は不敵に笑い、それを脱いだ狩衣の中へ隠した。珠子は知らずに惇長の動きに溺れている。

 久しぶりに開いた珠子の肌は、極上の甘い肌触りだ。彼女との逢瀬にひどく満足していながらも、惇長は悦楽に酔い切れない冷酷な一面を持っている……。

「姫には私一人で十分、そうだろう?」

「あ……、あ!」

 局の外では、月が雲で隠れ、闇に染まった縁にひっそりと座った彰親が、己の口元で印を結んだ指に囁くように呪を唱えている。

 その目は、非情に凍り付いているようでいて、涙が滲んでいるのか、珠子の部屋の燈台の灯りをほのかに受けて僅かに煌いた。

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