第8話
「貴方……」
「妖物に魅入られますよ。気づきませんか? 姫の周りは妖の匂いがぷんぷんします」
「貴方には嗅ぎ取れるの?」
「皆わかっているはずですよ。でも知らぬふりをしている……」
男は低いが聞き取りやすい声で囁いた。珠子は自分に似すぎているその男を、布越しにじっと見つめた。
この穢れなき瞳をどこかで見た気がする。
「貴方はだれ?」
「今は話せません。ただ、私は姫の味方です」
「味方?」
「これを……」
珠子は袖の中で、男の手のひらから硬くて薄いものを握らされた。
「姫が私と話がしたいと思われたら、屋敷の局から庭先に降りて、それに話しかけてください。局に結界が張られていて、私は近づけません」
「……貴方は、陰陽師なの?」
「そんなものです……」
その時、船頭が方向を変えたために船が大きく揺れ、その動きについていけずに倒れかけた珠子を、男はさっと抱き寄せてくれた。
胸に言いようのない懐かしさが広がり、この人は間違いなく血の繋がりがあると珠子は確信した。
それは気配程しか覚えていない父宮が現身で現れたようなもので、家族というものを知らない珠子には、すがり付きたくなるほどの歓喜を呼び起こすものだった。
男は上品な様子で、涼しげに微笑んだ。
「私の名前は、
もっと話がしたいと珠子が引きとめようとする前に、美徳の姿は消えてしまった。驚いた事に周囲にはそれは見えていなかったようで、騒ぎも起こらない。
「……夢?」
だが珠子の手には美徳にもらった硬いものがある。そっと虫垂衣の中で覗いてみると、小さな瑠璃色の貝殻の片割れだった。それは確かに美徳がここに居たと言う証だ。
味方だと美徳は言った。では敵が居る事になる。敵とは誰の事なのだろう。
考えを巡らせながら、遠くに見える比叡の山並み見ている珠子の隣に、惇長が船頭の所から戻ってきて、美徳が座っていた所へ座った。
「楽しいですか?」
珠子は無言で頷いた。
胸の中に沸いた疑念が、惇長に向かうのを止められそうもない。付き合いの長い惇長より、初対面の美徳を信用するのかと自分に問うても、俗世の欲を昇華させた美徳の美しい瞳がそうさせてしまう。あの目は、石山寺で会った源晶とまったく同じだった。
惇長という男を珠子は本当の意味で掴めていない。それは惇長が自分の本当の姿を珠子に見せないせいだ。
美徳も源晶も、最初から本当の自分を珠子にさらけ出していた。それは己に一片の恥ずべきものはないという自信に他ならない。境遇を語らなくても、自分自身を即座に相手に理解させるには、欲にまみれた隠し事をしていては不可能なのだ。
欲のない人間は、相手に疑念を持たせない。持ちようがないのだ。
彰親も惇長も何かを珠子に隠している。手の内を全部見せていない。ばれたらまずい何かがあるのだろう。でもそれは珠子も同じだ。
珠子は悲しい思いを抱えながら自嘲し、船から見える山の名前教えてくれる惇長を見つめた。
(惇長様が、好き)
しかし、一年間だけの契約の結婚と決められている以上、そんな言葉は口が裂けても言えない。愛人にしてもらえばいいのじゃないのと、もう一人の珠子が誘惑するように囁きかけてきても、それに対する珠子の返事は否だ。それは自分の愛を汚す行為であり、覚えていない父母に対する裏切りだ。契約の契りと打算による契りは天と地ほどの差がある。
契約の契りは、己の変わらない心を見せるためにするもの。
愛人の契りは、相手の気を引くために己の心を偽って媚を売る行為だ。対等ではないうえ、打算の影がちらちらする。
(私はこの人から手放しの愛情はもらえないばかりか、まともな契約ですらしてもらえるような立場ではないのよ)
契約として閨を重ねているのに、惇長は契約時に明かさねばならぬ重大な何かを隠しているのだ。ひどい男だと思うのに、そんな卑怯な男を愛してしまった自分は、なんというおろかな人間なのだろう。
涙が滲み頬を伝わっていくのを、垂れ衣が隠してくれるのを、珠子は幸いに思った。
ふいにあの忌まわしい香が強く香った。それは嘗てない濃厚なもので、激しい頭痛が襲い、耐え切れなくなって珠子は両耳を抱えるように頭を抱えた。
湖ばかりを見て、そんな珠子の様子に一向に気づかない惇長が、湖面を指差した。
「おや、鮎がたくさん泳いでいますよ。珠子、御覧なさい」
「え……?」
美徳に見るなと言われたのに、珠子はつい見てしまった。確かに鮎が透きとおった水の中を群れなして泳いでいる……、だが、これは一体なんだと珠子は目を見張る。
そこに居たのは人ならざる者。
美しい紫の襲。つややかな長い黒髪。魅惑的な形の赤い唇。気品が漂う清らかな目許。
湖面の底から、色鮮やかな女房装束を着た美しい女が、睨むように珠子を見上げていた。
息をのんだ珠子に気づいたのか、その女は微笑みながら袖を左右に大きく広げて、水面へ浮かび上がってきた。
「…………っ!」
「珠子? いかがされた、姫っ!」
珠子は惇長の腕の中で、気を失った……。
気がついたら、珠子は灯台の灯りの元で畳の上に横たえられていた。すぐ近くで惇長が文机に向かっている後姿が見える。
珠子が身じろぎしたのに気づいて、惇長が膝だけでいざって来た。
「お加減はいかがですか? 船に酔ったのでは?」
おそらく何を言っても駄目だろうと思った珠子は、あの美しい女について言う気にはなれなかった。
「……そうじゃないの。なんだかとても気分が悪くなって……、せっかく船に乗せてくれたのに御免なさい」
「構いませんよ。それよりお加減は?」
「もう大丈夫です。お腹が空きました」
むっくりと珠子は起き上がった。惇長は安心したようで手を叩いて一条を呼び、膳を持ってくるように言った。
珠子はそっと袂を探った。あの貝はちゃんとそこに収まっていた。惇長が食事を持ってきた一条と話している隙に、珠子は自分の小物を入れている袋にそっと貝を入れた。
この事を惇長が知ったら嫌がるだろう。彼は珠子が一条と彰親以外の人間と接触するのを快く思っていない。
珠子は陰鬱な気分を晴らすかのように、一条が運んできた膳をすべて平らげ、一条にはしたないとお叱言をくらった。いつもなら煩いとぶうたれる珠子なのに、今はその一条のお叱言すらうれしかった。
一条が下がると、惇長がからかうように言った。
「精進落としに、今宵は睦みあいますか?」
「……最近連日のよう……」
「秘め事は嫌い?」
「嫌い」
こんなに愛しているのに、惇長は一片の愛情も自分に持っていないのだと思い知らされてしまうから。
それなのに惇長は珠子を静かに抱き寄せた。袿がするりと滑り落ちて、小袖の上から背中を撫でられていき、甘い戦慄が走って珠子は身を捩る。惇長は本当に珠子を抱く気はないようだ。それ以上は侵入してこない。
「……一条にでも相手してもらったらいいのでは?」
「浮気を推奨するなんて、おかしい妻だ」
一条の齢は二十五歳で当時ではもう若くない年だ。その上口がたって気がキツい。だが美しい容姿に歌や琴を能くする一条は、かなりの男に言い寄られていると珠子は睨んでいる。
「貴方は、彰親様に私に手を出しても良いっておっしゃったのでしょう? 妻と言えるのですかそれが」
「……もう彰親に目をつけたと? さすが身売りしただけあって根性が強かだ」
冷たくなった気配を感じて恐る恐る見上げると、惇長は唇に弧を描いてゆっくり微笑む。
「なっ……」
珠子はそのまま畳の上に突き飛ばされた。
うつ伏せに伸ばした右腕を力任せに畳へ押し付けられ、痛みに珠子は泣きそうになったが堪えた。惇長を本気で怒らせてしまった。
「成程、彼は身分も低いし財もある、見かけは美しいし結婚相手には最適ですね」
「なにを……痛……い」
「まあ大目に見てあげましょう。貴女は私に見捨てられたら、たちまち遊女に堕ちてしまうんですから」
凍るような冷たさに珠子の胸は張り裂けそうだ。その間に帯を解かれ仰向けに転がされた。両手は頭上で惇長の手が押さえつけている。
「でも今は私の妻です。忘れないでください」
心は拒絶しているのに、身体は性急な愛撫でも燃え上がり惇長を受け入れた。肉がもたらす快楽はとろけるように甘く熱いのに、お互いの心はなんて遠いのだろう。これが愛の裏切りで怒られているのなら、どんなに幸せなのに。
惇長が怒っているのは、軽く見ている珠子が逆らったからなのだ。自意識を傷つけられたのが許せないのだ……。
もう一人の珠子が意地悪げに言った。
だから言ったでしょう? 貴女など彼は人間にすら思ってないのよと……。
近江から帰ってきてからというものの、珠子はずっと褥に臥せっていた。
あの夜、惇長に乱暴に抱かれて朝まで寝かせてもらえなかった上、帰りは強行軍で休憩もなしに、苦手な牛車に揺られ続けたせいだった。でも臥せっているのは彼女だけで、一条も惇長も他の従者達も普通に生活を再開している。
(私、こんなに弱かったっけ?)
珠子はそう思いながら、額に載せられた布を触った。
一条が定期的に現れて水を絞り布を取り替えていく他は、相変わらず局はしんと静まり返っていた。 桜と名づけた彰親から貰った子猫は珠子の隣で丸まって寝ていたが、珠子はなぜか寂しくて仕方なかった。
誰かと話がしたい。話をしている時は寂しさを紛らわす事ができる。
唯一の話し相手といえる一条は、女房達に指示する立場の人間でいろいろと忙しく、珠子の傍にはずっといてくれない。
熱がひどくでている間はそんな不満も押し込められたが、起き上がれるようになるとどうにも我慢ができなくなった。
気がついたら珠子はあの瑠璃色の貝を右手に握り締めて、月が明るく照らす庭に降りていた。
「美徳、美徳様、来て……」
しばらくは何も起こらずしんと静まり返っていた。
あれはやっぱり夢だったのだろうかとがっかりした時、空気が動き、座り込んでいる珠子の前の闇の中から、白の狩衣を着た美徳がふわりと降り立った。
涙を滲ませて珠子が見上げると、美徳は珠子そっくりの美しい顔に笑顔を浮かべ、その手を差し伸べた。
「いらっしゃい姫。私の所へ。こちらは寂しいのでしょう」
「貴方の所?」
「そう……。私の所へ来たら寂しい思いはないよ?」
「でも、私」
「さあ……姫」
しかし珠子は背後から強く引かれ、誰かの腕の中に抱きこまれてしまった。
振り向くと険しい顔をした彰親の顔があった。
「結界を破ったのは貴方か」
彰親の言葉に、美徳は意地悪く微笑んだ。
「本当は湖で珠子を連れ去りたかったのですができなかった。高度な術が絡んでいたせいです。その原因である、こちらの屋敷と珠子とを繋ぐ、外側からは決して敗れない結界を内側から破ってもらっただけ。結界が破れて、初めて妹に掛けられた術の全容を知りました。恐ろしい術だと貴方方はわかっているのですか?」
「すべて承知」
珠子は熱で朦朧としてきた。何が何やらわからない。だが今、美徳は妹と言わなかっただろうか……?
顔を強張らせた彰親に、美徳は何かを悟ったように頷いた。
「局だけではなく、珠子自身にも必要以外の人間と接触するのを禁じる術を掛けていたとは、さすが稀代の陰陽師、安倍彰親だけはある。そちらがそのつもりならこちらも決して容赦しませんよ」
「ならば結界を強化するまで」
言い返した彰親に、美徳は余裕の笑みを浮かべる。
「無駄ですよ。われらが同じ血を持っている限り。破れぬ結界などありはしません」
「それは諸刃の剣。血を辿って姫にかけられている術がお前にも及ぶ」
「してごらんなさい。私が自分を殺せば姫も死ぬ。お前達の愚かな術は完成せぬよ」
「黙りなさい!」
印を結んだ彰親を避け、美徳は屋根の上に飛び乗った。
二人を見た女房達が騒ぎ出し、人が集まりだしたため、美徳は珠子を連れて行くのを諦めたようだ。
「術が完成していれば、この場で貴方を屠って妹を連れて行くところでしたが、今日は諦めるとしよう。珠子、おとなしく待っておいで」
美徳は恐ろしい火を噴く虎が襲い掛かる前に、すっと姿を消した。
「なんという……」
彰親は、印を結んでいた手を僅かに震わせながら下ろした。
美徳の軽やかさと術の力に畏怖する心が芽生えている。今まで祖父以上にここまでの術者に出会った記憶がない。
気を失ったままの珠子を見ると、彼女は熱にうなされながら眠りにおちている。
月明かりの屋根に残っているのは、虎から元の姿に戻った彼の式神の依り代である、子猫の桜だけだった。
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