第9話 手紙(2)
翌日は、縫い物の仕事はお休みだった。
聖誕節が近いので、ロザンナさんたち村の主婦は、聖堂に集まってお祭りの準備をするのだ。掃除をしたり、祭壇を飾りつけたり、村の子供たちに配る生姜パンを焼いたり……。
前日の雪が地面に残る、寒い日だった。アルベルトさんが、松林の倒木をのこぎりで切って運ぶと言うので、わたしは手伝おうとついていった。
けれど、小道の途中で、大きなかごを抱えたマルコと行きあった。ロザンナさんのかわりに、急ぎの仕立て物を縫ってくれないかという。
「パンにジャムをはさんだやつをつけるからって、母ちゃんが。アルベルトの分もあるぜ!」
そこで、わたしはマルコと小屋に戻り、さっそく作業に取りかかった。
仕立て物は小さな女の子の服で、毛織の赤い生地から見るに、お祭りに着ていく晴れ着のようだった。それはたしかに、急ぎのはずだ。
「ええと――なんだっけな。えりと、すそと、ボタンにステッチだったかな」
「……言っておくけど、ボタンにステッチを入れるのは無理よ?」
幸い、どこをどう縫えばいいかは、見ればわかった。ロザンナさんの仕事のやり方は覚えている。
わたしは戸口に腰掛けを出し、針に糸を通した。小さな女の子の、真っ赤な花のような服を、ちくちくと縫う。きっと可愛らしい子なのだろう。ご両親が、高い布代を出してでも、着飾らせたいと思うくらいだもの。
座って縫いつづけるわたしのまわりを、マルコはうろつき回った。色々と邪魔してくる。
「なあマルティナ、つらら食ったことある?」
とか、
「なあマルティナ、雪に小便で絵描いたことある?」
とか。――やだ、想像させないで。
そのうちに、
「なあマルティナ、マルコってどう書くんだ?」
などと言い出したので、わたしは驚いた。
「マルコ……もしかして、名前が書けるようになりたいの?」
あまりマルコらしくはないけれど、でも、素晴らしい心がけだ。
「いんや、全然?」
あ、そう。
「でも母ちゃんが言うんだもん、マルコって書けるようになったら、銅貨一枚くれるって」
さすがはロザンナさん。マルコを動かすコツを心得ている。
「教えてあげましょうか?」
わたしは言った。
マルコが将来、お父さんの後をついで農夫になるなら、字を覚える必要はない。でも、契約書に自分の名前をサインできると、まわりから一目置かれることも確かだ。
それに、わたしとしても、小○で絵を描いた話を延々と聞かされるより、その方が楽しい。
「んー、どうすっかな。でも、むつかしいんだろ? 姉ちゃんの手紙とか、何書いてあっか全然わかんねーもん」
「たくさん書いてあるから、難しく見えるだけだと思う。ただマルコって書くだけなら、雪に絵を描くよりも簡単だと思うな」
……小〇でね。
+
――Marco
と、木の枝で雪の上に大きく書く。
「この二つ山があるのがム。丸にひげが付いてるのがア。ちっちゃな尻尾が生えてるのがル。猫の背中みたいなのがク。最後の丸がオ。……続けて読むと?」
「むあるくお」
「もっと急いで」
「むぁるくぉ」
「ほらね」
「ふーん」
マルコは少し感心した様子で、むあるこ、むあるこ、と繰り返した。そしてぱっと顔を輝かせ、
「よし覚えた!」
と叫んだ。いやいやいやいや、待ちなさい。
「まだ駄目よ。なんにも見ないで、自分で書けないと」
ええー、とマルコは不満げな顔をした。
「もう覚えたんだからいいじゃんかー」
いや、ダメだと思うな。
「見ながら五回、見ないで五回、書いてみたら? それで五回とも間違わないで書けたら、覚えたってことにしてあげる」
「めんどくせえー!」
ぶうぶう言いながらも、マルコは木の枝を手に取った。わたしが書いたお手本の下に、よれよれとした字を綴りはじめる。Marco、Marco、Marco、Marco……。
「じゃあ、次は見ないでね?」
無理だろー、と言いつつ、真剣な面持ちで木の枝を握るマルコ。
「二つ山がム、丸にひげがア、尻尾がル……あーくそっ、間違えた!」
「頑張れ!」
Marco、Marco、Marco、Marco……。
「――書けたぜ!」
枝を放りだして叫ぶマルコ。
「やったあ!」
つられて声をあげるわたし。
「これで銅貨一枚だぜ!」
そう言って胸を張ると、マルコは雪一面に書かれた自分の名前を見渡し――ぱあっと顔を輝かせた。
「なあマルティナ、雪に小便でマルコって書けたらすごいと思わねぇ!?」
――ああ、うん、それは確かにすごいね。
でもお願いだからやめて。想像しちゃったじゃない……。
お昼前に、マルコは家に帰った。台所に、彼の分のジャムつきパンがあるのだそうだ。
そしてお昼頃、アルベルトさんが帰ってきた。溶け始めた雪を、サクサク踏みながら戻ってくる。わたしは笑顔で言った。
「あ、これ、マルコに教えてあげていたんです。自分の名前が書きたいって言うので――」
アルベルトさんは、最後まで言わせなかった。雪面を見るなり顔色を変え、古びた靴で、あたり一面を踏みはじめる。
「えっ……」
わたしは呆然と、その姿を見ていた。雪を踏み歩くアルベルトさんを。マルコの書いた字という字を全部踏み消すと、アルベルトさんは戻ってきた。そして、わたしの両肩をつかみ、揺さぶるようにしながら、強い声で言った。
「こんなことは二度とするな!」
「えっ……」
なんで、と、わたしは言ったのだと思う。
アルベルトさんはわたしの肩を離すと、吐き出すように答えた。
「……あんたは旧教徒だろう!」
そうして、くるりと踵を返すと、小道を戻っていってしまった。
+
楽しみだったジャムつきパンは、喉を通らなかった。
だって、アルベルトさんに怒鳴られたのだ。
わたしは落ち込み、ぐずぐずと泣き――白状する、相当長い間泣いた――きれいな赤い生地に染みを作らないよう努力しながら、べそべそと縫い物を続けた。
何より、アルベルトさんが急に不機嫌になった理由がわからないのが、こたえた。
いや、ちがう。
理由は言われた。
あんたは旧教徒だろう。そう、言われた。
でも、これまで、アルベルトさんが、お屋敷の人たちのように、旧教徒を嫌がる素振りを見せたことは、一度もなかったのに。
でも……もしかするとアルベルトさんも、旧教徒の娘なんか引き取るのは、嫌だったんだろうか。
これまでは、わたしに気を使って、その気持ちを隠していただけなんだろうか。
この国で、旧教徒の女性が、『不信心』とか『魔女』だとか、『ふしだら』なんて言われて、嫌われていることは知っている。男の人だけじゃない、ときには女の人までが、そんなふうにわたしたちをさげすむという。
尼僧院にいた頃は、それがどうしてなのか、わからなかった。わたしたちは全然、ふしだらなんかじゃないもの。
でも、ここに来てみてわかった。
逆なんだ。
わたしたちが、『ふしだら』なんじゃない。わたしたちが、『誰とでも寝る』訳じゃない。
わたしたちが逃げられないのをいいことに、わたしたちに狼藉を働くのは、あなたたち、新教徒の方。
でも、わたしたちが悪いことにしておいた方が、楽だから。罪深いわたしたちなど、罰を受けて当然ということにしておけば、自分たちの不道徳を見ずにすむから。だからそういう言い方をするんですよね?
……いつか神様が、罰を与えると思う。
尼僧院育ちにもかかわらず、わたしはそれほど、信心深いほうじゃないけれど――
それでも、いつか、神様が罰を与えると思う。
+
アルベルトさんは、なかなか帰ってこなかった。
夕方、帰ってきてからも、黙って火の前に座っていた。
わたしも何も言わなかった。悲しかったし、怖かったし、腹が立ったし、不安だった。
そう、不安だった。アルベルトさんに嫌われたら、わたしにはもう、誰もいない。何もない。
でも、本当は。本音では。アルベルトさんだって、わたしの面倒など、見たくないのかもしれない。あるいは――わたしが旧教徒でなかったらまだましだったのにと、そんなふうに思っているかもしれない。そうじゃない理由が、どこにあるだろう。
それでも、たとえそうだとしても、わたしは、アルベルトさんに頼るしかないのだ。
それが、わたしの負い目だった。わたしの……不安だった。
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