虹をくぐる鯨

上海公司

第1話

「名古屋市中村区名駅前上空に大量のイワシが出現。現在住民の被害は確認されていないが、念のため直ちに現場へ直行願う。」


「了解」


 無線機からの上官の呼び掛けに大島は答える。大島は機体を右に傾けてから、操縦席の右側にある方向舵ペダルを踏んだ。

大島の乗る偵察機は大きく旋回し、名古屋駅上空を目指した。


 機体の下には分厚い雲海が広がっていた。きっと雲の下は雨が降っていることだろう。灰色の雲海を縫うようにして機体は空を飛び、数十分と経たずして名古屋駅上空へとたどり着いた。


 大島は機体を旋回させながら高度を落としていく。

 なるほど、たしかにこれは危ないかもしれない、と大島は感じた。

 名古屋駅JRゲートタワー 上空では、何十万匹はいるであろう鰯の大群がギラギラした白金色の巨大な球体になって、激しく脈打ちながら移動していた。

コックピットから地上の様子は見えなかったが、きっと今頃街ゆく人々は鰯の大群に向かってスマホを向け、SNSに動画を上げていることだろう。


 今の高度なら問題はないだろうが、イワシの群れが何かのきっかけで地上に近付いてしまっては人々に危害を加えるかもしれない。その前に人のいないところにこの大群を誘導しなければいけない。ここからなら南西にある伊勢湾辺りがいいだろう。


「大島!お前の機の後ろにいるぜ。しかしありゃあなんだ?デケェイワシの大群だなぁ!?どうぞ」


無線機から同期の高橋の声がする。


「高橋、伊勢湾上空に誘い込むのがいいだろう。

オレは時計回り、高橋は反時計周りで頼む。どうぞ。」


「オーケー。今日の晩飯はイワシの煮付けだぜ!

ん、ちょっと待て、なんだあれ?イワシの大群の影になんかいるぜ。どうぞ。」


 高橋の言葉に大島は目を凝らしてイワシの大群を見る。ギラギラと光る鰯の大群の合間に、黒い影。


「サメ……、いや、イルカだな。何匹かいる。」


 イルカはざっと見ただけでも3匹以上はいた。鰯の大群からつかず離れず灰色の空を泳ぎ回り、群れの流れから逸れたイワシを狙っている。


「高橋、急ごう。」


大島は無線機に向かって言う。


「OK、相棒。」


 両機はほぼ同じタイミングで、それぞれ反対の方向へと加速した。イワシの大群を囲うように大きな円を描いて飛ぶ。大島は自分の右手にあるスイッチを押す。これは最近になって偵察機に取り付けられたスイッチで、魚を誘き寄せる超音波を発する。


 鰯の大群はその瞬間、大きく波打ち動きを止めた。もちろんイルカも超音波に反応して、ほんの少しの間動きを止めたのだが、すぐに再び動き始め数匹の鰯が餌食となった。


 大島は南東の方角へと舵を取る。鰯は一斉に向きを変え、伊勢湾上空へとゆっくりと動き出す。

イルカは食事の気が済むと、高い声で鳴きながら曇天の雲の中へと散開していった。


「へい相棒、今回もうまくいったな。どうぞ。」


無線から高橋の声が聞こえる。


「まだ油断するなよ。こいつらを伊勢湾上空までしっかり送り届けないとな。」


 海の生き物は最近になって、海に住むのをやめてしまった。そのかわりに空で生活をする様になった。


 どうして鰯やイルカが急に空を泳ぎ回るようになったのか。そんな事は分からない。世界中の研究者がその原因を必死になって探っているがきっと解明するには何年もかかるだろう。


 大島達に与えられた任務は日本の空の安全を守る事だった。空に魚が現れてからというもの事故が後を絶たない。中には人命に関わるものも少なからず含まれていた。


 東京の一部の領空では、地上に近いところでホオジロザメが何匹か目撃されて、その地区はたちまち封鎖された。


 ついこの間は空で暴れ泳ぐバショウカジキが発見された。そいつは澄み渡る青空を悠々自適に泳いだ。それだけなら問題はないのだが、バショウカジキの速度は時速100キロにも及ぶという。さらに尖った吻を持っているので、さすがにそんなものが旅客機に当たりでもしたら大惨事であろう。そういうわけで先日大島は青い空の下でバショウカジキと追いかけっこをした。大島の偵察機は最速でマッハ3まで出す事ができるので結果はもちろん大島の圧勝であった。バショウカジキに超音波をお見舞いして、太平洋の沖の方の空まで追いやってやった。


 しかしそんな事をした日には、自分が海にいるのか空にいるのか分からなくなる事があった。 


 世界がこのように変わってしまってから、大島達パイロットは休む暇もなくあちこち飛び回っていた。

 仕事が増えるにつれて、家族と過ごせる時間はどんどん減っていった。大島には妻と3つになる娘がいた。何より家族との時間を大事にしたいと本当は思っている。しかし、大島達パイロットにはその時間さえも殆ど与えられなかった。


 パイロットは孤独な仕事だ。無線で上官や高橋のような同僚と話す事はあるが、それでも物理的な距離は離れている。もちろん、自分から志願してパイロットになったのだが、士官学校に通っていた時は、まさか将来自分が魚を追い回す事になるなんて思いもしなかった。

 世界の在り方が変わってしまってからというもの、なんだか疲れる事ばかりだ。


「ヘイ兄弟、鰯どもは大人しく伊勢湾に向かってるようだな。それよりよ、どーも天気が崩れそうだぜ。見ろよ。雲が真っ黒だ。どーぞ。」


 たしかに雲行きは覚束なかった。先ほどまで薄く、石灰色をしていた雲は徐々に黒黒としてきた。


「たしかに、こりゃひと雨来そうだな。早いとこ基地に戻って……」


「あぶない!」


 高橋の声に大島は瞬間的に身の危険を感じ、機体を右に旋回させる。

 大島の機体があった所に少なめに見て全長150センチはあろう謎の魚が突進してくる。


「危ない。なんだこいつは。」


「ロウニンアジだ。まずいぞ。雲に隠れて気づかなかったが、こいつら群れてやがる。さてはさっきのイワシの群れを狙ってやってきやがったな。水鳥と間違えて食われちまうぞ。」


 高橋は無線で怒鳴りつつ、すでに方向を変えてロウニンアジの群から離れようとしていた。大島も高橋に続いて、時計周りに旋回しながら雲の中へと高度を落とす。鰯の群れから離れてしまう事になるが致し方ない。ロウニンアジの群れが去るまでは距離を取るほかない。


 雲の中は激しい風と雷が巻き起こっていた。もやもやとした黒っぽい雲のせいで視界が悪い。

大島は高度をさらに落とし、雲を突っ切った。雲の下は激しい雨が降っている。


「大島!うまくロウニンアジを撒けたようだな。やつらはオレらの頭上40メートル。雲の上だから、もう追ってこれねえだろ。鰯の大群は南西に1キロあたりのところにいる。ちょうど熱田区の上ぐらいか、どーぞ。」


「まずはイワシの群れを伊勢湾まで送り届けるのが最優先だ。速度を上げてイワシに追いつこう。ロウニンアジはその後だ。どーぞ。」


「了解。」


 大島と高橋は機体の速度を上げる。高橋の言った通り、鰯の大群は指示系統を失いうねうねと形を変えながら動いていた。もともと鰯の大群にはリーダーが存在していないと聞いたことがある。餌を食べたり、敵から身を隠したりする時以外はイワシ達はただ目的のない遊泳をしているだけだ。


 大島と高橋は牧羊犬のごとく左右から鰯の群れを挟み込み、鰯の聞覚センサーを狂わせる超音波を偵察機から発射した。鰯の大群は時にぶつかり合いながら、徐々に二機の偵察機に先導されるように動き始める。

 大島は大雨で波が昂り、あちこちで白いしぶきを上げている伊勢湾を視界にとらえた。


 その時だった。今まで黒く、閉ざされていた雲から一筋の陽光が差し、荒れた海の一角を照らした。


「雲が動いてる!」


 無線から高橋の声が聞こえる。それは大島に呼び掛けているというよりも驚嘆の声だった。

すぐ真上にある雲を見ると、たしかにそれはゆっくりと形を持って動いていた。


「違う。雲じゃない。鯨だ。」


 それは体長が15メートルはあるだろうと思われる巨大なクジラだった。そいつは大島の機体の真上にをゆらゆらと泳いだ。クジラが泳いだ道は雲がはけて、西に傾いた太陽が伊勢湾とクジラと二機の偵察機、それから鰯の大群を照らした。雨上がりの空には大きな虹が掛かる。クジラはまるでその虹を潜り抜けていこうとするかのように泳いでいた。美しかった。


 大島が知らぬ間に世界の構造は変わってしまった。

慣れない仕事が増えて、家族と過ごせる時間も減ってしまった。それなのに、大島は今のように美しい光景を目の当たりにする度、この仕事をしていてよかったと思った。

どんな時代であっても日本の空は美しい。だから自分はこの空を守りたいのだと心から思った。


「よう、相棒。いい眺めじゃねぇか。」


「ああ、全くだ。」


「はえーとこ鰯どもを伊勢湾に追っ払って、今日は早めに帰るとするかぁ。」


 そうだ。帰ったら娘にクジラの話をしてあげよう。

空をゆったりと泳ぎながら、虹をくぐるクジラの話だ。クジラはそれを了解するかのように、空に向かって大きく鳴き声を上げた。




















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