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牧野の戦いと殷の滅亡については、
当時殷が東方の経略に労力を費やしてたとの話を聞いて以降、個人的にノルマン・コンクエストなどを連想する様になっています。
三者の内、最後に出てきた者が漁夫の利を得た感じの所が、です。
周が東方を扇動していた辺り、周を推す人達なら計略を称えるのでしょうが、個人的には腹黒さの方に否定的に捉えてしまいます。
その解釈から、再現劇の姫発はもっと陰湿に描いて欲しかったな、とも。
妲己の悪女伝説については、以前のNHKの番組の影響でしょうが、
・婦好の存在に代表される様に、殷では女性が比較的活躍していた
・周以降の女性蔑視傾向の強い中華世界だと、上記の風習は嫌われた
(有能で主体的に活躍する女性は、悪女扱いされる印象があるし)
・その嫌悪感が、妲己の存在に集約した
といった感じに受け止めていました。
それが一連の記載、特に『妲己の立場』と『紂王が人身御供を取りやめた』の説明辺りから、
妲己らが(その革新性から)殷社会でも反感をかってた可能性を考えさせられ、なる程と思った次第です。
そこで連想したのが、日本の戦国史だと武田勝頼でした。
有能で、革新を推し進め、その革新も成功を収めかけてたけど、旧来の人達からは反発を買い、
そして内だけでなく周辺にも敵を作り過ぎて、成功から一転滅亡に至った
といった辺りが。
紂王と妲己の話しは残念ながらこれでお終いですが、
また従来イメージを覆す、新たな視点での話を期待しています。
作者からの返信
ご感想ありがとうございますー。
殷(商)って、創世神話の成り立ちや戦争の形式が、中央アジアの騎馬民族と共通点がある事が指摘されており、あのあたりの騎馬民族って女性の権力が古来から強いですからねぇ。
その意味では、上記のような「農耕民族の価値観で不当に悪女扱いされた」って部分も充分にあり得ますよね。
あと今作では言及しきれなかった所ですが、物々交換の時代から(貝殻や宝飾品を使用した)貨幣経済へ移行させたのも殷(商)なんですよね。
(物の売買を仕事にしている人を指して「商人」と呼ぶのは、そこが語源)
実はその辺も、早すぎた革新のひとつで、周辺の国々が困惑した挙句、大邑商に富が集中してしまったのも反乱のきっかけになったという説もあったり。
まぁ史書の時点でほぼ寓話化した話しか残ってない時代ですから、考古学的な遺物から推測するしか無いところではありますがw
ドキュメンタリー番組風な変化球スタイルのタイトルでしたが、お楽しみいただけたようなら何よりです。ありがとうございました!
封神演義が好きです何度も読みましたが、なるほどと思う一説でした。
勝てば官軍とはよく言ったものですが、敗者が負けた後悪く言われたり過剰に話が作られたりは、よくある事ですものね。
(新撰組の沖田総司も美青年説は歌舞伎などの創作の方が有名になってしまったからな訳ですし)
更には中華ファンタジーであった、創作が有名になって仕舞えば、殊更に史実は捻じ曲がってしまった可能性もありますね。
大変興味深く、面白い話でした。
作者からの返信
特に文王や太公望は、儒教において神格化されちゃってますから、長く続いた儒教社会においてその正義に疑問を持つこと自体がタブーな空気だったでしょうからねぇ。
旧約聖書のモーゼなんかも、悪逆なエジプトの支配からユダヤ人を解放した大聖人ですが、同時期のギリシャの記録には「配下のユダヤ人を率いてエジプトで好き放題に暴れ、ファラオから追放されたオサルシフォスという男」という記述があり「これってモーゼじゃね?」って度々言われても、ユダヤ・キリスト教系からは「ありえん。別人」と門前払い状態で無視し続けられてますからねぇ…w
1万文字短編、自主企画にご参加いただきありがとうございます。
昔の中国の歴史というと三国志を少々――くらいの知識しかなかったので、この殷王朝の話は大変興味深く読ませていただきました。
歴史の伝えられ方は、どこの国でも偏ったイデオロギー的なモノがある気がするので、『これが人伝に歪んで――』というところは納得でした。
作者からの返信
ご感想ありがとうございますー。
この殷周革命で、紂王と妲己を打ち倒した、周の文王・武王の親子や、彼らを支えた太公望というのは、後に儒教において聖人にされ、そんな儒教が歴代中華王朝の背骨になったというのが影響が大きいんですよね。
この辺は『旧約聖書』の出エジプト記に登場する「暴虐なエジプトのファラオに虐げられていたユダヤ人を解放し、エジプトから脱出させた聖人モーゼ」にも類似する話があるんですよね。
同時代の第三者である古代ギリシャの碑文に「エジプトにいたヒクソスの民を扇動して略奪を働き、イスラエルに立ち去ったオサルシフォス」というのが出てきていて、それがモーゼと同一人物だとするとエジプト側が一方的な悪とも言い切れないわけですな。
※当然ながらユダヤ教会なんかは「それはモーゼではない!」と否定していますがw
どちらも宗教の出発点になる聖人を否定するわけにはいかないという事情から、対立側は絶対悪じゃないと困るっていう点で共通なんですよねぇ。
紂王と妲己が実は善人だったというのは、まさに小説の醍醐味ですね。
時代を先取りし過ぎるのは大多数の理解を得られなくて孤立しがちですし。
それに周を正しいとする強力なプロパガンダを唱える人が後世に出現しちゃったというのも影響しているかもしれません。
作者からの返信
ご感想ありがとうございますー。
何しろ西周時代を理想としている儒教にとって、文王や太公望は、それこそユダヤ教やキリスト教におけるアブラハムやモーゼくらいの神聖不可侵なわけですからねぇ。
そんな儒教がその後ずっと中華文明の主軸になるわけですから、近代に至るまで殷の紂王と妲己は、悪魔ポジションでいてくれないと困るって事なんですよねw
こんにちは
拙作にも、ほんの少しだけ妲己にふれ、
その眷属を登場させていますが、
やはり通り一辺倒の「悪女」「九尾の狐」
の扱いしか思い浮かびませんでした。
井沢元彦の「逆説シリーズ」が好きで
読んでいましたが、それを彷彿とさせる
逆転の発想、面白かったです。
作者からの返信
ありがとうございますー。
いやいや、創作においてパブリックイメージ通りで出すのは、むしろ王道ですからねぇ。
例えば、魔王感マシマシな織田信長とか、いつも通りですが「いよっ、待ってました!」って反応になりますからw
特に死後の「神霊」としての扱いで登場するなら、生前の実態とは別に、後世の人間から「こうあれ」と願われた姿へと変貌するって考え方もありますし、余計にOKだと思います。
※生前に恐れられた人をあえて祭って守護神に転じてもらうとか、単に歴史上の敗者というだけの人が、敵対者の子孫に祟り神として恐れられるとか。