ニィ

「おはようございますギル様。」

「ああ。おはようミル。」


朝の挨拶をしてきたミルに挨拶を返すと、うーんと腕を上に大きく伸ばす。

窓はほんの少し隙間が空いていて、そこから入る風がカーテンを靡かせる。カーテンの隙間から漏れる朝の日差しが気持ちいい。この世界では名前こそ違うが太陽みたいな惑星が宇宙に存在する。


ミルは獣人族の少女で俺より一歳年下の15歳。奴隷として売られていたところをたまたま奴隷市場を見かけた俺はミルを購入した。


ミルは大きな耳がついていて、お尻から柔らかそうな毛に包まれた尻尾がぴょんと生えている。全身が人間とは違うふさふさな茶色の毛に覆われていて人の居ないところでたまに毛繕いをしている。恐らく犬の獣人族だと思う。


この国の奴隷は強制労働で使っても自らの性事情に使ったとしても問題ない。実験に使ってもいいし、肉壁にしてもいいし全ては購入者の思いのままとされているが、俺はミルを労働者兼家族の一人として購入した。


ミルは俺の見回りの仕事をしてくれるのだが、月に一度それなりの給料を支払っている。最初給料を払った時は心底驚かれたが、給料を払わなければ恨まれてしまいそうで怖いし、何よりモチベーションに繋がると思ったからだ。

後は一日に三度の食事と週に二日休みを設けている。

食事と休みは人生にとって大切なものだ。休みと食事という基盤がなっていないと上にどんな物も置くことが出来ない。


それについて俺は一つ文句がある。

料理がとてもじゃないが食えたものじゃないのだ。


料理は美味しくあるべきだと思う。料理というのならば。

だがこの世界の料理は下処理が全くされていなかったり、大きさやら形やら適当に切られ、腐っている物も平気で食し、食器や料理器具を洗ったりせずにそのまま使い回しにするのだ。

この世界の人々は料理に娯楽を求めておらず、排泄行為のように習慣として体内に食べ物を取り入れているという状況なのだ。何処の店に行っても調味料が売ってないことに俺は絶句した。中華料理や西欧料理に似た食べ物があるが似てるだけで下処理の施されてない料理は美味しいと言えなかった。自由に料理を作れず離乳食を無理矢理食べさせられていた頃は一番地獄だったと思う。


そういう訳で俺は料理を自分で作っている。貴族になって自分で料理を作るとは思っていなかった。経験値が溜まるので別に悪くないが。


「それじゃあ今日も何か朝の料理を作って下さい。私はご主人様の料理が大好きです。」

「うーん。何か要望でもあるか?」

「ええと……あっ!? あのふわふわしたとろとろの黄色い奴がいいです!! 赤い血のソースみたいなのを付けて前食べたあれです。えーと名前は……」

「……もしかして、スクランブルエッグのことか? 」

「そ、それです。あれ作って下さい。」


ミルの言う赤い血のソースとは俺が自作したケチャップだろうが、俺の作ったケチャップはそんな風に思われていたのか。

一応…ケチャップ作るのに三年掛かったんだけどな。


ケチャップを作るのに多大なる時間を掛けた俺は訂正して欲しかったが、ミナの上下に激しく揺れる尻尾を見て口に出すのを止めた。


スクランブルエッグなら5分もあれば作れる。

後は野菜のスープでも作るか。


「……そういえばミルも大きくなったなぁ。出会った時はあんなに小さかったのに。肉もついて女性らしくなってよかった。」

「なっ!? 何言ってるんですかギル様。そ、そりゃあ私も昔に比べて色んなとこが成長しましたけど………って何言わせてるんですか!! 」


顔を紅くしながら背伸びをして俺に立ちはだかるように前に出るミル。その表情は怒っているというよりかは、恥ずかしいような嬉しいような感情が混ざりあったものだった。

ベシ。ベシ。ベシ。ベシ。先程よりも大きく上下にはち切れん程ゆれている尻尾がベシベシと脚に当たる。これがまたくすぐったい。最初出会った頃は男の子かと思ってしまった貧相だった体も、今ではおへその辺りから腰まで滑らかに肉が付き胸の辺りの生地が大きく膨らんでいる。


………本当に大きくなったなぁ。


俺がミルを買ったのは、今にも死んでしまいそうな程衰弱していたというのもあった。

ボサボサの艶の無い髪に痩せこけたもやしのような体。皮と骨しか無いような体であまりの脂肪の無さに骨が皮膚の上からくっきりと分かった。今ではそんなこと思い浮かばない体になってしまったが、実にいいことだ。


ミルの艶のある髪に手を入れて、そのまま髪を傷めないように優しく梳かす。髪に入れた手はすんなりと櫛を使った時のように髪を進み、滑らかに髪の中を流れていく。

張りのある髪を梳かすと何だか無性に心がリラックスする。

ミルの髪を梳かすのはミルが十五歳になってからはしてないが、それまで毎朝俺がミルの髪を梳かしていた。


一年振りに髪を触られて慌てた素振りを見せるミルだが、梳かされると分かるとピタッとその場で止まり目を瞑りながらギルにその身を預けた。女性なのだからという理由で15歳以降中断された髪を梳かすことは、ミルにとって幼い頃からのリラックス出来る瞬間だった。今は居ない母親もギルのように自分の髪を良く梳かしていて、ギルの髪の梳かし方はどこかミルの母親に似ていてどこか安心感があったのだ。


ふんふんふーん。

ミルの尻尾はしっかりと力強くギルの脚に絡みついていた、


「久し振りにミルの尻尾に絡まれたな。そんなに嬉しかったか。髪を梳かされるの。」

「そ、そんなこと乙女に聞くのはナンセンスですよギル様。」

「それで、実際のところ嬉しかったのか?」

「………はい。とても嬉しかったです。」


意地悪く聞いてみたところ、消えるような声でそう呟いた。そして、紅くなった顔を隠すように下を向く。


やはりミルは可愛い。揶揄い甲斐があって、こうした反応を見ると癒される。兄に成長してもなお甘え続ける妹の典型的な例のように思える。ミルをあの時買えたのはこの世界での一番の幸福なことかもしれない。


……にしても、この顔で良く好かれたものだ。自分で自分自身の顔を見ても気持ち悪いなと思うのに。やはり人間は顔だけじゃないということだろうか。

そんなことをギルが思っている間も、ミルの尻尾はしっかりとギルの脚に絡まりついていた。


「ここで立っていても時間がどんどん過ぎていくし、早く料理を作りにい行かないか? このままだと料理を食べる時間が減ったり、学園へ急いで行かなければいけないかもしれない。」

「ふふん。ご主人様が私のことをリビングまで連れてってくれるならいいですよ?」


意地悪くやられてしまったのでさっきの仕返しだと、こっちも意地悪く悪戯してやろうとミルがギルに甘えるようにして言った。別にギル様に意地されるのは嫌いじゃない。むしろどちらかと言われれば断然好きと答える。でも私もご主人様が私に悪戯したように、ご主人様に悪戯をして反応を見てみたいのだ。

十五歳になって女性になったのだから止めようと髪を梳かすことを止めたギルなら恐らく乗ってこないだろう。そうすれば私の思うようにもう少し体を預けていられる。よし。完璧だ。


しかしギルは一切の躊躇なく膝を落とすとミルの太ももの下に手を入れて、そのまま抱えるようにして持ち上げた。体感にして0.5秒。所謂お姫様だっこという奴だが、気付いた時には既にミルはギルの腕の中に居た。


わなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?


「それじゃあ言われた通りリビングに連れていくからな。可愛い可愛いお姫様?」

「わぁー!? うぅ……離せ離せ離せ離せ下ろせ下ろせ下ろせ下ろせぇー!!」


意地悪くした結果返り討ちにあい、一度もされたことの無いお姫様だっこでリビングまで連れていかれるミル。まさに完敗であった。

お姫様だっこで運ばれている間、口では嫌がる様子を見せるものの尻尾はギルの首に強く巻き付いていて、内心喜びに満ち溢れていた。


リビングまでお姫様だっこでミルを運ぶギル。照れ隠しで反対の事を言うミルに目を細めながら、その内心尾籠なことを考えていた。


前世含めて成長した女性の太ももを触ったことはないが、こんなにも柔らかいんだな。


ミルの体は男の体と違ってやはり女性のなのか丸みがあって柔らかい。やはり男と女性は全然違うのだなと理解する。しかし、手で支えている太ももはパン生地のような弾力がありモチモチしていて張りがあり、人肌で温かくーーー簡単にいうならば凄く官能的だった。


……悪戯目的で思わずお姫様だっこを始めたが、何だかこっちが恥ずかしくなってきた。


ギルは前世一応社会人として半年近く働いたが、凄く初だった。

性的なことに関して興味はあったが、実際に経験したことはなく未知の世界だった。その為そういうことに関する耐性など殆ど無かった。

ポーカーフェイスなど出来る訳もなく、思ったことがそのまま表情に出た。


可愛いですねギル様。そんなに顔を紅くしちゃって。このこの。


お姫様抱っこされることにミルは照れながらも、ギルが表情を紅くしたことを見逃さなかった。ギルはいつもクールで優しいことが多いので、顔を紅くするというのはレアな光景だった。

ギルの可愛さにミルは自分の尻尾を使ってギルの首元を擽っていた。


ううっ。


やばい。めっちゃ可愛い。

ギルが擽ったいのを耐えるような声を出すと、ミルはその声に興奮を覚えた。ミルは被虐心も持っていたが、加虐心も持っていたのだ。もっともっと必死に耐えている声が聞きたいと尻尾を上手に操り首のあちこちを擽る。


リビングにつくまで、ギルはミルに弄ばれることになった。



リビングについたギルはミルを椅子に優しく座らせた。その様子は少し恥ずかしげで、ミルはお姫様だっこを継続するように反抗したが簡単に座らせられてしまった。


「やっぱりご主人様って強いんですね……」

「何か言ったか? それじゃあご飯作ってくるから、そこで大人しくしているんだぞ。」


ミルは思わず口を抑えると、聞こえていなかった様子のギルを見て内心ほっと息をついた。

何やら耳までも紅くした様子で調理場へ向かうギルを見てミルは自然と頬が緩んだ。


ギル様に言われたように私も色んなところが成長しましたね。


自分の胸元を見ると数年前では想像も出来なかった程の豊かな双丘が存在していた。これが自分の物だとは今でもあまり現実感がない。全ては手厚く保護して支えてくれたギル様のお陰だ。


そんなギル様を私は慕っている。私はあの方の優しさによって憎しみに覆われていた希望など見えない世界から抜け出すことが出来た。私を見つけて、私に手を差し伸べてくれたのはあの方だけだ。


慕っている私が言うのもなんだがあの方の顔はあまり整った顔立ちをしていない。そのせいで彼はナハネス家から追い出されて、ナハネス領の端っこの小さな家で私と過ごすことになっている。私としては彼と二人きりで生活している今をとても幸せに思っているが、もうすぐで私は居なくなってしまう。もって後五日というとこだろうか。


彼は私と暮らす日々を幸せそうにしているが、私が居なくなっては寂しい思いをすることになるだろう。私としても彼とは一緒にずっと居たいのだがそれをあの方は許してくれないだろう。彼はその顔のせいで友人は誰一人居ない。だからどんなお金を使ってでもいいからお金を叩いて新しい奴隷の女の子を買って欲しい。そうすれば彼は一人ぼっちになることはないだろう。彼の性格なら直ぐにその子と仲良くなれると思っている。彼は貴族なので生憎奴隷を一人二人買うお金は所持している。


だが、彼が他の誰かと二人きりで仲良く生活していることを想像して嫉妬する私はそのことを伝えることが出来ずにいた。

私は、私と同じように生まれながらにして不幸な彼が幸せになることを恐れているのだ。

そんな光景を見れば希望溢れるこの世界に絶望し、より深い憎悪や厭悪に満ちた世界に墜ちてしまうからだ。


死んでしまった母は私に言った。

『今後の貴女は生きることを諦めたくなるような酷い地獄を見ることになるでしょう。それも天変地異が起きた方がマシと思えるような。しかし、神は地獄だけを与えるような狭量な者ではありません。酷い地獄を与えた分これでもかという程の祝福を与えてくれる筈です。ですので、どうか生きて、祝福を享受出来る時になるまで何とかして生きるのです。』と。


地獄のような日々を奴隷の頃受けた私はギル様に救われた。

母が言う恐らく地獄のような日々というのは私が捨てられて奴隷になってからの日々。祝福を享受する時というのは、ギル様に救われてからの日々のことだろう。


だが地獄というのは、終わらないからこそ地獄というのだろう。

母の話には続きがあると思う。


『祝福を享受した日々を過ぎた後には、また地獄が訪れます。一生分の祝福を享受した貴女にはとてつもない地獄が訪れますがそれが最期の地獄です。最期の地獄の後に地獄が続かないことが二つ目の多々なる祝福なのです。』という言葉が後に続く筈だ。


私は、普通に生活することの出来ている者達が憎い。

何故私が。どうして私だけと考えたのは、1日たりとも疎かにしたことはない。

しかしそうした憎しみは、ギルが、ギル様が簡単に何処か遠くへと飛ばしてくれる。ギル様と一緒に話をするだけで。ギル様と一緒に笑うだけで。ギル様と一緒にご飯を食べるだけで。ギル様の腑抜けた寝顔を見るだけで心を渦巻く黒い感情はぱっと消え、代わりに暖かい感情が心の中に浮かぶ。


先程あんなに興奮を覚えさせてくれたのも、ギル様だったからだ。ギル様と居られる時間は後数十時間も無いというのに、この数日間の間に起きるであろう地獄のことを忘れ、あんなにも心踊る気分になれたのはギル様だったからだ。


ああ。神よ。

私は生まれてこの方あなたが大嫌いですが、一つだけ深く感謝しています。

それはギル様と出逢えたことです。


私が地獄の日々を送ることを決めたのもあなたですが、ギルと逢わして下さったのもあなたです。 あなたは母が言うように狭量な御方ではありませんでした。


ミルがギルが居なくなったことで再び地獄の門を開き地獄に戻ると、ギルが作り立ての料理を皿に盛り付けた物を持ってミルに近付いた。


「おいおい。そこでうずくまってどうしたんだミルらしくないな。何か悩み事があるならそこに居ていいが、何も無いなら運ぶのを手伝ってくれ。」

「何でもないです。手伝わせて下さいギル様。」

「無理はするなよ。手伝ってくれてありがとうな。」


ギルは目を細めながら優しくミルに感謝を伝えると、調理場へ向かっていく。

ギルに感謝され、不思議と先程まで考え込んでいたことが気にならなくなったミルは、置いてかないでと涙目を浮かべる幼子のようにギルの元へ走っていく。その様子は依存。まるで無くてはならない臓器のような存在が、ミルにとってのギルだった。


ミルはギルに付き従える今の状況に自然と目を細めると、ギルに渡された食事をどんどんと運んでいく。ミルのそんな様子を見てギルも頬を柔らかくした。


少ししてテーブルの上に食事が並ぶ。短時間で作られた物だが、ギルの鍛えられた料理技術で作られた料理はさぞ豪華に見えた。


そんな食事を目の前にミルはギルを見ながら心に呟く。

こんな日々が続けばいいのに。

どこか儚げな目をしたミルはギルの作ったスクランブルエッグの一部をスプーンで掬って口の中に放り込む。スクランブルエッグはギルが初めて彼女に与えた料理の一つ。思い出深い料理を口にし、ミルは心の中がほんのりと暖かくなった。


儚げな目をしながらも美味しそうに料理を口に運ぶミル。その様子はまるで一枚の絵のようでどこか神秘さを感じさせるものがあった。

しかし神秘さ故か、そんな様子を懐疑的な目で見守るギルにミルは料理に夢中で気が付かなかった。


ミルが思ったようになるかどうかは、全ては神のみが知ること。

どこか儚げに見える一輪の花は強い風が吹けば吹き飛ばされてしまう程全身が弱っていたが、強い風は吹く様子は無く邪気の無い太陽が湿った雲の隙間から覗かせていた。


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