Op.1-41 – Improve
光が自由即興演奏を開始してから2分ほどが経過し、その中で1つの物語を紡ぎ出していく。沙耶の出したモチーフへと繋がるイントロの創出、その後、そのモチーフを拡張してテーマを創り出し、Aセクション、Bセクションと明確な意図を持って組み立てられるその構成。
それら全てがまだ幼い、この11歳の少女が生み出していることに会場は未だに信じられないという感情で溢れかえっていた。
光が演奏する即興はまるで前々から準備されていたかのように緻密に構成されていた。
「(これまでのレッスンで何度か即興をさせてみたけど……。ここまでの完成度の演奏は無かった。あの子の中で一体何が? 直前までのことを考えればここまでの演奏、それどころか演奏すらも拒否するほどだったのに……)」
折本はこの会場の中で光の即興演奏に最も驚愕している人物の1人であった。特に彼女は直前にあった光の騒動、そしてその時の精神的な不安定さを実際に目撃していた。
発表会などで光の演奏を見た他の講師たちは折本によく称賛の言葉を並べる。その中には光の物怖じしない、堂々としたその演奏姿から『緊張せず、メンタル的に強い女の子』と言われることが多々ある。
実際、緊張せずに立派に難曲たちをこなしてしまう姿は小学生ながら既にある種の貫禄すら感じさせる。それもあってこの時に光をプログラム後半に回し、即興演奏も任せたのだ。
しかし一方で折本は、光は非常に繊細な心の持ち主であることを理解してる。これまで何度か光の発表会姿を目撃してるが、彼女の
光は微妙な環境の変化やちょっとした出来事で精神的に不安定になることが多く、それが演奏に大きく影響する。その振れ幅は大きく、この時のように演奏することすらも拒否して帰ってしまうことがある。(流石に発表会という場においてこの時ほど大きな騒動になったことは無かったものの、レッスンではこれに似た状況に陥ったことを折本は何度か経験していた)
正直、折本はこの発表会前まで光がこれまでに無いほどの素晴らしい演奏を披露してくれると期待していた。それほどまでに発表会までの1ヶ月間のレッスンは凄まじく、演奏の度に彼女の天井を更新していった。
そしてそのためのモチベーションであった父の離脱があった時点で折本は内心諦めてしまっていた。
––––今日はもう演奏することはないだろう
そう思い、残念ではあるものの今後何度もある演奏の機会にとっておこう、そう思っていた矢先だった。
突如、戻ってきた光は無言で即興を始め、その演奏は折本の想定を遥かに凌駕していた。既にベテランとなったピアノ講師生活においてここまで心が震える即興演奏を、しかもたった11歳の女の子が披露してしまった。
折本は考えるのを止めて光が紡ぐ音の物語に浸ることを決めた。
光はインプロヴィゼーションへと突入した。
そもそもこれは即興によるパフォーマンス。演奏が開始された時点でインプロヴィゼーションである。しかし、そう判断せざるを得ないほどに完成度の高い自由即興演奏を披露していた。
いつもならば技巧的に演奏する光ではあるが、この時の即興演奏はそれだけではなく、ハーモニーが考えられていた。光は小学生ということもあって複雑な音の構成について学んでいない。
また、この時はバッハ嫌いということもあって3声や4声といった内声を利用したメロディーの構築を全く知らず、聴くこともほぼしていなかった。
それでもこの時の光の即興演奏においては明らかにそうした技術も駆使されていた。ただ速弾きを見せる演奏ではなく、観衆に美しい音色を響かせ、緻密に重ねられた和音を聴かせた。
|シ♭ シ♭ ソ –|シ♭ シ♭ ファ– |
沙耶の提示したモチーフが浮かび上がる。その一瞬に光の表情が緩んだ。
先に見せた沙耶の兄・裕一郎や代表に選ばれていた2人の女子高生が披露した即興ではそのモチーフが独立して浮かび上がってしまっていた。それは少し不自然で折本の言いつけを意識するあまり、曲としての完成度が下がっていた。
しかし、光の場合、それを自然と即興に溶け込ませていた。光はわざとらしく沙耶のモチーフを繰り返すことをせずに元々そうした楽曲であるかのように即興していく。
明里は光の演奏する様子を笑顔で眺めていた。発表会までの間、明里は光に言われて指導者のように振る舞い、いわゆる"ごっこ遊び"として参加して遊んでいた。
ところが、この演奏前に自分が光に告げた、「私の即興弾いてよ」という言葉から「今日はお客さんだ」という思いが強くなり、1人の客として、光のことが大好きな1ファンとして、最大の理解者である幼馴染みとして、光の即興に真っ直ぐに向き合った。
誰かのために演奏する。この強い思いは光にモチベーションと創造性を与え、即興に鮮やかな色彩を施した。
「すごっ……」
沙耶は小さな声で思わず呟いてしまった。また、それは母である智花や父・達也も同じ思いを抱いていた。
自分が何の気もなく適当に書いた音の羅列が自分と同い年の女の子、しかもさっきまで泣き喚いていた者が信じられないような演奏を、しかも即興で編み出してしまっている。
沙耶はこの即興は自分のために弾いてくれているのではないかと感じるまでになっていた。勿論、知り合いでもないため有り得ない。そんなことは理解している。しかし、自分が出したモチーフが光の小さな手によって美しく変化していくその様子に錯覚してしまったのだ。
#####
「今村さん?」
沙耶は光の言葉に我に返る。目の前には数年前、自分が書いたモチーフを1つの作品として完成させた女の子が不思議そうに自分を見つめていた。
「あ、ごめんね。ぼーっとしとった」
「分かるよ。寒い日の朝って何だかぼんやりしちゃうんよね」
全く違う内容で勝手に理解されてしまった沙耶だが「うん、そうだよね」と適当に同意してごまかす。
光は「ホッカイロあげる」と言ってリュックの中からホッカイロを取り出し、沙耶に手渡す。沙耶は「ありがとう」と礼を言ってそれを受け取る。
光は満足そうに笑った後に前を向いて朝読書のための本の、栞を挟んであるページをめくり始める。
そんな彼女の背中を見つめながら、袋に入ったままのホッカイロを沙耶は握りしめる。勿論、熱を帯びているはずはないが、光の手の温かみがまだ残っており、数年前に信じられない演奏を披露したその手の温もりを沙耶は大事そうに感じとる。
あの即興演奏の後、沙耶は光に話しかけることができなかった。演奏前に「上手なはずがない」と決めつけていた自分を恥じる気持ちと彼女に対して抱いた憧れが緊張を生み、声をかけることができなかったのだ。
あれ以来、沙耶は再び音楽に興味を抱いた。そしてもっと近くで、音楽を通して光と触れ合いたいと感じるようになった。しかし、ピアノでは、同じ楽器ではそれは不可能。
沙耶は光の演奏する音楽が一般的に"ジャズ"と呼ばれるのだと知り、また、サックスはその代表的な楽器だと知った。
それから沙耶は「光といつか一緒に演奏したい」という思いを抱き、中学から吹奏楽部に入部し、サックスを演奏するようになり、今では知り合いの元ハヤマ音楽教室の講師の下で学ぶようになった。
––––いつかきっと
自分の目の前にある、その遠い背中を沙耶は見つめ、いつ実現するか分からない夢に思いを馳せるのだった。
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