Op.1-38 – One More View

 私と明里ちゃん、その母である祐美ちゃんと行方をくらませていた娘・光を交流センター内にある図書館エリアで見つけ出した。5階のPCルームで1人、パソコンの前で突っ伏していじけていた娘を叱ることよりも安心した気持ちの方が上回り、強く抱きしめた。


 最初は何か事件に巻き込まれたのではないかと気が気ではなかったのだが、夫・和真の不在が光の心を傷付けたのだろう。

 土曜日であっても病院へ勤務することが多い夫ではるが、月末であれば彼は休みとなる。なかなタイミングが被ることは無かったのだが、今年の発表会はそれが重なった。


 光もそれが嬉しくていつになく懸命な態度で練習に取り組み、幼馴染みの明里ちゃんや私を観客に見立てて実際に演奏するといったシミュレーションに何度も付き合わされた。


 幼馴染みの阿吽の呼吸だろうか? 明里ちゃんは光の心情を正確に予測し、光を図書館エリアで探し出し、無事にロビーへと連れ戻すことができた。


「お父さんすぐ戻るって言っとったのに来とらん!」


 その一言と泣いている光の顔を見て心が痛んだ。


「ピアノなんて弾きたくない!」


 光はそう私たちや講師の折本先生に告げ、ピアノを弾く気は無いという意思表示をしてロビーのソファーへと座り込む。


「先生、すみません」

「大丈夫よ。発表会の方は後は即興演奏だけだから。光ちゃんが落ち着くまで側にいてあげて」


 折本先生はそう優しく告げた後に会場の方へと足早に戻っていった。彼女は当時57歳。

 その包容力ある優しい雰囲気は彼女の生徒のみならず保護者からの信頼も厚い。実際、光は第2の祖母のように彼女のことを慕っており、かく言う私も母と話すように接している。


 私、光、明里ちゃん、祐美ちゃん、その夫の宏太さんはロビー奥、窓側の方へと向かって大きめのソファーが設置されている場所へと移動した。


 向かい合うように置かれたそのソファーの窓側を背にして私と光が、その向かい側に広瀬家3人家族が座った。


 私は光の手をぎゅっと握りしめ、光が何かを話し始めるまでその紅潮した顔を見つめた。

 正直に言うと、何と声をかけてあげれば良いのか分からなかったのだ。親でありながら娘にかける言葉を見つけられない自分を恥ずかしく思う気持ちが私の中で大きくなり、自信を失くしていった。


 和真は脳神経内科医で若いながらも優秀で周囲からの期待を一身に受けていた。また彼はユーモアもあり、人当たりも良いので患者や看護師、同僚の医師からも人気で毎日忙しく働いていた。


 和真は光の運動会や授業参観、ピアノの発表会といったものに参加できないことが多く、光は周囲の子供たちが両親とイベントものに参加しているのを見て少し寂しそうにしている姿に私は気付いていた。


 明里ちゃんは幼いながらもその気持ちを察してくれていたのか、光が1人になってそうした感情が沸き起こる隙も与えないほどにずっと一緒にいてくれた。

 また、明里ちゃんの両親である祐美ちゃんや宏太さんも協力してくれて光が少しでも笑顔でいられるように接してくれていた。


 光は基本的に聞き分けの良い子で、気分屋であることを除けば手がかかることはなかなか無かった。

 しかし、今日、久しぶりに和真が見にくるということで昂ぶっていたその感情が行き場を無くし、同時にそれまで溜め込んできたものが一気に決壊してしまった。


 私はこれを単なる気まぐれからくるワガママと一蹴し、叱ることはできず、寧ろ光のケアを怠った自分への嫌悪感が私を蝕んでいった。


 私も和真も基本的には光を怒鳴りつけることはしない。これは初めての子育てて叱り方がよく分かっていないという面もあったが、それ以上に私たち夫婦の中で娘と正面から向き合い、対話しようと決めていたからだ。

 

 私たち大人が怒鳴りつければ子どもは簡単に言うことを聞くだろう。しかしそれは一時の解決にしかならず、例えば光はその時、何がいけなかったのかを正しく理解できていないかもしれない。

 

 そうしたことを避けようという方針を光が産まれた時から話し合っていてなるべくそうなるように接してきた。


 この時も光の様子から自分がいけないことをしたのだという自覚はある様子だったし、私自身、光の悲しみと怒りが痛いほど理解できてどうすれば良いか分からなくなってしまっていた。


「光、まず言うことは?」


 俯いていた光は私の言葉を聞いてすぐに私や広瀬家の3人に向かって消え入りそうな、か細い声で「ごめんなさい」と素直に謝った。


 その光の素直さが私により責任を感じさせる。普段から十分に光の心をケアしてあげられていなかったことは私の落ち度だ。

 まだ幼いからと和真のしていることの尊さと難しさを理解させることを横着してしまった。


––––光ならしっかりと話を受け止めてくれるはず


 その自信はあったがどう伝えれば良いのか私には難しかったのだ。下手すれば和真と光の間に亀裂が生じてしまうかもしれない。その責任が私を押し潰してしまった。

 

 結果、この時のような大事件を引き起こしてしまった。


 光の言葉を聞いて祐美ちゃんも宏太さんも「大丈夫だよ」と優しく答え、明里ちゃんは「私が光見つけた!」と得意気に言っていた。


 私も光も「ありがとう」と明里ちゃんに礼を言い、明里ちゃんは光の隣に移動して何やら慰めの言葉をかけていた。


 明里ちゃんには本当に助けられている。彼女は光のことを小さい頃から面倒を見てくれていて、同い年とは思えないほどにお姉さんしている。光にとっても心を許せる相手ということもあって彼女に甘えているのが高校生になった今でも見て取れる。


 2人の話の合間に私は光に声をかけた。


「光、即興だけでもやらない? お母さん聴きたいな」


 光は少し黙り込み、うるうるさせた大きな目を私に向けながら答えた。


「でもお父さんいないもん」


 そう、結局のところ和真は戻ってこれていない。それはそうだ。患者の状態が大したことではなかったとしても、その後のケアなどもあるだろうし帰ってくるのに時間を要することくらいは素人の私でも分かる。


「ビデオ撮ってお父さんに観てもらお?」

「毎年撮って見せてるもん……」


 光の一言に私は沈黙する。


 そう結局のところ毎年ビデオを撮って和真に観てもらい、その度に直接観に来て欲しいと伝えていた。

 それがこの時に叶う予定だったのだが実現しなかったことで光のモチベーションが一気に下がってしまった。


 仕方がない。先生には後で謝っておこう。私がそう諦めかけた時、明里ちゃんが光に話しかけた。


「光、私のためにピアノ弾いてよ」


 光は「え?」と聞き返し、明里ちゃんはもう1度同じ言葉を送った。


「私の即興弾いてよ」


 光は少し考えた後に「聴きたい?」と尋ね、明里ちゃんは「聴きたい!」と元気に返した。


「しょうがないな〜」


 光と明里ちゃんは何度かこの問答を繰り返した後に光は少し元気を取り戻して弾く気力を取り戻した。


 いつの間にか光が上位になっていたのがおかしかったのか、私たち大人は笑い、恐らく意味は分かっていないであろう光と明里ちゃんの2人も笑った。


 すると光は顔を下げ、両手は拳を握って膝の上に置いて演奏前のルーティーンに入った。


 どうして今!?


 私の疑問を他所に光はそのままこの姿勢を続けて集中力を高め、1度冷めきってしまった気持ちを一から作り直しているようだった。


 その後光は静かに立ち上がり、そのまま一直線に会場の入口へと向かい、そこに立っていたスタッフから「まだ終わっていないので」といった言葉を無視、私たちは代わりに頭を下げながら「関係者です」と言いながら中へと入っていった。


「はい、3人とも素敵な演奏ありがとうございました! 皆さんもう1度大きな拍手を……」


 丁度、即興演奏が終わり、折本先生が締めようとしていた最中だったようで光の登場を見て先生は話しかけた。


「あら光ちゃん……」

「弾く」


 光はそれだけ言ってステージに上がり、真っ直ぐにピアノへと向かっていった。


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