Op.1-27 – Attractive

 明里は慎重にコントラバスケースを押して滑らせ、同時にネックの部分が天井にぶつからないように気を付けながらエレベーターの中へと入る。中に入った後、ベースを支えながらボタンを操作し、数字の「13」を選択し、その後に開閉ボタンを押してドアを閉じる。 


「はぁ……」


 明里はワイドデニムのポケットから携帯を取り出し、通知がきていないのを確認して少し溜め息をつき、嫌な予感が彼女の中で広がる。


––––チンッ


 ほんの数秒後、アナウンスと共にエレベーターは13階に到着し、ドアが開かれる。


「あ、明里ちゃん、こんにちは」


 目の前には丁度エレベーターが昇ってくるのを待っていた結城夫妻が立っていた。舞と和真が明里に気付いて笑顔で挨拶する。


「おじさん、おばさん、こんにちは」


 明里はそれに対して丁寧に挨拶を返し、再びコントラバスケースを斜めに傾けながらエレベーターから出ようと試みる。その間、舞は開閉ボタンでドアが閉まらないようにし、和真はベースを支えながら明里の手助けをする。


「今から明里ちゃんのお家に寄ろうとしてたのよ。この時間からの約束って知らなかったから」

「え、うちに?」


 明里は結城夫妻と共に光がいないのを確認し、家を出る時から抱いていた嫌な予感が的中したことを察する。


「(いや、まだ分からん……。頼む〜、頼む〜)」


 明里は一縷いちるの望みにかけて心の中で呟く。しかし、舞の次の言葉を無情にも明里の願望を打ち砕く。


「うん。うちの子、寝てるから家の鍵渡しとこうと思って」


 舞はそう言いながらスモーキーカラー (グレーをミックスさせたくすみ感のある色味) のハンドバッグから自宅の鍵を取り出して明里に見せる。


「(やっぱり……)」


 明里は14時半頃、光にRINEを送っていたものの、彼女からの返信がないことから寝ているのではないかと心配していたのだ。


「もう少し待っとけば良かったね。それ、運ぶの手伝うよ」


 和真はそう言って明里からコントラバスケースを受け取る。和真はコントラバスケースを持って明里が先ほどまでしていたようにネック部分を肩にかけて底の部分を前に押し出す体勢となって車輪を使って運ぶ。


「お買い物に行こうってところだったのよ。ほら月末の日曜日は『山本園』が安くなる日じゃない? あれ4時からだからそろそろ出ないといけなくて」


 舞の言う"山本園"とは『山本園の八女茶』のことを指す。八女茶とは光がお気に入りの緑茶ブランドである。光は特にこの山本園が製造している八女茶が好きで毎日のように飲んでいる。

 この緑茶は100g当たり2000円という高級品であるが、月末の日曜日、午後4時から半額セールが始まるため結城家はこの時間帯には自宅から40分ほどの場所にある『NYAONモール』へと向かうのである。


「よーし、母さん開けて」


 和真は家の前までコントラバスを運ぶとそこで支えたまま舞に鍵を開けるように頼む。舞は「はいはい」と言いながら鍵を開ける。


「あ、待って」


 和真がチャイムを鳴らそうとしたのを見て明里はそれを止める。


「後は私がするけん、ありがとう」


 明里はそう言って和真からコントラバスを受け取る。明里が考えていることを察した和真は少し笑いつつドアを目一杯に開き、明里とコントラバスを家へと入れる。


「それじゃ、お灸を据えるのは明里ちゃんに任せようかな」

「鍵は閉めるから大丈夫。勝手に上がって。お菓子なんかも適当に食べて良いからね」


 結城夫妻はそう言いながら手を振り、明里もコントラバスを置いた後に「バイバーイ」とドアが静かに閉じられるまで手を振り返した。


 ふとリビングの方へと目をやると電気は消されたままで人がいる気配がない。光が寝ていることを教えられていなければ留守であると勘違いするほどにひっそりとしている。

 

 明里は一旦、エレキベースを玄関に置いてコントラバスケースについている左右のストラップを両肩にかけて背負いこむ。天井にぶつからないように気を付けながら運び、練習部屋まで忍び足で向かう。


「(これじゃ、私の方が悪いことしてるみたいやん)」


 明里は誰もいない (正確には光はいるが) 結城家の自宅を物音立てずにこっそりと動いている様子から窃盗犯のような気持ちになる。


「(やっぱ部屋で寝とるな)」


 練習部屋でピアノを弾いているという最後の望みは見事についえて、明里は溜め息をつく。しかし、この溜め息は光に対する少しの呆れが含まれているだけで怒りは含まれていない。どちらかと言うと手のかかる妹とはこんな感じなのだろうかと寧ろ楽しんでさえいる。

 

 幼馴染みという縁もあるが、普段の光の天然さや表情が愛らしく、あまり怒る気にれないのだ。これは自分に限った話だけではなく、学校の友人や彼女の元グループレッスンのメンバーたち、明里の両親など彼女の周囲の人間もそう感じているようだ。


「まぁ、あのコンビは姉妹みたいなもんやからねぇ」


 中学生の頃だろうか、明里と祐美が結城家に遊びに来ている時、明里が練習部屋から出てトイレを借りに行っている間にリビングで聞いた母親同士が交わしていた会話である。


 その数年前に発売された書籍の中で『きょうだい型別タイプ分け」というものが話題となった。

 

 その中で一人っ子は『真面目でマイペース』という枠にいたが、幼い頃から一緒にいて姉妹のように育った明里と光は、前者は世話好きな長子寄りに、後者はよりマイペースさを増長させ、要領の良さを発揮する末子寄りの性格となった。

 これは広瀬夫婦が2人とも長子であること、舞と和真は共に末子であるという両親の影響も大きかったのかもしれない。


 そして何より光は周囲の人間を惹きつける魅力がある。勿論、それは光の見た目や雰囲気も関係しているがそれ以上に、言葉に表すことができない引力があるのだ。


 光の師である折本恭子は九州は勿論、ハヤマ音楽教室全体でも優秀な講師として有名で、その人脈から毎年、折本恭子の生徒による発表会がある。

 そのため、光は福岡市ハヤマ音楽教室の発表会と折本恭子の発表会、更に中学3年生まではHOC (ハヤマオリジナルコンサート) の3つのステージを毎年経験してきた。


 光が備えている魅力は天性のものなのか、この3つのピアノ発表会を幼い頃から経験してたことから身に付いたものなのかは定かではないが、光の演奏は勿論、普段の生活に惹かれて彼女に好意 (ここでの好意は恋愛感情とは限らず、また、性別も男女問わない) を寄せる者は多く、明里もその例外ではない。


 明里はエレキベースも練習部屋に移動させた後に光の部屋へと入る。部屋の中は暖房で快適な温度に設定され、電気は消されている。


「(寝る気満々やんか……)」


 明里はそのマイペースさに力が抜け、ベッドから聞こえてくるスースーという大人しい寝息のする方へと明里は足を運んだ。 



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