Op.1-10 – Free
光と明里の2人は現在、Key=F (へ長調) のジャズブルースでセッションをしている。ブルースは12小節で構成され、そのコード進行はある程度決められている。2人が現在セッションしているジャズブルースは典型的なブルース進行をアレンジしている。
その"アレンジ型ジャズブルース"ではツーファイブが増えており、8小節目以降ではツーファイブを連結する形となっている。6小節目のディミニッシュコードは直前にあるF7を発展させた装飾的な意味合いで導入されている。
また、部分的にマイナー7thコードに♭5を付け加えるなどしてテンションの音を加えて更なるアレンジをする。
ブルースは演奏されるkey (調) によってコードの種類は変化する。そのため、コード進行を一般化するためにローマ数字を使った表記を利用し、演奏するkeyに当てはめて演奏する。
例えばkey=C (ハ長調)で構成される音階はCから順に『C–D–E–F–G–A–B (ドレミファソラシ)』。これをC〜BまでをⅠⅡⅢ……Ⅶとローマ数字を当てはめる。これによってkeyが変わっても対応が可能となる。
また、keyに合う3音の和音 (コード) のことをダイアトニックコードと言う。key=CにおいてはCメジャースケール『C–D–E–F–G–A–B 』の7音を使って1つ飛ばしに重ねて和音を作ることができる。
この和音は順に『C–Dm–Em–F–G–Am–Bm (♭5)』となり、これをローマ数字を使って一般化すると『Ⅰ–Ⅱm–Ⅲm–Ⅳ–Ⅴ–Ⅵm–Ⅶm (♭5)』となる。
ダイアトニックコードにはそれぞれ役割があり、主音 (Ⅰ) 、第3音 (Ⅲ)、第6音 (Ⅵ)をルートとするコードをトニック (略称:T)、第5音 (Ⅴ) をルートとするコードをドミナント (略称:D)、第2音 (Ⅱ)、第4音 (Ⅳ)をルートとするコードをブドミナント (略称:SD)と称される。第7音をルートとするコードには注意が必要であるため、3つの内には当てはめられないことが多い。
Tはあらゆるコードへと進行し、特に最初と最後で使われてDはその不安定感からT (特にⅠ) へと解決、SDはどのダイアトニックコードとも相性が良く、使い勝手が良い。
1つ飛ばしに4音を重ねた場合、ダイアトニック7thコードと呼ばれ、基本的にはダイアトニックコードに7thが加えられたものとなる。
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「(動くってことかな……?)」
ジャズブルースの2周目が終わりに差し掛かったところで明里の方を振り向いて軽く合図を送る。
1周目には鍵盤の感触を確かめるかのように音数少なくゆっくりと押し込み、ほぼほぼコードの構成音のみで演奏。
2周目から右手が動き始めるという明里の予想に反して8分音符を使いつつまたしても控え目に演奏。しかし、左手のヴォイシングの変化、スタッカートや裏拍と表拍のコンビネーション、アクセントの変化で世界観を変えた。
––––光の右手が動き始める。
スタートはまだ8分音符の羅列。これまで淡々とした印象のあった右手のパッセージにアクセントと強弱を加え、
「(けど、違う……!)」
確実に光は2周目のメロディーを意識して演奏している。しかし、微妙な変化を加えることで彼女は1、2周目で見た風景に新たな違いを生み始めているのだ。
部屋の窓から外を覗くと住宅街が広がっていたものが、時間が経つにつれて高層ビルが建設されて雰囲気が変わる。そして更に時間が経過してビルが増え、一気に街並みが都会へと変化していく。今まさに光はこの街並みが変化していく過程にいて、少しずつ世界が変わる様を描いている。
今日の気分なのか、それとも何かしらの自分の中での音楽的課題に取り組んでいるのか明里には定かではないが、1ヶ月ほど前にエレキベースとピアノでセッションした時の違いに驚かされる。
「(この前は1周ごとにバリ変えとったとに)」
そう感じていたのも束の間、突如として光の右手がスピードに乗り始める。これまで使うことのなかった16分音符の連続。光の指から滝のように勢いよく音の塊が打ち付けられる。更に3連符も加わり、新たな世界を創り出す。
「(取り残される……!)」
瞬間、聞き覚えのあるフレーズが明里の耳に飛び込む。
「(それEntranceのやつやん!)」
明里は現在、山内穂乃果の"Entrance"におけるハリー・ウォルトンのベースラインのトランスクライブに取り組んでいるが、何度もそのライブ映像を聴いているため、山内のフレーズもある程度耳に残っている。故にすぐに反応、そしてそれが困惑に変わる。
「(あの曲、キー違うし、転調もせんとそのまま使っとる! てかブルースでもないから普通合わんやろ!?)」
––––でもカッコ良い
ジャズブルースでは基本的にマイナーペンタトニックやブルーススケールを使ってアドリブし、ジャズの雰囲気をより色濃くする。
しかし、光はブルース曲ではない"Entrance"で山内がアドリブで奏でた短いフレーズを転調すらせずにそのまま用いた。本来なら雰囲気に合致せず、違和感が生じるはず。
「(なのに光が弾くと馴染んどる)」
そこから光の右手はジャズブルースで用いられる定番フレーズから逸脱した、明里が予想だにしないメロディーが連続していく。
1つ1つを切り取ると色々な音楽の影響を受けたフレーズ。ロック系、クラシック系、ポップス系……様々である。それを光は平然とジャズブルースに溶け込ませていく。
最早、ダイアトニックコードといった理論的なことやジャズブルースのコード進行など無意味。
––––まさに自由
「(どうすれば良い!?)」
ここで明里の中で思考が追いつかなくなる。
光の自由奔放な演奏に対する選択肢が明里の中でない。明らかに光はジャズブルースという枠の中から徐々に離れていっている。一方で自分はジャズブルース進行を正確に刻んでいる。恐らくはこの選択が今の自分にはベストな選択。
しかし、それが光が創造しようとしている音楽のベストではないことを確信していた。
明里はまだまだ経験が浅く、学ぶべきことは多いが、ブルースといった基本的な型に対処するための音楽理論は彼女の師から学んでいる。
光の演奏と自分の中にあるものどれを照らし合わせても明里には困惑と焦りしか生まれないのである。
「(あ、戻ってきた)」
明里が思考している間に光は1周目と同じように徐々に音数を減らし、ジャズブルースの定番フレーズへと回帰した。
最後のツーファイブを終えて2人は演奏を止める。
「あ〜、寒いのもあって指痛くなっちゃった」
光はそう言って椅子から立ち上がり、明里に微笑みかけた。
<用語解説>
・スケール:何らかの音程の決まりに基づいて並べた音の集まり。スケールの音の数は、5音だったり、7音だったり様々で、あるスケールを決め、そのスケールの音を中心にメロディーや伴奏を演奏するとまとまりのある曲になる。
・音程:2音間の高さの隔たり。音程の表し方として一般的に用いられているのは、半音と全音に基づく七音音階上の段階の数で示す西洋の方法で、単位は度を用いる。
・調性:音楽に用いられる各音が,なんらかの意味において中心音と従属的な音という関係を呈する場合に生じる,中心音と諸音間の秩序の体系をいう。
・調:ある曲や楽節が、特定の音から始まる長音階か短音階に基づいている状態を指す。ハ長調は「ハ」音 (ドあるいはC) から始まる長音階に基づく。今作では例えばハ長調をkey=Cといった風に表す場合もある。
・パッセージ:音楽用語としては、経過句と呼ばれ、楽曲中でメロディーの間を急速に上ったり下りたりする音符群を指す。また、楽曲中で自然に区切られるひとまとまりのメロディーラインである「phrase(フレーズ)」と同じ意味で使われることもある。
・転調:一つの楽曲または楽章の内部で,ある調から別の調に変化することを転調と呼び,一つの楽曲全体を別の調 (高さ) に移す移調とは区別される。
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