憧れ、焦がれて

はるより

本文

 その少年は、『雲ひとつない大空霧の向こう』を飛ぶ鳥を見つめていた。


 鳥たちは、少年がどんなに手を伸ばしても、木に登ってみても、決して届かぬ高いところを、当然のように飛び交っている。


 それはまるで、大海を泳ぐ魚のようにも見えた。

 どこまでも自由に、時には風という名の世界の波に揺られて、またある時はその流れに逆らいながら……決して地に堕ちる事なく、ぴいひょろ、と楽しげに歌う。


 しかし十二になったばかりの少年は、それを不思議にも思っていた。


「親父、あの鳥はどうして地面に降りないんだろう?」

「変なことを訊く奴だな」


 草原に座っていた少年は、隣で四肢を投げ出していた男性にそう問いかけた。

 薄い銀髪と青みがかったグレーの瞳を持つ少年が父と呼んだのは、彼とは似ても似つかない満月のような黄金の眼を持つスキンヘッドの男性だった。


 男性は口元に、黒い革を編んで作ったマスクのような器具を装着している。

 それは獰猛な動物を御すのに用いられる、マズルガードと呼ばれる物に似た形状をしていた。


 男性は身体を起こすと手を目の上に翳し、うーん、と小さく唸りながら少年の差した鳥を見上げる。

 鳥はぐるぐると旋回しながら空を舞っていた。


「そうだなぁ……ヴィル、お前は何故鳥が飛べると思う?」

「なぜ……?」


 男性が答えではなく、質問を返してきたことに戸惑った少年は少しの間口籠る。


「……翼があるから?」

「それもそうだが、ただ翼があるだけじゃあ空は飛べねぇよ」

「なら、飛ぶ事のできる翼があるから」

「そういうことじゃない」


 不思議そうに首をかしげる少年。

 男性は、そんな彼の表情を見て苦笑いを浮かべる。


「答えは、自分が空を飛べると信じているからさ」

「そんな理由で?」

「そりゃあそうだ。お前だって、そうだろう」


 釈然としない表情を浮かべる少年を他所に、男性は言葉を続けた。


「お前は、ジブンが出した夕飯に毒が入っているかもしれないといちいち疑うか?」

「そんなわけない!」

「だから、躊躇いもせず食える。ジブンがお前を殺さないと信じてるから、こうして剣の稽古だって喜んで受けに来る。」

「それは、そうだけど……。」

「あとは眠ることもだ。朝が来て、目が覚めて……また新たな一日が始まると信じてるから今日を終わりにできる。どれもこれも、確証なんて無いのにな」


だから鳥が飛べるのは、奴らに確証のない自信があるからだ。

そう言って男性は、くつくつと笑った。


「でもそれは、地面に降りてくる理由にならない。飛べる自信があるなら、降りてもまた舞い上がればいいじゃないか」

「そうか。なら、鳥が地上に降りて得られるものは何だ?」

「それは……休息?」

「外れ。答えは、リスクだ」


 リスクという言葉を聞いてから、少年は再び頭上を見上げる。

 鳥はいつの間にか随分と遠くへ行ってしまったようで、微かに遠くから管楽器の音にも似た声が聞こえるのみだった。


「地上では、ジブンたちほど速く走る事はできない。何かに襲われたらひとたまりもないだろう。……仮に逃げられたとして、翼に傷でも負えば故郷を奪われたも同然だ」


 例えば自分に翼があったとして、折れた羽根を見てもなお、自分が空を飛べると信じられるだろうか……少年はふと、そんなことを考える。

 ……彼の中で出た答えは「Nein」であった。

 飛んで居る途中でバランスを崩したら?羽ばたくことで傷が酷くなったら?

 きっと、自分はそんな風に思ってしまうだろう。


「ヴィル。お前は飛べない鳥を見たらどうする?」

「……手当てをして、元気になるまで世話をする」

「お前は子供としては満点だな。だが、『番犬ハウンド』としてはゼロ点だ」


 男性は口元のマズルガードを指先でなぞりながらそう言った。


「現実じゃ、十中八九食われるさ」


 木の葉が空を隠し、霧が当たりを包む薄暗い森の中。

 傷ついた翼を震わせて、なんとか飛び立とうとする小鳥。

 しかし風を捕まえることは出来ず、何度も地に堕ちてもがき苦しんでいる。

 そんな小鳥を見つめる獣の目、周りに集り始める羽虫たち。

 奴らは小鳥が死ぬのを待とうともせず、やがてその肉を貪り始めるのだろう。


「でも十中の一か二は、鳥と友達になりたいと思う」

「ほー、そこにお前も入ってるってか?」

「うん……」


 少年は頷く。

 それは男性への反発心から出た言葉でも、ただ善的な回答としての言葉ではなく、彼の本心であった。


「だって、僕は飛べない。犬でも人でも、これから翼が生える事なんて絶対無い。だから……鳥と友達になって、空から見た世界を教えてほしい」


 そうすれば、たぶん僕だって少しくらいは空を飛んだ気分になれる。

 そう言って、少年はほんの少し恥ずかしそうにはにかんだ。


「血が繋がってないから当然なのかもしれんが……お前は、ジブンとは似ても似つかない奴だな。見た目も、感性も」


 少年の言葉を聞いて、男性はほんの少しだけ寂しそうに微笑む。

 それから少年の頭を、大きくてごつごつとした手のひらでぐしゃぐしゃと撫でた。

 それをくすぐったそうにしながら、少年は言葉を返す。


「食べ物の好みは、ちょっと似てる。親父も僕も果物が好きだ」

「ははは!違ぇねぇ!」


 ひとしきり小さな頭を撫で回した後、男性は笑いながら傍に放り出していた木刀を掴んで立ち上がった。


「ほら、ヴィル。そろそろ休憩は終わりだ。稽古に戻るぞ」

「はい」


 この世界の中心、霧の都を治める女王。

 男性と少年は、その彼女に仕える『番犬』……影たる騎士、ハウンド家に連なる人間だった。

 ハウンド家は今、現当主である男性と次期当主となる少年の二人しか存在しない。

 彼らは当主が三十となる日に東部暗黒街イーストエンドに捨てられた子供を引き取り、次にハウンド家を継ぐものとして育てるしきたりがあった。

 ゆえに、十数年前に不幸があって旅立った前当主を含め……ハウンド家に血の繋がりがある人間は誰一人として居ないのである。

 このしきたりは、ハウンド家の創設者であるアルバロト・ハウンドがかつて孤児であり、命を落としかけていたところを霧の女王に救われたことに由来しているという。


 血を分けない親と子は、こうして剣の稽古を行うのが日課であった。

 いつか女王の懐刀となる息子が、立派にその役目を果たせるように。

 己がハウンド家に名を連ねたことを誇りに思える日が来るように。


「案外、お前みたいな奴が何かを変えられるのかもしれねぇな」

「うん?」

「いや、独り言だ」


 少年は、不思議そうに男性の顔を見た。

 男性は、ニッと笑うと握っていた刀を空で振るう。

 びょう、と風を切る音があたりに響き、それに応えるようにそよ風が足元の草原と二人の頬を撫でていった。



*****


 ヴィリアムが初めて小柄なその少年を見た時、まるで飼い鳥のような子だ、と思った。


 毎日彼が見上げていた空。

 そこに突然、『異世界』が浮かび上がったのはいつの事だっただろうか。

 この少年は、そのもう一つの世界……桜の帝都と呼ばれている場所からやってきたらしい。


 柔らかな生地でできた衣装は、桜の帝都で崇められている宗教で定められたものなのだろうか。

 ゆったりとした袖口と、裾の長いスカートのような履き物。

 きっと事前に知らされていなければ、空からやってきた彼のことを少年ではなく、少女だと思い込んだに違いない。

 そう確信できるほど、彼は壊れ物のように儚い雰囲気と中性的に整った顔立ちをしていたのだ。


「ヴィリアム。今日からお前は挿頭草かざしぐさ一京いっけいという人物の側支えとして働いてもらう」

「は、はぁ……」


 十八になり、ハウンド家を継いだばかりのヴィリアムには正に寝耳に水な話であった。

 女王の番犬たらんとして幼少期から育てられてきたヴィリアムが、異国からやってきた少年に仕えるようにと命じられたのだから、無理もない。

 彼がハウンドとして務めていた女王の居室の警護は、結局は現役を引退したはずの父親……フォルクマー・元ハウンドが再び務めることとなった。

 フォルクマーは、その事を宮殿騎士団の騎士団長の口から伝えられると、苦笑いを浮かべながらも渋々了承したという。


 やがてヴィリアムは少年と共に、彼にあてがわれた都の一番地にある住居へと移ることになった。

 小さいながらも、立派な佇まいの一軒家。

 少年は帝都から親善大使に近い立場で霧の都に来たせいか、随分と丁重に扱われているようだ。


 ヴィリアムは荷物を住居の中に運び込み、早速トランクの荷解きを始める。

 トランクは少年が母国から持たされたもののようで、留め具には特徴的な花の紋が刻まれていた。

 きっとこれが桜という花なのだろう、とヴィリアムはそんな事を思った。


 ぱちんぱちん、と小気味の良い音を立てて金具は外れ、トランクが口を開く。

 中身は、想像していたよりもずっと質素なものだった。

 肌着やローブのような薄手の衣服が数セットと、生活に必要な物は一通り揃っている。

 また、何やら宗教めいた装具や錫杖のようなものもあった。

 しかし、逆に言えば詰め込まれていたのはそれだけだった。

 国の代表として送り出すのだから、もう少し贅沢品を与えられていてもおかしくはないのだろうが、国柄の違いという物なのだろうか。

 ヴィリアムはふと、少年の方を見る。

 少年は室内にはソファや椅子が設置されているのにもかかわらず、居心地が悪そうに部屋の隅に立っていた。


「……失礼致しました」

「ああ、いや……」


 ヴィリアムは、そういえば自分は少年に座る事を勧めてもいなかったな、と思う。

 如何に高貴な立場の人間であっても、きっと慣れない異国の地でリラックスするのは難しいのだろう。


 とりあえず彼のそばにあった椅子を引いて見せると、少年は少し戸惑いながらもおずおずとそこに腰掛けた。

 彼らの初めての会話は、そんな風に何ともぎこちないやりとりであった。


 側仕えとして充てがわれてしまったが……実のところ、ヴィリアムには人の身の回りの世話の心得などというものはない。

 というのも、ハウンド家の人間は騎士とはいえ、代々門番を務めているに過ぎなかった。

 白刃を躱し、人を斬り伏せる技術こそ磨かれているが、掃除洗濯などといったものはあくまで家庭内で済ませる程度である。

 食事に関しては、質素である事を美徳とするハウンド家で出すものなので……到底人に振る舞えるような内容ではない。


 とりあえずは、長旅だった事だろうし……茶くらいは出すべきだろう。

 そう思ったヴィリアムは、屋敷に用意されていた茶器と紅茶の入った缶を持ってキッチンへと向かう。

 どうやら生活用品は既に揃っているようで、ヴィリアムはほっとため息をついた。


 コンロ台に薪を放り込み、着火剤とマッチで火をつけ、やかんで湯を沸かす。

 ポットにざかざかと茶葉を入れ、煮立つ湯を慎重に注いだ。

 ポットの中で茶葉が舞い上がり、徐々に開くと……ゆっくりと湯の色も赤茶色に染まっていく。

 茶器と共に用意されていた砂時計をひっくり返すのを忘れていたことに気づき、慌てて手を伸ばした。


「これで、良いのだろうか……」


 正直なところ、自信はない。

 以前父の友人のホームパーティーに招待された際に目にした様子の見様見真似である。

 しかしこの屋敷にいるのは自分と主人となった少年だけであり、他に頼る宛もなかった。


 砂時計が落ち切ったのを確認し、ひとまずカップに茶を注いでみる。

 やけに色が濃いようにも見えるが……茶の種類にもよるのだろうか。

 香り自体はとても良く、少しだけ夜の森の空気にも似たそれは、ゆったりと湯気と共にカップから立ち上っていた。


 トレイにカップとポットを乗せて少年のいるリビングに戻ると、彼は先ほどと同じ場所でじっと座ったままだった。

 戻ってきたヴィリアムの方を見て、何やら手元に持っていたものをさっと懐に仕舞う。


 ヴィリアムはトレイをテーブルの上に置くと、少年の目の前にソーサーとカップ、それから小さな壺に入った砂糖を並べた。

 ミルクも必要かと思い、探してはみたのだが……流石に生乳は用意されていなかったらしい。


 少年はきょとんとした顔で、その赤茶色の水面を眺めていた。

 ヴィリアムはその様子を見て、しまった、と思う。

 いきなり何の説明もなく出されたものに口を付けるのは難しいだろう。


「あの……紅茶、です」

「茶か……」

「……」

「……あ、ありがとう」

「いえ……」


 ヴィリアムは、自分の口下手さに歯痒くなる。

 きっと父ならこんな時、ジョークの一つでも言って場を和ませられるのだろうが……生憎その術を受け継ぐことはできなかった。

 とりあえず、怪しいものでない事を証明すべきかもしれない……そう思ったヴィリアムは、ポットの中に残っていた紅茶を空のままであったカップに注ぐと、口に含んで見せた。


「……」

「……」

「……。失礼しました、これは、お召しにならないでください……」

「えぇ……?」


 ヴィリアムは表情こそ変えぬまま、口に入れた紅茶をなんとか飲み下す。

 苦い、渋い。あまりにも濃すぎる。

 きっと、入れる茶葉の量が多すぎたに違いない。

 やけに色が濃いとは思っていたが、こんなものを飲んでは胃を悪くしそうだ、と彼は言葉少なではあるが、そう正直に少年に伝えた。

 すると少年は何を思ったのか、目の前のカップを手に取り、口元に運ぶ。

 制止する間もないまま、少年の喉が小さく上下した。

 それから一瞬後、少年は思いっきり顔を顰めた。


「うっわ!ほんとだ、こりゃ酷い!」

「あの、なぜ……」


 飲むなと言ったにも関わらず、自ら地雷を踏みにいく少年の行動にヴィリアムは当惑する。

 そんなヴィリアムに少年は、堪えきれなくなったという風に笑いながら言った。


「だって、あんた全然表情変えないんだもん!ほんとに不味いのか確かめなきゃって思って」


 ヴィリアムは彼の言葉に頭を掻く。

 昔から表情の乏しい子供だと言われていたヴィリアムであったが、彼自信はそれを公私の私を殺すべしと言われるハウンドの信念を守るのに都合の良いものだと思っていた。

 それが、こんなところで仇となるとは。

 いくらヴィリアムなりに誠実に振る舞ったところで、信用して貰えないのでは意味がない。


「すみません……こういった事には不慣れで」

「大丈夫。俺だってそうだから」


 少年は、少しは緊張も解けてきたのか随分と和らいだ表情でそう言った。


「あんた、名前を教えてよ。きっとこれから長い付き合いになるんだろ?」

「……ヴィリアム・ハウンドと申します。どうぞ、お見知り置きを」

「ゔぃり、あむ?」


 ヴィリアムが名乗ると、少年はそれを反芻しようとする。

 しかし桜の帝都では使われない響きのそれを口にするのは、彼にとって容易い事ではなかった。


「ヴィリアムです」

「びりあむ」

「ヴィリアム」

「ゔぃらあむ」

「……宜しければ、ヴィルとお呼びください」


 ヴィリアムは、父が自分を呼ぶあだ名を提案する。

 すると、少年は何度か教えられた名を小さく声に出した後に頷いた。


「分かった、ヴィルって呼ぶ!」

「はい」

「次はこっちの番か。俺は挿頭草一京だ、よろしく」

「カザシグス……様……?すみません、もう一度お願いいたします」

「かざしぐさ、いっけい」

「カザシュ……ゔっ」


 ヴィリアムは、自分の上下の歯で思いっきり舌を噛み付ける。

 口元を押さえて黙り込む彼の姿を見て、一京と名乗った少年は事態を悟ったのか、あちゃーと頭に手を当てた。


「一京でいいよ。帝都でも珍しい名前だし、難しいよな」

「ええと、ケイ様……?」

「うん、それでいいや」


 きっと、自分は彼の名を正しく呼べていないのだろう。

 ヴィリアムにはそんな実感があったが、一京が微笑んで彼に応えたため、それ以上彼が何かを言うことはなかった。


「正直、最初に見た時ヴィルのこと怖い奴だと思ったけど……ちょっと安心した」

「……そうですか」


 ヴィリアムからすれば、今日の自分は醜態ばかり晒している感覚であった。

 少なくとも、従者として相応しくはないように思える。

 それでも主人が安心したと言うのだから、良いのだろうか。


「これから、よろしく」


 一京は、椅子から立ち上がるとヴィリアムに向けて手を差し出した。

 ヴィリアムはそれを見て、その場に跪くとこうべを垂れる。


「……申し訳ございません。訳あって口付けを送れませんが……このヴィリアム・ハウンド、誠心誠意貴方にお支え致します。」


 一京は、彼の言葉を聞いて差し出した手を所在なさげに下ろす。

 それから少しの間、彼は言葉を探しているようだったが、やがて諦めたようにうん、と一言返して頷いた。


 ……これが彼ら、挿頭草一京とヴィリアム・ハウンドの歪な主従関係の始まり。

 二人が霧の騎士となる、約五年前のある日の出来事だった。

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