それは陽の光より温かく

はるより

本文

 セトは下衆な笑い声を上げながら去っていく男たちの背を見ながら、血の味のする唾を吐き捨てて口元を拭った。


 光のほとんど届かない東部暗黒街の路地裏。

 すぐそばに捨てられた錆びた缶の開口部からは、鼻が曲がるような悪臭が漂っている。


 霧の都の中で最も地獄に近いこの場所が、セトと6人の『弟妹』達の生まれ育った場所だった。

 時刻は、夜の18時過ぎ。

 きっと住処にしている廃屋では、下の子供達が腹を空かせて待っているだろう。

 セトは壁に手を突き、ふらつきながら何とか立ち上がる。


 ……今日から1週間分の『報酬』は、情けなくも奪い去られてしまった。

 セトは、貧弱な自分の体が憎かった。

 例えそれが、弟妹達に自らの食事を分け与え続けた結果であったとしても。

 もしも、あの男達を追いかけて殴り勝てるだけの力が自分にあれば、と……そう思わずにはいられないのだった。


 据えた匂いの漂う路地の角を何度も曲がり、ようやくセトは『心安らぐ我が家』にたどり着く。

 しかし正面のドアを開けようとはせずに裏に回ると、勝手口に置いてある缶を思い切り蹴飛ばした。

 缶はカランカラン、と音を立てて壁にぶつかり、行儀良くセトの足元に帰ってくる。

 セトは缶を拾い上げると、慣れた手つきで元あった場所へと戻した。


「お兄ちゃん!また、そんな怪我して……」


 慌てた様子で勝手口から出てきた少女が、セトの姿を見て悲痛な表情を浮かべる。

 セトは申し訳なさそうにしながらも、「平気だって」と笑って返した。


「ごめん、金が全部取られちまった。このままじゃ全員一週間飯抜きだからさ……ちょっと行ってくるよ」

「そんな……」


 彼女の名はルーチェ。

 光の意味を持つその名は、セトが死の淵に立っていた彼女を見つけた時に与えたものだ。

 ルーチェはセトの腫れた頬に、垢切れた指先を伸ばす。

 きっと傷が痛かろうと、その指はほとんど肌には触れぬまま、下へと流れ落ちた。


「こんなドロドロじゃみっともなさすぎて客もつかねぇな……。ルージュ、持ってきてくれるか?」

「……わかった」


 ルーチェはセトの言葉を聞き、瞳を揺らすと……一度廃屋の中へと戻った。

 まもなく、扉が開いて彼女が戻ってくる。

 その手には古ぼけた化粧パレット。

 セトの、唯一の母の形見である。


「あたしがやってあげるから、お兄ちゃんは座ってて」

「サンキュ」


 セトは大人しく、路地に積んで放置されたレンガブロックの一つに腰掛け、顔を少し上に向けた。

 化粧パレットの中に入っていた細筆を取り出し、ルーチェは残り少なくなったルージュを筆先に取った。

 切れて滲んだ血を誤魔化すように、セトの唇にその色を乗せる。

 何度かセトは痛みに顔を顰めていたが、何かを言うことはなかった。


「……ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」

「あたしね。お兄ちゃんが少しでも楽になるのなら……あたしも」


 ルーチェは手を止めて、セトの顔を見る。

 目尻と唇に紅を引いた『兄』の美しい顔は、女の自分よりもずっと艶やかに見えた。


「馬鹿言うなよ」


 震えた声。

 セトはルーチェの言葉に、傷付いた表情を浮かべる。

 身体のどんな傷よりも、彼女の言葉がセトの心に深く食い込んでいた。


「ルーチェ、お前は……お前達は、オレの人生で唯一の希望なんだ」

「……」

「だからその希望を安売りするなんて、やめてくれ。……頼むよ」

「……どの口が、そんなこと言えるっていうの」


 ルーチェは、パレットを煤けたエプロンのポケットに突っ込むと、そのままセトの首に抱きつく。

 冷たい路地裏で、温かな体温が布越しにセトへと伝わる。

 ……三つ編みにしたルーチェの赤毛からは、炭焼きの煙の匂いがした。


「あたしだって、怖いんだよ」

「ルーチェ……」

「すり減ったお兄ちゃんがいつか、消えちゃうんじゃないかって思うの。……あのルージュと一緒に、居なくなっちゃうんじゃないかって」


 ルーチェは、ぼろぼろと眼から涙を落とす。

兄の痩せた身体は、強く抱きしめると折れてしまいそうなほどに華奢なものであった。

 ぽつりぽつりと、セトの薄い衣服に小さく濡れた染みが増えてゆく。


「なぁルーチェ、聞いて」

「何……?」

「オレは絶対お前達に黙って居なくなったりしないよ。約束する」

「……そんな口約束、いくらでも出来るでしょ」


 嗚咽を上げる妹の背を、セトは幼子をあやすようにして手のひらで軽く叩く。

 ……こうやって自分の大事なものを守る時だけは、セトは自身の痛みなど遠くに忘れ去ることが出来た。

 かつては、ある種の依存先でしかなかったのかもしれないが……今は彼自身が幼い子供たちに向けている愛情を、決して疑ったりはしない。


「なんだよ、オレがルーチェに嘘ついたことあったか?」

「……前に『自分はもう食べたからいらない』って言って、三日もご飯抜いてた」

「あー、そんなことあったっけ……」


 セトはルーチェの恨みがましそうな声に、視線を泳がせる。

 確かに二年程前に一度、空腹で倒れた事があるような気もしなくはない。


「でも、あたしも馬鹿だった。明らかにお兄ちゃん、様子おかしかったんだもん。それなのに、黙って信用してたのが悪かったの」

「……耳が痛いぜ」

「ホントのことでしょ」


 ルーチェは身を起こし、セトの顔をじっと見つめる。

 ……自分と見つめ合う彼の目は、強い意志と共に、優しい光を宿していた。


「じゃあ分かった。お前が本当に不味そうだと思ったら、殴ってでも止めてくれ。だけどそれは今日じゃないだろ?」

「……そう、なのかな」

「そうだよ、だってオレはまだ絶望してない」


 可愛いお前達が待っててくれるんだからな!

 そう言って、セトは傷だらけの身体を気にも止めずに、今度は彼の方からルーチェを力一杯抱きしめる。

 ルーチェは、何だか誤魔化されたような気がする……と思いながらも、セトの気持ちを受け止める様に、その背に手を回した。


 7年前、セトとルーチェは互いに一人ぼっちであった。

 帰る場所も、待って居てくれる人も居ない者同士が……泥の中で手を繋ぎ、互いの拠り所となったのだ。


ずっと、この時が続きますように。

ルーチェは、世界で一番愛しい温度を腕に掻き抱きながら、心の中でそう祈った。

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