桜に攫われてやろうか

朝霧

いっそこの瞬間唐突に消え去ってやろうかと思った

 吹雪というには穏やかに花弁が降る中、私は彼に手を掴まれてゆっくりと歩いていた。

 命綱を掴むような必死さを感じるほどの強さで自分の手を握っているこの男は、きっと自分の方こそ命綱だと思っているのだろう。

「いたい」

 別に全然痛くなんかなかったのだけど、その必死さにどうしても別の誰かの影が見えてしまったのが嫌だったのでそう言った。

「…………わるい」

 力が少しだけ緩まった、緩まっただけで離れようとはしてくれないその手をパッと振り解いて「ばーか!!」とでも叫びながらどこかに走り去ってしまいたい衝動に駆られたけど、なんとか飲み込んだ。

 本日はお日柄もよく、桜もちょうど見頃の時期だったのでなんの目的もなく散歩に行こうと思い立ったのが今日の午後二時三十四分。

 その時彼はソファでうとうとしていた。

 連日仕事に追われていて疲れているのであろう彼が目を覚ました時にすぐに視界に入る場所に『さんぽ』とだけ書いたメモを置いて、家を抜け出そうとした。

 しかし直前に何か良からぬ気配を感じたのかはっきりと目を覚ました彼にとっ捕まった。

 ただの散歩だ一時間以内には戻るから寝てて、と言ったにも関わらず彼は無理矢理ついてきた。

 嫌だ嫌だ一人がいいと駄々をこねようとも思ったのだけど、それをやると家から出ることすら許してくれなさそうな気配を感じたので、仕方なく妥協した。

 本当は春や桜にちなんだ曲でも聴きながら悠々と桜並木を楽しもうと思っていたのに。

 別に今聞いたっていいとは思うし、彼は気にも留めないだろうけど、人を隣に歩かせておいて私一人がイヤホンで音楽を聞いているという絵面は、私が嫌だった。

 馬鹿なカップルみたいに片耳ずつ、というのも一応思いついたものの、絵面を想像するだけで気恥ずかしくなったのでその想像図は早々に霧散させた。

 そもそも彼が無理矢理ついてきたのが悪い、と顔を上げて睨んでやろうと思ったけど、きっと泣きそうな目で見下ろされることはわかっていたのでやめておいた。

 ちょうど三年前だったはずだ、この男の親友が死んだのは。

 今みたいに桜が美しい頃で、死体を染める血に大量の桜の花弁がひっついていったのをただ見ていることしか出来なかった、と一度だけ聞かされたことがある。

 時折夜中に飛び起きるのも、そのたびにこちらの身体を強く抱きしめて心音を確認するのも、きっとその時のことを夢に見たせいなのだろうと勝手に思っている。

 だから今日も私が一人で家を出るのを嫌がって、無理矢理ついてきたのだ。

 桜はこの男にとって『喪失』の象徴、不吉の塊みたいな存在なのだろう。

 だから、私が一人でその中に身を晒すのが、きっと怖くて仕方がないのだろう。

 それが彼の態度からあからさまに見えてしまうのが嫌だったから一人でここを歩きたかった。

 せっかくこんなにも綺麗なのに、これでは堪能しきれない。

 明日か明後日あたりにもう一度一人でここを歩こうと思う、時間はいつでも構わない、朝でも昼でも夜でもいい。

 ばれたらきっと、ものすごく怒られるのだろうけど。

 なんて思いを見透かされないように馬鹿の振りをしてはしゃいでやろうと思ったら、遠くにあるものが見えた。

 遠くに見えたのは見慣れたコンビニ、その鮮やかな配色を目にして記憶が一つ蘇った。

「あ」

 そうだった、今日はアレの発売日だ、すっかり忘れていた。

 意識がコンビニに向かう、緩んでいた手がするりと解ける。

 その時強い風が吹いた、桜の花びらがざっと音を立てて散り、地に落ちていた花弁も舞い上がる。

 呼吸すらままならなくなるのではないかと思うくらい視界が薄紅色に染まった瞬間、大声で名前を呼ばれて腕を乱暴に引っ張られる。

 視界がぐるりと勢いよく回る、その直後に薄紅色が消えて視界が真っ黒に塗りつぶされた。

 暗いのは顔に何かが強く押しつけられているからだ、その硬い何かは彼の胸板で、背骨が折れると思うくらいの力でこちらを締め付けているのは彼の両腕だった。

 いたい、これはほんとうにいたい。

 しんでしまう。

「いくな」

 死にかけの子供のような小さく頼りない声が聞こえた気がした。

 その声色にもこちらに縋り付く両腕に込められた力にも、どうしたってあの人の影が色濃く落ちているように思えてしまって、いっそこの瞬間唐突に消え去ってやろうかと思った。

 そうすればきっとあなたは泣くのだろうけど、もしかしたらほんの少しだけあの人のことを忘れてくれるかもしれないから。

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桜に攫われてやろうか 朝霧 @asagiri

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