その後の千早さんと滝川さん
1.真夜中の怪メッセージ
静かな夏の夜のことだった。
私は眠れずにハンモックの中で何度か寝返りを打って、起き上がった。
私のハンモックはダブルサイズなので、寝返りを打つことができるのだ。
夏場は私の住む九州は恐ろしく暑くなるので、私はハンモックの中で眠っている。ハンモックは宙に吊られているし、背中が布でとても涼しいのだ。
冬場はお手製の着る毛布を使わなければとてもハンモックでは眠れないが、夏場はハンモックの涼しさに癒される。
それでも眠れない夜はある。
元々ブラックな職場で身体と心を壊してから、私は不眠症気味で、夜にはよく眠れずに、朝から昼までをだらだらと寝て過ごすことが多かった。
眠れない寂しさに、サイドテーブルからタブレット端末を取った。この時間まで起きている可能性がある相手、碧たんにメッセージを入れる。
答えはこなくていい。
『アイスを食べてもいいかな? いいよー!』
自分で問いかけて答えてから、私はハンモックから起き上がり、リビングで冷蔵庫から出した水出しの白桃煎茶と一緒に、ファミリー用のバターアイスを齧っていた。
ファミリー用なので一つの大きさが小さく、罪悪感なく食べられるのがいい。
眠ろうとする前に歯磨きはしていたが、もう一度歯磨きをする。
デンタルフロスで歯の間を磨いて、デンタルリンスでうがいをして、歯ブラシでしっかりと磨いてハンモックに戻ると、いい感じに眠れそうな気分になっていた。
眠る前に、碧たんに妙な時間にメッセージを入れてしまったので、返事がないか確認する。私は夜の二十三時から朝の七時まで通知が来ないようにしているので、メッセージはアプリを開いて確認しなければいけなかった。
碧たんからの返事はない。
きっと眠っているのだろう。
代わりに滝川さんからのメッセージが入っていた。
壁にかけられた時計で時間を確認する。
時刻は午前零時を回っている。
健康的な生活をしている滝川さんは、大抵午後九時か十時には眠りにつく。
それ以降で話をしたことなんて、萌えるドラマの話が盛り上がりすぎたときと、滝川さんが一度眠ったが起きてしまってSNSで呟いていたのに話しかけたときくらいだが、どちらも午後十一時を超えたくらいの時刻だった。
こんな時間に滝川さんからメッセージが入っているということは、何か困ったことが起きたのだろうか。
滝川さんとは距離的に離れているので駆け付けることはできないが、住所も電話番号も一応知っているので、救急車を呼ぶことくらいはできる。
もしかすると滝川さんは倒れる寸前に私にメッセージを入れたのかもしれない。
心臓がばくばくと脈打って、嫌な予感に冷や汗が流れる。
ハラハラしながら私はメッセージアプリを開いた。
『推しの猫が馬』
それだけ書かれたメッセージ。
「推しの猫が馬? へ? なにこれ?」
いざとなったら救急に電話しようとまで構えていた私にとっては、それは全く意味の分からない単語の羅列だった。
猫は猫である。猫は馬ではない。
馬は馬である。馬は猫ではない。
推しの猫が馬。
これはどういう意味なのだろう。
「滝川さん、寝ぼけた?」
たまにあるのだ。
滝川さんと通話ではなくメッセージでやり取りをしているときに、滝川さんが寝落ちしてしまって会話が中断されることが。
ブラックな企業に勤めていた頃は疲れていたのだろう、そういうことが多かった。
携帯電話を持ったまま眠ってしまった滝川さんが、誤操作で携帯電話のアプリに打ち込んでしまった可能性もある。
それならば返事をしない方がいいのだろうか。
起こしては申し訳ない気がする。
「推しの猫が馬……どうしよう」
深く眠っているときなら、滝川さんは一つメッセージが来ても起きないだろう。
私は一つだけメッセージを返すことにした。
『滝川さん、寝惚けてます?』
そのままハンモックに入って私もタオルケットを被って寝る準備をしていると、メッセージが返ってくる。
『千早さん、今大丈夫ですか?』
「えぇ!? 起きてたの!? しかも正気!?」
メッセージを返す前に私は驚きでタブレットを落としてしまった。ハンモックの位置は高くないし、下にはラグが敷かれているので、タブレットが損傷するようなことはない。
タブレットを拾って、私はハンモックから机に移動する。
机のタブレット立てにタブレットを立てると、私は滝川さんに返事をした。
『大丈夫ですよ』
すぐに通話がかかってくる。
通話ボタンをタップすると、乱れた髪にTシャツ姿の滝川さんが映った。先ほどまで寝ていた様子だ。
「こんな時間まで大丈夫なんですか?」
『それはこっちの台詞ですよ。夜分遅くにすみません』
「私は起きてたから平気です」
『千早さんの不眠症を加速させてしまったかも』
そんなことを言われるけれど、私はアイスを食べてしまったし、もう少しハンモックで揺られてゆっくりするつもりだったから、全く問題なかった。
問題なのは滝川さんだ。
こんな真夜中に怪メッセージを送ってきてなんなのだろう。
「滝川さんはどうされたんですか?」
『推しのインタビュー記事の載っている雑誌、千早さんは買われたんですか?』
「いえ、私は買ってないです」
推しの雑誌は欲しいのだが、どうしても場所を取ってしまうし、推しの特集は数ページでそれ以外は全く違う美容とかジュエリーとかの記事ばかりなので買っていなかった。
劇団から出ている公式の雑誌に関しては、全てが劇団の内容なので、時々買うことはある。
今回の話題になっている雑誌は、美容系の雑誌で、私は興味のない記事ばかりだった。
『お願いです、買ってください。電子版があったでしょう?』
「いいですけど」
電子版なら場所を取らないし、推しのところだけ見ればいいので買ってもいいかと注文をしてアプリで開くと、滝川さんの声が響いてくる。
『推しのインタビュー読んでください』
「はい、今読んでます」
妙に急かすと思っていたら、液晶画面の向こうで子猫サイズの小さなユニコーンが光っている。そわそわと液晶画面に顔をくっ付けてきて、自己主張している。
記事の内容は推しが愛猫を亡くしたという話だった。
――すごく可愛がってたんですよ。劇団に入った時期からずっと一緒で。パートナーを失った気分でした。
愛猫を失うというのはつらいのだろう。
猫はどうしても人間と同じ年月を生きられない。長く生きる子は二十年くらい生きるらしいが、それでも人間の寿命の前では短すぎる。
しんみりしていると、その次の行が目に入る。
――競馬で勝てなくてもみんなを笑顔にしていた馬がいて、その馬の名前を付けていたんですよ。テレビで馬を見るたびに思い出しますね。
意味が分かった。
「推しの猫は馬……そういうことなんですね!?」
『そうなんですよ! 千早さんが馬って仰ってたどっちかが、推しの猫ちゃんだったんじゃないかと気付いたんです』
真夜中に目が覚めて、推しのインタビューを読みながら寝ようとした滝川さんは、推しの猫ちゃんの名前が馬から取られていたことを知った。
そのせいでペガサスかユニコーンのどちらかが、馬の姿で劇場から滝川さんの元に来てしまったのではないかと考えたのだ。
液晶画面の向こうのユニコーンは光っているし、滝川さんの予測も当たっている気がして、私はタロットクロスを広げてタロットカードを混ぜ始める。
その間、滝川さんは話していた。
『何かおかしいと思ったんですよね。うちのお猫様が虚空に飛びかかって行って、何かと遊んでいるんですよ。夜中は大運動会になるから、お猫様がゲージに入ってくれないから、馬さんたちとトカゲさんはゲージで寝てくれるように言っても、全然聞いてくれなくて』
猫同士ならば遊びに誘われたら、ゲージから出てしまうだろう。
『今日もお腹にダイブされて起きました』
「滝川さんの睡眠時間、削れてるじゃないですか!?」
『私の安眠のためにも、早くこの猫な馬さんを推しのところに帰さないと』
滝川さんの言葉に、私はタロットカードを捲っていた。
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