49話 黒翼 ~神殿地下~
金属のように硬質かつ艶やかな黒い肌には棘が生え、体は茨でおおわれている。
黒の精霊は、崩れかけた神殿で、静かにたたずんでいた。
契約の解除、この地は解放された。
それが先ほどの咆哮の意味。
そこへ、人の足音が響いてきた。どうやら、瘴気の強さをものともせず、近寄ってきた強者がいるらしい。黒の精霊は少し興味を惹かれ視線を向ける。すると一人の青年が立っていた。
人の個体識別は難しい。金髪と青い瞳はこの地の代々の契約者であるように見えるが、似て非なるもの。これは呪われた側の人間。その呪いも、すでにこの地の王に帰された。
契約者は滅んだ。だから契約解除を知らせるために黒の精霊が降り立った。契約を結ぶ時と同じように再び依り代となる聖女の中に降りた。
ルードヴィヒは、無機質な視線を向けてくる異形に近づく。精霊は不思議そうに闇色の瞳で見つめ返してくるだけで、攻撃しようとはしない。
精霊とは本来そういうものだ。かかわらなければ、たたらない。
――次の契約者はおまえか――
「契約?」
ルードヴィヒの頭の中に男でも女でもない無機質な声が響く。
――ここを不可侵の地とし、治める契約は必要か――
「なるほど、アリエデはそうやって契約したのだな。護国聖女は精霊の依り代」
――魔物を北へ封じ込め、お前もこの地を治める王となるのか――
「いや、結構だ。契約はしない」
黒翼の精霊が不思議そうに首をかしげる。
「何もいらない。リアを返してくれ」
――この地の魔物を鎮めなくともよいのか――
「ここはもともと魔物の住む地だったのだろう? それを人が契約により奪った」
――そうだ――
黒の精霊は契約の不履行を怒ったわけではなかったのだ。もともと人のような感情はないのだろう。ニコライの身に起きたことは契約の不履行の代償。精霊は粛々と契約の解除に向けて動いただけだ。
「お前は魔物を呼びよせたのではなく、契約の解除に伴い、結界を解き、この地の開放を魔物に知らしめた」
――そうだ――
「ならば、お前の用はすんだだろう。リアを返してくれないか?」
本来、契約さえしなければ、黒の精霊は無害な存在なのだ。ただそこにあるだけ。強大な力を持っているが、かかわらなければ人を攻撃してくることはない。ましてや魔物をけしかけたりなどしないのだ。あり方が人とは違う。
ルードヴィヒはその事実に少し安堵した。リアを救えるかもしれない。
魔物が王都を蹂躙しているのではなく、ここがもともと彼らの住む地だったのだ。だから、契約の解除とともに戻ってきた。ただそれだけの事。
アリエデの初代王は聖女の体に黒の精霊を降ろし契約をした。聖女はただの依り代。
この地の契約が解除されれば自由なはずだ。
――リアの魂は、憂いも苦しみもなく、微睡んでいる――
(感情を理解し、精霊がリアに執着している?)
ルードヴィヒは微かに不安を覚えた。
「再度いう。リアを返してくれ」
黒の精霊が不思議そうにルードヴィヒを見る。
ルードヴィヒは、一歩一歩、精霊の元に近づいていく。体が沈みこみそうな強烈な瘴気をあびながら、黒い聖女の目の前で足を止める。艶やかな漆黒の肌にかすかに弧を描く唇。器はリアであるはずなのに、彼女の清らかな美しさを一片も伝えていない。それがひどく悲しい。
――なぜ?――
精霊の疑問符。本当に不思議に感じているようだが、「否」とは言わない。
「リアの体だ。彼女に返してくれ」
――リアはそれを望んでいない――
無機質な声が紡ぐ、身を引き裂くような残酷な言葉にルードヴィヒの瞳が悲しみにくれる。彼は落ちつくためにいったん息をつく。それから、気を取り直し説得を始める。絶対に彼女を諦めない。
「リアはこの国の崩壊を望まない。きっと今の状況を見て彼女は悲しむ」
――それは、新たな契約か?――
感情がなく、冷ややかな黒々とした瞳がルードヴィヒを見つめる。彼は首をふりそれを否定する。
リアは精霊が自分の体を使って魔物を呼びよせたと思うだろう。きっと彼女は自分を責める。
精霊に話しかけても無駄だと悟った。これは人ではない存在。人と人との繋がり、情を理解しない。
だが、諦めるわけにはいかない。
「リア、聞こえるか? 私だ。迎えに来たよ」
直接リアに話しかける。また一歩近づき、硬質な精霊を柔らかく抱きしめた。茨に覆われた彼女の体はルードヴィヒの柔らかい皮膚を刺す。ぷつぷつと白い肌が裂け、穴の開いたシャツに血がにじむ。黒の精霊が宿る人の肌はまるで氷のように冷たい。
しかし、構わずルードヴィヒは愛しい少女をぎゅっと抱きしめ、漆黒の髪をなで、優しく語りかける。冷え切った彼女の体が少しでも温まるように。
「リア、戻っておいで。一緒にヴァーデンの森へ帰ろう。そしてまた二人で暮らそう」
冷たく固い棘の肌を持つ少女を、更に強く抱きしめた。
背から生えた漆黒の翼がふるりと震える。不思議とその翼だけは柔らかく、温かだった。
リアはそのとき暗く、柔らかく温かい場所で、体を丸めまどろんでいた。ここから出たくない。何も見たくない。聞きたくない。
「リア………」
懐かしい声を聞いた気がして、身じろいだ。しかし、もう起き上がるのもおっくうだ。このまま闇に揺蕩っていたい。
「リア」
今度は力強い声がはっきりと聞こえた。
リアは眠い目をこすり起き上がる。
「誰?」
周りを見回すが闇ばかり。
「リア、一緒に帰ろう」
今度ははっきり聞こえた。やわらかな声のする方向に、一筋の光が弱々しく差しこむ。
「あの声はルードヴィヒ様?」
リアは光の見える方向へ目を向け、立ち上がる。
――リアが、いってしまう――
――こころなど、すててしまえばいい――
――こちらへおいで……いとしごよ――
男とも女ともつかない声が、さわさわと心地の良いリズムでリアの耳元に囁きかける。それらは個をもたず、争わない。ここで永遠に生き、微睡めと誘う。
「リア、私の元に戻っておいで!」
はっきりと聞こえる大切な人の声。彼が呼んでいる。求めてくれている。
「ルードヴィヒ様」
リアは今度こそ一歩を踏み出した。
だが、ここは温かくて気持ちいい。何にも煩わされず、誰にも傷つけられることもなく、誰かを傷つけることもない。踏み出すことを躊躇した。
「リア!」
切実な声が響く。悲しくて苦しくて、そんな心の色が声に滲む……魂の慟哭。
(あの人が呼んでいる。悲しんでいる。私に会いたがっている)
そう気付いた瞬間リアは自分が凍えていることに気付いた。ここはなんて寒いの。すごく寒い。寒くて暗くて寂しくて……そう、寂しくてたまらない。
「一緒に帰ろう」
熱のこもった声がさっきより、ずっと近くで響いた。
♢
ふと目を覚ますとリアは、体の痛みとなま温かいものがしたたるのを感じた。誰かかがリアをぎゅっと抱きしめている。苦しい。
ゆっくりと目を開くと艶かな金髪に、懐かしい匂い。誰かの温かい腕の中。
見上げると白い肌に整った顔、しかし、その切れ長な目は閉じていて。
「ルードヴィヒ様!」
彼の長いまつげがふわりと動き、サファイヤの目が開く。
「リア、お帰り」
掠れた声が耳朶に響く。がっしりとリアを抱きしめていたルードヴィヒの体がぐらりとゆらぐ。リアは慌てて彼を支える。
彼のシャツは破れ血だらけだった。リアの肌に触れる生温かいものは彼の血。
「いやーー! ルードヴィヒ様」
驚いたリアはルードヴィヒの体を支え、叫び声を上げる。
「大丈夫だ。リア、心配するな。久しぶりに体を動かしたから、少し疲れただけだよ」
意外にしっかりとしたルードヴィヒの声にリアもなんとか落ち着きを取り戻す。
見ると傷は浅いし、顔色も悪くないし、熱もだしていない。しかし、肌は棘で刺されたようで。
「ルードヴィヒ様! 拷問でもされたのですか」
「ただの擦り傷だ」
取り乱して必死の形相で言うリアを見て、ルードヴィヒがクスリと笑う。
「ルードヴィヒ様、なぜ、笑っているのです。彼らに何をされたのですか?」
リアのアメジスト色の瞳に苦悩の色がありありと浮かぶ。
「何も。大丈夫。君を害する奴らは強い精霊が皆やっつけてくれたよ」
彼女を安心させるようにルードヴィヒは優しく背中をさする。黒翼の名残の黒い羽根がふわりとあたり一面に舞う。リアは状況が把握できず、きょとんとする。
彼女は黒い羽根の中で淡く柔らかい光を放っていた。
表情豊かで、感情的に叫ぶリア。何よりも今の彼女は抱きしめると温かくてやわらかい。それがたまらなく、嬉しくて、ルードヴィヒは笑い出す。
彼女の肌は白く戻り、銀糸の髪はほのかに光を放つ。瞳は青紫色、夜明けの色に澄んでいる。
微笑む傷だらけのルードヴィヒを見て、リアの瞳に涙が膨れ上がった。
「そんなにけがをして何がおかしいのですか。血だらけじゃないですか。私にはもうあなたを癒す力はないのですよ!」
耐え切れずリアは泣き出した。彼女はまだ混乱の中にいる。
「リアは、忙しいな。怒ったり、泣いたり。傷なら心配ないよ。
何も出来なくていい。何もしなくていい。リアはただ私のそばにいるだけでいい。それだけで私は救われる。
私達は助かったんだ。そしてまた一緒に暮らせる。ここは笑うところだよ」
そう言ってルードヴィヒは、もう一度、温かく柔らかいリアを抱きしめた。
ゆっくりと何が起こったかを話していけばいい。呪いも契約も消えたのだから。
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