青州では袁家の兄弟がもめているようだ

 さて俺は鄴城が陥落し、冀州がほぼこちらの勢力下になったこともあって相国の地位から退いて、蓋勲の逃亡によりその席が空いていた太保の位についた。


「聖帝は民を安んじることをまずお考えください」


 俺は現状直接聖帝の思想の教育を行っている。


「うむ、わかった、朕も元は庶民であったからな。

 豪奢な暮らしに溺れるつもりはない」


 ここで素直にうなずいてくれるのはありがたいし、皇太后となった唐姫も余計な口は挟んでこない。


「ありがとうございます、臣も聖帝のために可能な限り力を尽くす所存であります」


「うむ、たのむぞ」


 そして中国においては儒教は統治に便利なものとして後々まで使われるが、その理由は高祖の劉邦と前漢の第7代皇帝である武帝劉徹、そして一度滅びた漢を復活させた後漢の光武帝劉秀のせいだと思うが、やはり形式ではなく、そうしなければならない、またはそうしてはいけないはっきりとした理由がわかるように厳しすぎずゆる過ぎない法を定めていくのは大事だろう。


 青州に逃げた袁家の兄弟についてはもう形勢逆転はほぼありえないので、完全に董旻などに任せることにする。


 もっとも曹操などに、冀州や青州で庶民に重税を課して贅沢させてくれないという理由で俺の下を出奔した廃帝を支持するものが、その少し前に袁紹からそそのかされて俺の暗殺を試みそれは失敗して実行犯たちは処刑されたのだという噂は広めておくが。


 そして史実とちがい袁家救出の功労者であり長男である袁譚が家督を継ぐ事でこのあとはまとまるかというと微妙。


 何故かと言うともともと袁譚は父の袁紹の命で廃嫡されて袁紹・袁術らの長兄で既に死んでいる袁基の養子となり、青州へ派遣されているので本来彼は袁紹の後継者にはなれない。


 しかし青州は袁譚が袁紹より与えられた場所であるというのが問題だ。


 史実では袁紹の死後、袁煕、高幹などは袁尚を支持しており袁紹が冀州に袁尚をおいていたことからも、実質的な後継者は彼だと目されていた。


 なのに辛毗、郭図が強引に袁譚を担ぎ上げ分裂させたのが本当の問題なのだが、ここでさらにややこしくなるのは曹操が一度手を組んだ袁譚が正しいことにしたかったため、書物には衆目も年長の袁譚支持であった、審配らは袁紹の遺言を偽造し袁尚が後継を宣言したと記されているのも問題だろう。


 なお沮授は袁紹に対して「袁譚どのを養子として後継者から外し、そのうえで青州に赴任させることは、災いの始まりです」といっているが彼は袁尚より先に死んだので、袁紹の死後にそのどちらを支持したかははっきりしないが、息子の沮鵠は袁尚に従っている。


 とは言え袁紹の家を継承することが出来ない袁譚がいずれ袁尚に敵対する可能性が高いことはわかっていただろう。


 袁紹と袁術もそんな関係だったからな。


 ともかく史実において曹操は袁紹の死後に攻めてきたが袁譚と袁尚は一度協力して曹操を撃退した。


 しかし、袁譚が今こそ力を合わせて曹操を追撃すべきと袁尚に提案したが、袁尚サイドは袁譚に兵をやれば反乱するのではないかと疑い拒絶し、郭図・辛評の助言・後押しを受けた袁譚が、鄴城外門へ先制攻撃を仕掛けて、袁譚とその他の兄弟の対立が決定的となったが、反撃に転じた袁尚は、袁譚を撃破。


 これにより袁譚は曹操への一時降伏をした。


 曹操軍が北上すると、袁尚は慌てて鄴へ引き返したが、呂曠・呂翔が曹操・袁譚に寝返った。


 袁尚は袁譚を攻撃したが、曹操がその隙を衝いて、審配の守る鄴を包囲し、袁尚は鄴救援に引き返してたが散々に撃破され曹操への降伏も拒否されたため、中山へ逃走した。


 此の時、袁尚、袁煕、袁買(四男)、高幹は連携しているが、袁譚のみ敵対していた、結局袁紹の後継は、袁尚ということでまとまっていたのだ。


 曹操は尹楷をやぶり、并州の高幹からの援助を断絶させ、邯鄲をぬいて、幽州の袁煕からの援助を断絶させ、その後補給の宛がなくなった鄴は陥落し審配は処刑され、さらに袁尚は中山でも袁譚に撃破されその軍勢は袁譚に吸収され、さらには袁譚に甘陵、安平、勃海、河間をうばわれ、冀州の大部分を取られたが、これを曹操が盟約違反と袁譚を攻撃して袁譚はここで戦死。


 その間に袁尚と袁買は幽州の袁煕を頼って逃げ延びたが、袁煕軍の焦触・張南に裏切られ、さらに逃げ烏桓を頼って、遼西に逃走した。


 遼西に進軍してきた曹操を、袁煕・袁尚・袁買は烏桓王蹋頓らと柳城で迎撃したが敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ち延びた。


 しかし曹操を恐れた公孫康は、到着した袁煕・袁尚・袁買を取り押さえて斬首し、首級を曹操のもとに送り届けた。


 これで袁一族は滅亡し、それらとは別に曹操に降伏した高幹も後に反逆したが敗北し、劉表を頼って落ち延びようとしたが、その途中で殺害されている。


 ちなみに青州は済南国、平原、楽安国、北海国、東萊、斉国の6つの郡があるが、史実では199年に臧覇が東側の斉国や北海を制圧し、203年に楽進が楽安を平定しているので、西端の済南と平原だけが袁譚の実質的な支配地域であったと言っていい。


 一番東の東萊は黄巾残党らを袁譚が官位で手懐けている程度であったが、東萊太守の管統は袁譚の味方をして、妻子を捨ててまで袁譚の元に駆け付け、楽安太守に任じられているが彼は報われることはなかった。


 東萊は袁譚に反抗する勢力が多く、掌握しきれていなかったのが実情だったようだ。


 で、現状だが袁譚の実質的勢力圏は西側の済南国、平原、楽安国の3つ。


 で落ち延びた途端に袁兄弟はやはり内輪もめを始めたようだ。


「現状無理に青州をせめるよりは冀州を落ち着かせて、また兵站線をきっちり作るべきだな。

 民衆への炊き出しや今年は税を取らないことも含めて無理な出兵は控えるべきだろう。

 兵の半分程度は冀州に残して半分は戻すべきだろうな」


 もっともあちらの兄弟のだれかが和睦をこうて直接使者となってこちらへ赴いてくるかもしれないし、逃げるために海を渡って朝鮮半島や日本へ逃げるかもしれないが。


 そうなったら始皇帝の末裔を称する秦氏はたしや霊帝の末裔を称する東漢氏やまとのあやしのような存在になるかもな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る