結局漢という国の根本的な問題は形式第一主義

 さて、忠臣による皇帝救出作戦は無事成功し、張邈に釣られた王允や蓋勳のような天子第一主義者はほんの少しの私兵を連れて南陽から脱出していった。


「連中に途中で死なれても困る、関などでは”天子の意向”を重んじて冀州までは通して差し上げるように伝えろ」


「かしこまりました」


 史実では洛陽から逃げ出した袁紹や曹操や袁術が捕まらないで遠くまで逃げられているのは関所のチェックがザルだからと言うのもあるだろうが、関所のない脇道などもたくさんあるということでもあるんだろう。


 史実の袁術は敗戦続きの上に暴政が原因で袁紹を頼ろうとしたし、袁紹は青州の袁譚に命じて袁術を迎え入れようとしていた、曹操はこれを阻止するため、徐州に劉備と朱霊を派遣しており、袁術は灊山せんざんにいた元部曲の雷薄・陳蘭を頼ったが二人に受け入れを拒絶され、結局病死したが病気でなくとも餓死した可能性はある。


 でまあ、霊帝がなぜ権威を守ればいい、民衆が反乱を起こすなら兵に討伐させればいいと思っていたのかと言えば結局それは高祖の劉邦と前漢の第7代皇帝である武帝劉徹、そして一度滅びた漢を復活させた後漢の光武帝劉秀が原因だと思う。


 儒教が論語の精神はうわべばかりで仁義礼智信というものを支配者にも被支配者にも求める高尚な精神をうたいながら、結局は己の立身出世のための手段でしかなくなり、実用的でなく根拠も少ない婚儀や葬儀などの儀式の期間を守る形式に走り、どんな愚鈍な君主でもまつりあげる権威主義に陥ったのは劉邦が用いた酈食其れきいき叔孫通しゅくそんとうと蕭何の影響だろうかと思う。


 漢の高祖である劉邦は言うことを聞かない臣下への権威付けのために叔孫通しゅくそんとうという人物を用いたのだが、この人物は保身と出世の能力に長けた人物で最初は秦に仕えて、二世皇帝胡亥の時に陳勝が蜂起すると、二世皇帝が儒者を呼び出して意見を尋ね「人臣に未遂というものはありません。反乱をしようと思った時点で反乱をしたのと同じです。急ぎ兵を出して反乱者を討つべきです」と答えると、二世皇帝はそのものに対して怒ったのだが、叔孫通は「かの者の言うことは誤りであります。天下が一家となると、城壁を破壊し武器を溶かしてこれらを使わないことを示しました。名君が上におり、法令が整っているのだから、どうして反乱者などおりましょう。これは盗賊が群れを成しただけであり、どうして憂う必要がありましょうか」と言って皇帝におべんちゃらをつかった。


 そして二世皇帝の胡亥は陳勝を反乱と言った者は罪人として獄に下し、盗賊と言った者は助け、叔孫通には褒美を与え、首席博士としている。


 処世術としては正しいが、彼は現実を捻じ曲げて皇帝におべんちゃらを言って難を逃れた秦から逃げ出した。


 その後、項梁が薛へ来ると叔孫通は彼に従い、項梁が敗れ死ぬと懐王に従い、項羽が懐王を義帝として長沙に遷すと、叔孫通は項羽に仕え、劉邦が諸侯を従えて楚の都彭城を落とすと、叔孫通は劉邦に降伏した。


 そして劉邦は儒者を憎んでいたので、叔孫通は儒者の服を止めて楚の服を着た。


 酈食其が、劉邦と面会したときには召使の女に足を洗わせながら酈食其に面会するという無礼な態度に出たことに対して酈食其が「年長の者にそのような態度をとるべきではない」と一喝して、劉邦もそれに従ったが内心は面白くなかっただろう。


 なので、叔孫通が儒者の服を止めて楚の服を着たことに劉邦は喜んでいるが敵であったものが降伏したという自尊心を叔孫通は満たさせたわけだ。


 そして劉邦による中国大陸の統一の前に酈食其は斉で釜茹でにされて死んでるが、叔孫通はおとなしく劉邦に従っていた。


 そして劉邦は秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈かつ人治的な曲解も多用された法律を廃止して“法三章”を宣言した、これは「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の3条のみに改めたもので、この施策によって関中における劉邦の人気は一気に高まったが、平和になったあと臣下の者が朝廷での宴会の際に自分の功績を誇り、酔って叫びだしたり、柱に斬りつけるなどということを行ってもそれを罪と出来ず、劉邦はそういった行動ををする臣下に対して対処することが出来ずに悩んでいた。


 そこで叔孫通は「儒者は進取には役立ちませんが守成には役立ちます。魯の儒者と私の弟子たちで朝廷での儀礼を制定させましょう」と申し出で、劉邦が「それは難しくないか?」と聞くと、「礼は王朝と共に変わるものです。古の礼と秦の礼を抜粋した簡便なものとしたいと思います」と答え、劉邦は「ならば私にもできるようにしてくれ、絶対に難しくするなよ」と言ったのだ。


 そして叔孫通は実際に劉邦にもできるように儀礼を制定し、劉邦にそれを教えて見せ、臣下にもその儀礼を習わせた。


 そしてその後に諸侯、群臣と朝廷で祝賀会を執り行うと、この儀礼に従って儀式が行われたが、諸侯王以下は皆形式上は劉邦を恐れ敬い、儀礼の通りにしない者は御史が強制退去させたため、宴会の際にも礼を失する者はいなかったということになるわけで、これにより叔孫通は出世し弟子も同じように出世したのだがこれは仏作って魂入れずというべきで叔孫通は統治者には徳が大事であるという儒教の核となるべきものを一切言わなかった。


 要するに元の部下の扱いに困った劉邦の悩みにつけ込んで、劉邦や家臣たちに徳というものがなにかというものを教えずに、形を守ることだけを教え込んだことで、漢の儒教は核となる徳による統治という部分を消し飛ばしたのが、他人に媚びへつらい出世するのが上手な叔孫通のやったことなわけだ。


 そして儒教は漢の歴代の皇帝にとっては非常に便利であったため、後の武帝や後漢の光武帝も積極的に取り入れた。


 前漢の武帝は董仲舒とうちゅうじょを抜擢し、儒家以外の諸子百家を排斥して儒学を国家教学として据えるよう献策し、武帝はそれを受け入れた。


 武帝より前にすでに官吏候補を推薦させる制度は存在したが、これは察挙と呼び皇帝からの命令によって行われるものを詔挙とよび、その推薦基準となる項目を科目と呼び、賢良(才能・人格が優秀)・方正(行いが正しい)・文学(書物をよく読み、勉強している)・諫言(目上の人を正直に諌める)などがあった。


 武帝は「法家および縦横家の学を治めたものはこれより除外する」と決め、董仲舒の提言によって毎年各国や郡に命じて孝なる者と廉なる者各一人を察挙させ、これによりに官司への儒家登用の確率が上がり方正や諫言といった項目は重要視されなくなっていく。


 さらに察挙科目に秀才が加えられたが、これは儒学をよく修めた者を対象にするものだった。


 以降、中国の歴代王朝では官僚は儒家の経書とされる五経を学ぶことが条件とされ、また五経の解釈は国家が定めるものを正統とされることになった。


 また董仲舒は、官吏採用制度である郷挙里選や、大土地所有を制限すべきであるともしているが、董仲舒によって災異と結びついて神秘主義的な側面を強め、天災や怪異は、統治者が徳を失い天命を全うできていない天子を戒めるために天が起こすものだという讖緯説しんいせつがつくり出される。


 そしてこれが、王莽の簒奪の根拠となり光武帝も皇帝に即位する際にそれを利用したのである。


 なお王莽は奴婢は儒教的によくないという理屈により奴隷解放をしたが、奴婢を解放して何が良くなるのかという現実を考えていなかった。


 光武帝は統治者としても武官軍人としても欠点らしい欠点のない人物ではあったが、彼は劉邦の末裔であっても、実際は名ばかりの貧乏人であり、本家筋の劉氏とはあまり関わりがなかったことから、儒教に頼ってしまったあたりに人間らしい欠点を感じられるとも言える。


 光武帝は皇帝も法に従うものとして自らを律し、最期まで権力の毒に抗い続けたのだがそれは彼であればこそできることであった。


 そして劉秀は『劉秀当に天子と為るべし』という予言が彼の帝位の唯一にして最大の拠り所であったため、讖緯説に疑義を呈した人間は容赦なく排除されたが、それは自分の皇帝位の正統性に対する自信のなさの表れでもあったろう。


 光武帝の施策の政治的・思想的特色のひとつとして儒教を振興し、学制・礼制をさらに整備させたことが挙げられ、官吏登用制度たる郷挙里選においては孝行・廉潔を旨とする孝廉の科目が今まで以上に重視されるようになった。


 そして光武帝は伝統的な孔子観を一変して孔子を神格化し、孔子の故郷である曲阜で孔子を盛大に祀って、孔子の祭を国家事業とした。


 また民間にも儒教を浸透させるために親孝行を為した民衆を称揚したり、法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりした。


 光武帝は三公らに毎年一定数の孝廉の合格者を推挙するよう規定し、それによって孝廉の合格者は特別な存在になって儒教が事実上国教化され、後漢の第2代皇帝である明帝も同じように儒教主義によって国内を治めたがそれが形式主義となるのにさほど時間はかからなかった。


 本来であれば、きちんと法を整備するべきであったし、酈食其は劉邦に天というものは何かということを何度か説明していたがそれは伝わらずに、統治者が徳を必要とするという認識もなく、ともかく儀式の形式だけ整えればいいとしてきたことで、当然統治に致命的な現実との齟齬をきたして後漢を崩壊させた。


 もっとも漢が滅ぶ前兆は劉邦の死後に劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたるのだがそれにより呂太后の専横を許し恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王とその生母戚夫人を殺害し、これに激しく落胆した恵帝が政務を放棄し、酒に溺れ間もなく死去、遺児である少帝を立てたものの、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝を殺害して劉弘(後少帝)を立て、劉邦恩顧の元勲たちからの反発を買い自らの暗殺を不安視したために、ろくに仕事をしなくなった。


 そして呂后の死後に陳平や周勃が、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにした上で、恵帝の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立し、これが文帝であるのだが、文帝擁立の前後には少帝弘は、恵帝の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由によって、恵帝の子とされていた常山王劉朝(軹侯)、淮陽王劉武(壷関侯)らと共に暗殺され、呂后の妹の呂嬃は鞭打ちの刑で殺害され、呂嬃の息子の樊伉も殺害された。


 結局こんなことをやっている国が長く持ったほうが不思議とも言えるが、とにかく形式を守らせることで統治や軍事の能力がなくても、血筋的に問題がなければ皇帝は一番上に立てる事ができるシステムというのは皇帝には実質的な政治や軍事の権限を持たせないで外戚や宦官などが傀儡政治を行うには便利であったとも言える。


「これもなんとかしたほうがいいとは思うんだがな」


 形式主義的中央集権国家は見ただけだと立憲君主制に近いようにも見えるが、実際には権力者の権力が制約を受けるわけでもなく、人民の声が全く届かないところに問題があると思う。


 とは言え人民の声を聞きすぎれば衆愚政治となるわけで、統治というのはなかなか難しいのではあると思うが、儒教的形式第一主義というのは改めるべきであろう。


「酈食其のいった”王者とは民を天とし、民とは食を天とするもの、さもなくば農夫が田畑農具を棄て食料が得られなくなり、工女が機織りをやめ衣類も手に入らなくなることで、天下の心が安定できなくなる”という言葉は統治者にとって役に立てるべき言葉だと思うがな」


 為政者にとって大事なのは民の衣食住を最低限保てるようにすることだと思う。


 無論、外部侵略への対策としての軍事や治安維持のための警察などは大事なのだが、それは民を飢えさせないようにした上でというのがもっと大事なんだろうと思う。


 霊帝はそれを理解しなかったから権威付けのための宮殿の修復のために黄巾の乱の翌年に増税したりしてるわけで本末転倒だよな。

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