黎陽降伏

 黎陽付近で行われた戦いは董卓軍もそれなりに死傷者を出したが、半包囲されその結果ほぼ殲滅された袁紹軍の降伏した兵を合わせれば十分に兵力の補填は可能であった。


「よし、黎陽へ降伏の使者をおくれ」


 総大将であり大将軍である董旻は部下へそのように指示を出す。


「はっ!」


 この時代に限らず古代や中世では、勝利した側が敗北した側の兵や勝ち馬に乗りたい周囲の中立勢力を吸収して戦いの損害以上に兵が増えるのはよくある。


 ただしそれにより兵站が破綻することもよくあったから、古代や中世の中国では降伏した捕虜がそのまま生き埋めにされることもよくあった。


 降伏されてても食料に余裕がない場合はそうせざるを得ず、さらにひどい状況だと降伏したものを食べるなどということも行われるが、これは中国だけでなく西洋では十字軍なども行っている。


 そして、獄に入れられていた田豊は曹操の調略を受けた元部下の手引きによって脱獄した。


 史実では、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗し、兵士たちは”もしも田豊がいたならば、こうして憂目を見るまいに”と泣き、それを見た袁紹は部下の逢紀に”冀州の人は我が軍の敗北を聞いて、私を案じているに違いない。田別駕は人々と異なって、前に私を諫止してくれた。私は彼に合わせる顔がない”と言ったが、逢紀はもともと田豊と不仲で、それまでも田豊のことを悪様に言っており、袁紹が田豊の意見を信用しない一因になっていたのだが”田豊は将軍の退却を聞くと、手を打って大笑いして、自分の言葉が的中したと喜んでいます”と讒言したが、それを真に受けた袁紹はついに田豊を殺害してしまったといわれている。


 しかし、袁紹が田豊を殺害したり沮授の権力を縮小したのはおそらく両名が冀州の名士であり、敗北した自分や息子たちに変わって、冀州の人民が彼らを担ぎ上げる可能性があったからではないかと思われる。


 荊州南陽郡出身の逢紀や許攸、豫州潁川郡の郭図や辛評は袁紹と同じくよそ者であるが、田豊や沮授は冀州を地元としており州の人々から重んじられてたからだ。


 袁紹は基本的には常に冷静で感情が希薄であり、猜疑心が強いというよりも独裁者気質で自分の意向に逆らうものはよしとしない。


 それでも公孫瓚を滅ぼすまではそういった面はまだあまり表に出なかったが、官渡の戦いでまず沮授の兵権を縮小し、さらに沮授の兵糧守備の懸念表明を斥け、許攸の許都を襲撃も受け入れず、それに加えて家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで許攸は曹操のもとへ走って烏巣に宿営している淳于瓊が守る兵糧輸送隊の守備が手薄なことを教えて、烏巣にいる淳于瓊が襲われたことを知った袁紹軍内では、郭図が”この間に曹操の本陣を攻撃すれば、敵軍は必ず引き返すでしょう。そうすれば、援軍を出さなくても解決できます”と言い、張郃は”敵陣は堅固なので勝てません。それよりも早く淳于瓊を救援するべきです”と言ったが、袁紹はこれに対して両方の作戦を採用し、軽装の騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援させ、張郃・高覧に重歩兵を率いさせて曹操軍の本陣を攻撃させたが曹操は淳于瓊軍と救援の袁紹軍軽騎兵隊を撃破し、兵糧を焼き払った。


 さらに烏巣救援を主張した張郃・高覧をわざわざ曹操軍の本陣強襲に向かわせるという袁紹の無神経な指示とも言える指揮と曹洪による固い守りにより張郃と高覧は袁紹を見限って曹操に帰服してしまった。


 一般的には袁紹は優柔不断で決断力がなく逆に曹操は決断力があるという認識をされることが多いが、どちらかといえば逆で、袁紹のほうが我が強くて他人の感情もわからずそれ故に軍師のいうことを聞かないのに対して、曹操は窮地に陥るたびにに弱音を吐いては、荀彧や郭嘉にそんな弱音はいてないでもうちょっとがんばりなさいと言われて、ならわかったなんとかするといって、軍師の言うとおりに実際頑張ってるという感じでもあった。


 それはともかく田豊の脱獄と実質的な離反、野戦での大敗と沮授の捕縛、袁尚の逃亡と審配の戦死により指揮官を失ったことで、残った黎陽の守備兵は降伏し門は開かれた。


「暫くはこの黎陽の防衛と兵站機能の整備を優先せねばな」


 董旻がそう言うと呂布もうなずいた。


「黄河が凍って馬や大車(輜重車)が直接渡れる間はいいが、氷が薄くなりしかも船がまだ動けぬ時期に食料が不足しては困りますからな」


 呂布の言葉に董旻はうなずいて言う。


「ああ、それに今無理して兵を進め結束させるよりも、袁紹の陣営内での内輪もめを起こさせたほうが良かろうし、それは曹(操)孟徳が今もすすめているだろう」


 呂布は苦笑していった。


「あの御仁が味方でよかったと思いますな」


「全くだ」


 そんなやり取りを麴義は悔しげに聞いていた。


「なるほど呂(布)奉先は強いだけの男ではないようだ……」


 そして実際に郭図・辛評と逢紀・許攸らの対立は深まり、黎陽へすぐに兵を派遣するか鄴まで引き込んで迎撃するべきかで意見を割っていた。


 それ以前に冀州北部での劉備一行による後方攪乱や曹操による豪族の調略により反乱が各地で起こり袁紹陣営は進退極まりつつあったのだが。

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