黎陽の戦い

 かくして董卓軍5万と袁紹軍5万は黎陽の南方で激突した。


 史実の三国志における戦いでこの規模の戦いは夷陵の戦いがある程度で、官渡や赤壁は攻撃側と防御側の戦力差が2倍以上の戦力差があるし、それより以前の戦いは兵数が一桁少ない。


 だが、夷陵の戦いは劉備軍五万に対して呉軍も五万というほぼ互角の兵数で行われている。


 夷陵の戦いは関羽と曹仁らの間の樊城の戦いに呉が介入、関羽に反感を抱いていた守将の糜芳と士仁らを裏切らせ、結果として関羽を殺した事に対し、その復讐のための戦いと思われているが、荊州を失うことは国力と南北の交易の中継拠点を失うことでもあったため、経済的、国力的な面からも荊州奪還は必要であった。


 劉備は緒戦は破竹の勢いで諸城を陥落させ快進撃を続けたが、それは呉の諸将も実戦経験があまり無い陸遜に対して懐疑的な態度を示して素直に従わない面も見られたことも大きかった。


 しかし、官渡の戦いでは袁紹軍が優位に戦いを進めていたのに烏巣の食料貯蔵地を焼かれたことで敗北したように、夷陵の戦いでは陸遜が蜀の補給線が伸び切ったところで食料貯蔵地への総攻撃を開始。


 敵陣に火計を仕掛け40以上の陣営を陥落させ、慌てて劉備は撤退しようとしたところに呉軍の追い打ちを受けて蜀軍は潰走、馮習や王甫、張南、傅彤、程畿、馬良ら有能な武官・文官が多数戦死し黄権も魏に投降、軍船・兵器を多数奪われ、数万人の兵士が荊州で戦死もしくは離散して失われてしまった。


 劉備は救援にきた趙雲らに助けられたことで辛うじて白帝城に逃げ込んだが間もなく病死し、この夷陵の戦いによる蜀の被害は著しく、蜀漢は荊州を完全に失ったがそれ以上に大きかったのが補填が効かない人材の損失であった。


 官渡の戦い、赤壁の戦い、夷陵の戦いはすべて攻撃側が防衛側に破れているがそれだけ大軍を持って敵国へ攻め込むというのはたやすくないということであった。


 故に袁紹が冀州まで攻め込ませてそこで決戦を挑むという考えを持ったのは戦略としては決して間違っていなかった。


 しかし、曹操が袁尚の息子たちと戦った時のように防衛側が内部分裂を起こしている場合や蜀が滅亡したときに姜維が遠征用の兵を補填するために、漢中の要塞陣地を片端から撤去してそこから兵を引き抜いたりして防備がまともに出来ない状態にしていたりする場合はまた別であるが。


 劉表の死後に荊州はあっさり降伏しているが、徹底的に戦えばおそらく曹操は荊州を手にするのは難しかったのではないかと思われる。


 その点では攻め込む董卓軍のほうが意思の統一が図られているのに対して、袁紹軍は袁紹の猜疑心の強さとそれにつけ込んだ郭図の献策により防衛側の諸将の意思はバラバラであった。


「敵左翼には麴義がいると聞く。

 それに対応するためにこちらの右翼の布陣を厚くするべきだ」


 審配はそのように提案した、これには彼が麴義の処刑に賛同していたという私的な理由もあったが、公孫瓚との戦いで麴義の上げた戦果が特に目立つものであったのも事実だった。


「いや、董卓の配下として長年戦ってきた呂布の方が脅威だ。

 それに対応するためにこちらの左翼の布陣を厚くするべきだ」


 沮授はそのように反論する。


「では右翼左翼の双方を厚くして対処すればよいではないか」


 袁尚は二人の間をとってそういった。


「いけません、それでは中央がまっさきに崩れます」


 沮授がそのように言うと袁尚は言った。


「で、あれば麴義を優先して対策したほうが良いであろう。

 兵も麴義の強さはよく知っているはずだ」


「……そうでございますな」


 沮授はそう言わざるを得なかった。


 そして董旻が大声で指示を出した。


「全軍前進!敵陣を押しつぶせ!」


 董旻配下の諸将がその指示を配下に向かっていうと、隊伍を乱さず動き出した。


 そしてある程度前進し弓の射程範囲に入った所で新たな指示が出る。


「三列、四列は弓を射よ!」


 先頭から三列目と四列目の弓を持った者たちは弓に矢をつがえて敵の上方へと曲射を開始する。


 右翼の呂布は高順へ歩兵の指揮権を委ねる。


「押しつぶした後の側面攻撃は任せる」


「は、おまかせを」


 中央が弓合戦となって速度が落ちたところを、盾を持たずに長槍と投槍を携えた歩兵が前進し、敵の左翼と接敵する。


「押せ押せ!」


 董卓軍は中央と右翼で半包囲に近い状態になり、そこへ騎兵が猛然と機動して相手の横合いから合成弓である単弓をいかけた。


 ”うわあっ!”


 一方左翼の韓遂も兵を前進させていたが、韓遂と麴義の間にはまだ意思疎通が十分でなかった。


 麴義は前進してきた袁紹軍の右翼騎兵を圧倒し、これを壊走させたが、歩兵部隊に多数配備されていた弩の応射を受けて少なからぬ被害を出した。


「くそ、俺のやり方を真似しやがって」


 一方、呂布率いる軍右翼の騎兵も袁紹軍の左翼の騎兵をあっという間に蹴散らしていった。


 董旻はその様子を見て指示を出す。


「中央は押されているように見せかけ後退、両翼は前進せよ」


「はっ」


 袁紹軍は左右両翼での戦闘は押されているが中央では優勢だと認識した。


 袁尚は指示を出す。


「中央を突破してて本陣を潰せばこちらの勝ちだ!」


 袁尚の指示により中央戦列は押し本陣へ肉薄していると錯覚させられた。


 しかし、戦列両翼においてはガッチリと受け止めたため、袁尚軍中央はV字になりつつあった。


 董卓軍右翼の高順の兵は袁紹軍左翼を圧倒し半包囲状態へ持ち込み、そこへ呂布配下の騎兵が 縄で肩にかけた馬槊を持って後方より突撃した。


「おおおおお!」


「うわあああ!」


 後方を突かれた袁紹軍は内側へと逃げ出した兵により極度に密集し包囲下に置かれた袁紹軍は総崩れとなり、右翼側から逃げようとしたがその背後から弓を射駆けられて逃げることも中央突破もできずに袁紹軍は殲滅されることとなった。


 この戦いによって袁紹軍はおよそ2万人の死者とほぼ同数の負傷者を出し、残りの者も多くは降伏した。


 袁尚はなんとか逃げ出したが、沮授は捕らえられ、審配は戦死した。


 一方の董卓軍の損害は3千人ほどであったが、その大半は中央の歩兵部隊であった。


 この戦により袁紹軍は大きな損害を受けた。


 そして更に袁紹へ打撃を与えることが起こった。


 投獄されていた田豊が曹操の手によって連れ出されたのである。


 無論これには田豊の配下など彼の支持者たちの手引きもあったのだが、沮授と田豊、審配を失ったことで、郭図・辛評と逢紀・許攸らの対立が深まることになる。

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