黎陽の攻防の始まり
この時代に限らずユーラシア大陸では、都市そのものを壁と濠で囲う城塞都市もしくは城郭都市のほうが一般的だ。
日本は奈良時代に中央集権的な律令国家になるが、この時に中国の都城制の概念が輸入され、新羅の日本への侵攻もありえたため平安京や平城京などは城門や望楼が設置されていた。
しかし、地震や火事が多い日本ではそれらは破損・焼失することも多く、藤原氏が国家権力を私物化していき朝廷の収入が減っていくとともに、平安京を攻撃する敵対的な外部勢力の存在も不在となっていたためにいつしかそういったものは失われていった。
戦国時代も後半になると、平地の城が戦国大名の領国経営における支配中枢拠点としての重要性を増し、小田原城などに見られるように三の丸の城下町の周囲に自然の河川や堀、土塁を配した「総構え」という外郭構造が取られる城郭も現れた。
なお中国の都城郭都市の発展だが、最初は小高い丘に支配者の城塞が築かれ、その周辺に人民が散居する山城式が成立し、次第に平地の城の回りを濠や壁で囲った城主郭従式が現れ、さらに内側の城の城壁を強化し城壁が二重構造となる内城外郭式と、内城の城壁がはっきりしない城従郭主式へと並行的に変化し、最終的には城壁が外郭だけになる城壁式となっていった。
内城外郭式は春秋時代までに多く、城壁式は戦国時代以後に増えていったが、漢代にはほぼ城壁式となっている。
そのため籠城戦の際は都市の住民もその中に当然含まれるわけで、早ければ1ヶ月、大抵は2~3ヶ月、長くても半年も経てば食糧が尽き、場内は飢餓地獄に陥って家族を交換して食べるような共喰いがはじまって、住民が立てこもっているものを襲って殺したり、城門を開いたりして結局は籠城側が負けることになる。
公孫瓚が長い間立てこもった易京は中に農地が作ってあるというかなり例外の場所である。
史実における曹操による袁尚の本拠地の鄴攻撃でも2ヶ月ほどの籠城戦で大量の餓死者が出ていた。
当然、鄴の住民はそんな袁尚をよく思わなかったから、彼はその時点で巻き返しができる見込みをほぼ失った。
それもあり基本的には最初から城塞に立てこもるということは、よほど数の差や装備に違いが大きい時でなければ行われない。
袁紹より迎撃の命を受けた沮授も審配も当然最初から籠城するつもりはなく、長距離を行軍してきて疲労し食料の補給も十分でなくなるであろう董卓の軍を十分引き寄せて撃退するつもりであった。
これはこの当時の考え方としては理にかなったものであり、遠征する側の兵が多ければ多いほど、そして距離が長ければ長いほど攻撃側が不利になった。
しかし、董卓は騎馬には鋼の鐙を取り付け、歩兵には脚絆やしっかりした履物を支給していたため、董卓の配下の将軍たちや兵士の疲労は袁紹の配下が思っているほどにはひどいものではなかったし、補給線の構築とその防衛にも万全を期していた。
史実における官渡の戦いの本質は、兵糧と士気をどちらが相手よりも長く維持できるかであった。
実際、袁紹の敗北が確定したのは白馬などでの戦闘による敗北ではなく、烏巣の食料を焼かれたことによる兵站維持の失敗による敗北である。
その時点では袁紹による兗州への侵攻をしのいだというに過ぎなかったが、袁紹が田豊を処刑したりしたことで袁紹の人望は大きく下がったし、それにより冀州での反乱の鎮定に忙殺されたことなどもあって袁紹はすぐさま病死することになった。
実際に三国志のゲームでは袁紹陣営という敗北下側の陣営にいることから、田豊と沮授の能力はあまり高いものではないが、史実においては計略の才能は張良と陳平にも等しく、更に沮授の軍事的才能は韓信にも等しかったと後に評価されるほどの人物であった。
だが袁紹は有能な人間が功績を上げ続けて権限を強くし、自分と違う意見をすることを好まなかった。
麴義・田豊・沮授などに対する袁紹の対応などに、それが如実に現れていると言えるだろう。
袁紹は自分の権力を維持するために家臣の権力を程々に分裂させたが、これが袁家滅亡の一つの要因でもあったのだ。
実際この時沮授にあたえられた兵数は5万で、冀州の人口であればもっと多くの兵を集めることはできたのだが、郭図の”沮授は内外を統轄して、声威は三軍に轟いています。もし、力を得てその権限が君主並になれば、亡国に繋がります。その上、外部で軍を統御する者を、内政に関与させてはなりません”という袁紹への進言により沮授の持っていた内政の権限全てと軍事の権限を半分を取り上げられ、それを郭図が与えられていたのであった。
「勢いがあれば威力はあらゆるものに及ぶが、これを失うと一身すら保てない。しかし、上(袁紹)はその野心を満たそうとし、下(郭図ら)は功を挙げようとはやっている、私はもう帰れないのか……」
と沮授は嘆いていた。
沮授と審配はどちらもよくいえば剛直、悪い言い方をすれば頑固で融通の聞かない性格であったが考え方も合わず仲が悪かった。
こういった組み合わせで戦わせようとするあたりに袁紹や郭図の意図がみえていた。
「それでも負けるわけにはいかぬ」
沮授は悲壮な決意で董旻を総大将とする董卓の軍勢と対峙した。
一方の董旻の遠征軍だが総大将は董旻その副官は徐栄、ともに戦うのは呂布と高順、韓遂と麴義らである。
董旻は言った。
「正面を俺が横陣で進み主力を押さえつける。
(呂布)奉先は右翼よりと(韓遂)文約は左翼より騎馬で横撃を加えてくれ。
それだけで敵は崩れるだろう」
呂布はうなずく。
「うむ、任せてもらいたい」
韓遂もうなずいた。
「わかった、(呂布)奉先に動きを合わせよう」
韓遂は西涼出身の人物としてはあまり戦争に強くなく、おそらく本質的には軍人じゃなくて政治家向きな人物であったのだろう。
そこで声を上げたのは麴義であった。
「ならそれは俺に任せてほしい。
そして奉先将軍に勝る働きをみせてくれよう」
麴義の言葉に韓遂は少々苦笑いであった。
「この場は各自の優劣をつける場ではなく、皆で力を合わせて勝利を得るための場だぞ。
とはいえ名を挙げる機会であるのは間違いないし、軍事的な才能は私よりずっと上であろうからまかせるよ」
麴義は韓遂に頭を下げた。
「は、必ずや我らに勝利を!
麴義が呂布をライバル視しているのは間違いないが、呂布は麴義と個人的な手柄を争うつもりはサラサラなかった。
そのような状態で黎陽の攻防が始まるのである。
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