初平2年(191年)
公孫瓚はだいぶ追い詰められているようだな
さて、公孫瓚と劉虞の仲が完全に破綻して劉虞が公孫瓚を包囲したのに、公孫瓚によって劉虞が捕縛されて最終的には処刑されるという、ちょっと聞いただけでは意味がわからない状況が幽州では起こった。
そしてその間に初平2年(191年)へ年は移り変わった。
公孫瓚は劉虞の臣下であったものも次々に処刑していったようだ。
その状況を袁紹は当然利用する。
劉虞の旧臣の
これに対し打て公孫瓚は漁陽郡太守の
鄒丹は援軍を要請するが公孫瓚はそれを無視、数で劣り劉虞の復讐に燃える連合軍の前に鄒丹は敗れて斬られた。
そして袁紹は劉虞の子の劉和を公孫瓚討伐軍の旗頭として擁立し、その下に麴義を付けて、鮮于輔らを支援し、公孫瓚の本拠地である
劉和を旗頭とする袁紹軍の襲来に対して公孫瓚も薊から兵出して、両軍は
この戦い以降、公孫瓚は配下などへの疑心暗鬼が深まって二度と易京から出ようとしなくなった。
現状ではまだ滅亡したわけではないが事実上公孫瓚は滅んだも同然になってしまったのだな。
一方の袁紹は、この戦いで事実上幽州西部を手に入れ、かっての劉虞の部下たち、鮮卑や烏桓と言った北方の異民族も自分の支配下に置くことに成功した。
こうして袁紹は北方の雄として天下にその名を響かせることになるわけだ。
と言っても易京では大規模な屯田を行い大量の食料を自給して、壕を十重に堀り巡らせて、その後ろにはそれぞれ高さ五丈もの土山を築き、 土山の上には物見櫓を張り巡らせ敵襲に備えた。
しかし公孫瓚は自ら居住する場所には女子供のみを住まわせ、公文書は紐で吊り下げさせ、7歳以上の男は決して近づけさせないようにした。
そして公孫瓚は州内の優秀な人材を見つけると、必ずその人物を法で罰して困窮に追いやった。
それによって公孫瓚の部下は凡庸で不公正な人物ばかりとなって更に人心は離れていった。
さらに城の外で味方が敵に包囲されていても公孫瓚は援軍を送らなかったので、次々に袁紹に降伏していく、そのため袁紹軍は易京をたやすく包囲できたがやはり暫くの間攻めあぐねることになったようだ。
「ふむ、なかなかにしぶといな」
俺としては兵に対しての鎧の製作や長弓兵の訓練時間、街道や運河の整備などにまだしばらく時間を要するので助かるがな。
そうしながらも徐州の臧覇の元へ孫堅などを送って、徐州の北部から袁紹の勢力を追い出しつつも、有能な人物である
「まあ、焦ることもあるまい」
俺も、もういい年齢だが袁紹もそうだしな。
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