光和3年(180年)
中国全土に反乱の火の手が上がってるな
さて光和2年(179年)の4月王甫が殺害され、段熲も毒を飲んで自殺して、それにより段熲の推薦で官職についた俺と、俺の下の将軍府の人間は、連座によりすべて官職を失うことになった。
官職を求めるものは中央の袁隗経由で官職につけるようにとりなしつつ、涼州や并州の呂布、高順、張遼、清流派の面々や名医たちなどを率いて俺は涼州へ戻った。
「まあたまには田畑を耕してのんびりするのもいいか」
もちろんこの間に子どもたちには、馬術や弓術や格闘術などを教え込んでいたりもする。
年が明けて光和3年(180年)皇子となる劉辯を生んでいた何貴人が皇后に立てられ、それに伴い何皇后の父の何真は車騎将軍に、兄である何進は天子の側近である侍中として登用される。
しかし、益州巴郡の板楯蛮の反乱は鎮圧できないどころか、翌年になっても平定できず、反乱の火の手は広まって、揚州の江夏蛮が廬江郡の賊・黄穣と共に反乱を起こし、その人数はあっという間に10万人を超えてしまった。
更に交州の蒼梧郡と荊州の桂陽郡でも反乱が起こり、交州の烏滸蛮がまたしても反乱を起こした。
更に北では鮮卑が幽州と幷州に侵攻するという、南北の異民族が続々反乱をおこしたり略奪を行っていたりするらしい。
そこで中央では俺を前線復帰させるように、袁隗や盧植らが働きかけてるようだが、そうすんなりとはいかないらしい。
その間に俺は羌族や涼州の名族である辺章などと、個人的に友誼を結ぶなどコネ作りに徹していた。
この状態で羌族や涼州軍閥の人間などまで反乱を起こしたら面倒だからな。
しかし、翌年の光和4年(181年)宦官の曹節が病死すると、車騎将軍である何真や盧植らの勧めに従って、俺は再び征北将軍に任じられ、鮮卑への押さえを命じられて幽州に向かうことになった。
「とりあえずまずは鮮卑をなんとかしろってか、まあ行くしかないけどな」
そして、現地で兵を募ると冀州からは趙雲と張郃、
「公孫伯圭殿や劉玄徳殿は久しぶりですな。
皆さんよろしく頼みますぞ」
「ええ、任せてください」
「兵法を学んだ結果をお見せしますよ」
あくまでも壇石槐の率いる鮮卑に対しては無理にこちらからはうって出ず、交易の比率を普通にして、烏桓・南匈奴・夫余・高句麗などに対しては懐柔しつつ、長城での防衛を優先するつもりだったのだが、壇石槐が病死してしまい、鮮卑の侵略は止まった。
それまでは部族長による選挙制(合議制)だった族長選びを世襲制としてしまい、子の和連が跡を継いだのだが、和連には父親ほどの能力はないのに、性格は貪欲で裁きが不公平だったため、他の部族の半数はその命令を聞かなくなった。
和連は後に弩によって射殺されるが、その後の鮮卑はお家騒動で完全に分裂していき、その領土をほとんど失うことになる。
「一人の英雄によって拡大した国は英雄を失って滅ぶか」
何れにせよ鮮卑の脅威はこれ以降は格段に低下するのは助かるな。
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