熹平5年(176年)

俺がいる間は鮮卑が攻めてこないからって今度は南かよ

 さて、檀石槐と言う男は実に用心深い男で、俺が幽州に来たと知った途端に、万里の長城の北へ鮮卑の兵士を散り散りにして逃げていった。


 一見すると俺達が勝ったように見えるが、一度損害を与えただけで逃げられたわけだから、鮮卑討伐としては大失敗とも言える。


 かといって、現状ではこちらから打って出て戦おうとしても、明確な本拠地がない遊牧民相手に逃げられ続ければ、こちらが疲弊するだけだしなんとも悩ましいところだ。


「とりあえず長城の有効活用をしようか」


 漢代の長城は武帝が匈奴に対して優位にあったのもあり、北方の草原の中に建っているところが多い。


 そして万里の長城は、その南北の後漢と鮮卑などの遊牧民族の国境境界線として機能しているが、北方の鮮卑など南方の漢もお互いの土地で算出するものを必要としていたから、長城のあちこちに物々交換を行う交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われているのだが、漢の側が交換比率を釣り上げて、鮮卑などが不満に思い、交易の比率を遊牧民族側が有利にするため長城を越えて侵入を行うという側面もあった。


 ついでに言えば万里の長城は秦が築き、前漢では武帝によって大規模な長城建設とそれを用いた積極的防衛を行ったのに対し、後漢が滅んで新が成立したもののそれもまたすぐに滅ぶなど、中央の混乱によって維持ができず、後漢の半ばごろには長城は放棄されてしまっていた。


「まずは、交易所での物々交換での明らかなこちら側のつり上げをやめさせるか」


 一部の商人が暴利を貪るために、結果として州全体が略奪の被害にあうのでは割に合わない。


 州刺史の権限を持って、交易所での交換比率を鮮卑などの遊牧民族相手でも漢人相手と同等のものとさせ、それを破ったものの財産は没収し、当人は棄市の刑罰として、首を切って晒し者とすることにした。


「こんくらいしないとわからんからな連中は」


 それと同時に羊に毛を使った手袋や靴下、セーターなどの防寒性の高いウールを用いた防寒具を開発させ、見張りにたつ者などに支給し防寒対策も取らせて、弩や長弓を配備して長城の城塞機能を一部復活させ、いざというときの鮮卑の侵攻に備えるようにした。


 もっとも、塩や穀物と行った生活に必要なものの交換比率を大幅に下げたことで鮮卑の不満も減って、更に防衛を固めたこともあって侵略は行われないようになった。


「鮮卑対策。

 なんとか、なったかな」


 そして幽州や并州がようやく平和になったかと思われたのだが、後漢の最南端である交阯の賊徒が一斉に蜂起したが、太守や刺史が軟弱で制圧することができなかった。


 そして熹平5年(176年)に永昌太守の曹鸞が党人の無実を訴えたが、彼は捕らえられて処刑された。


 そしてそれがきっかけになって党人の門下生、元部下、父兄子弟ですでに官職に就いていた者は免官されて出仕を禁じられ、官職についていないものは官職につくことができなくなりいわゆる清流派の不満が大きく貯まることになった。


 さらに交阯(交州)の烏滸蛮おこばんが反乱をおこし、梁龍以下一万人余りが南海太守孔芝とともに叛逆して、4つの郡県を攻め落としたとの報が入り、俺は征北将軍を罷免されて征南将軍として交阯の反乱を鎮圧することになった。


「後漢最北端から後漢最南端に行けってか……」


 交阯すなわち交州は、南方との交易の中継地点でもあって中原には無い物品が多く、それゆえに郡太守や州刺史たちは定めを超えての収奪を行い、反乱が多かったというはなしだ。


 命令が無茶なのはいつものことだが、俺がいなくなっても長城は維持できるのかね。


「しかたあるまい、一度洛陽へ赴いてから交阯へ向かおう」


 公孫瓚や劉備はまだ勉学の途中である為連れて行かないし、清流派の人間も司隷に向かうのは危険であるので、并州へ戻ってもらうことにするが程普と韓当、それに曹操は連れて行くことにしようか。

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