熹平4年(175年)

鮮卑の侵入がひどくなったんでそっちへ行かされたよ

 さて、盧植達学者グループに儒学を習ったり、合成弓の長弓の開発とそれを用いれるように訓練をさせたり、河東郡の塩賊の取締なども行ってる間に、熹平4年(175年)になってしまった。


 そしてこの間に、ようやく息子の董超夫婦、董越夫婦に子供が出来た。


 長男の董超の方が男子で、董越は女子だそうだ。


「うむ、男子が生まれたのは良いことだな」


 そして春先には、天子が儒学者たちに、五経の文字を校正させる、熹平石経が行われ蔡邕が中心になって実行した。


 その後に三互法とよばれる、州刺史や郡太守、県令などの地方官については、基本は二百石以上の地方官は中央からの派遣で、百石以下は地元採用が原則となっているのだが、その際に。


 ・自分の出身の州・郡・県の地方官には任官できない。

(涼州出身だと涼州の郡太守などになれない)


 ・異なる州・郡・県の家が婚姻を結んだばあい、お互いの州・郡・県の地方官には任官できない。

(涼州出身者が并州出身の女性と結婚した場合は涼州・并州の郡太守などになれない)


 ・異なる州・郡・県の出身の推薦で中央から来た者がいる場合、同時期に同じの出身のものは州・郡・県には任官できない。


(涼州出仕のものが并州刺史になった場合、その他に涼州からの出身のものは并州の役職につけない)


 というものが不文律としてあった。


 もっとも、あくまでも不文律なので、例外もあるわけだが、地縁や血縁による結び付きが強い中国では、地元出身や血族だと、それを元に不正を働くことが多かったので、それを防ぐためには有効な制度ではあったのだが、先代の桓帝時代にこの三互法は条件が拡大されて禁忌事項が追加された。


  そのために刺史などの選出が難儀し、この頃には弊害のほうがでかくなり、幽州と冀州では刺史が空席になっていたし、また并州や涼州の刺史もポンコツばかりで、ろくに統治できなくなっていた。


 なので蔡邕は、”三互法の条件を緩和し、有能な人材を刺史として登用するべきである”と進言したが、朝廷はこの意見を受け入れずそのままにした。


 また、幽州は延熹9年(166年)、永康元年(167年)に鮮卑の侵略を受けたがこの時は張奐が撃退している。


 その後も建寧元年(168年)、建寧2年(170年)、建寧4年熹平元年(172年)などにも侵略を受けてるが今年の5月にも侵略を受けている。


 そのため今度は俺は二品万石相当の四征将軍の一つである征北将軍に任命されて鮮卑の討伐任務を受けることになった。


 征北将軍は幽州の広陽郡のけいに駐屯し、幽・冀・并三州の刺史を統べる存在で征南将軍と同等の権力を持つ地方軍司令官だ。


 5月には太尉であった陳耽が罷免され、司空であった許訓が太尉となっているので命令はそこから出てきている。


 段熲は現在は頴川太守をしてるようだ。


「ま、俺にとっても司隷校尉よりは性に合ってるしまあいいか」


 俺は兵を率いて、司隷からまず并州に戻って、兵士の中で涼州や并州の家族に会いたいものは一度帰って会えるようにしつつ、中央に向かったときには并州においていった荀爽・荀彧・荀攸・張倹・劉表などの清流派の人物や曹操などを配下として連れて行くことにした。


 もちろん董旻や賈詡、韓遂や馬超・牛角や呂布や息子達、華陀や張機などの医者もつれていく。


「幽州での鮮卑族の略奪に対処することになったのでみんなよろしく頼むよ」


「わかりました、食客としての義は果たしましょう」


 皇甫嵩にも挨拶をしておく。


「皇甫義真殿、私は征北将軍として幽州に赴くことになりました。

 共にがんばりましょう」


「うむ、奴らは手強いがお互い協力して対処しようぞ」


 そして幽州には揚州の九江郡の反乱を鎮圧するため九江太守に任命された盧植が反乱を鎮圧すると病のために太守をやめて地元に戻っている。


 おそらく南方の水などが合わなかったのだろうな。


 とりあえず医者を連れて彼の元へ赴くことにした。


「私は董仲穎と申しますが、盧子幹殿はいらっしゃいますかな?」


「はあ、どのようなご用件でしょうか?」


「私は盧子幹殿のもとで勉学を学んだ者でもありまして、是非お話を聞かせていただきたいのと、出来ればこのあたりに地理に詳しいものを紹介していただければと」


「なるほど、しばしお待ち下さい」


 そのとおりしばし待たされたあとで盧植に会うことができた。


「おお、董仲穎殿久方ぶりですな」


「はい、お久しぶりでございます。

 この度征北将軍として赴任してまいりましたが、いかんせん幽州は詳しくないので地理に詳しい者を紹介していただければと思ったのですか」


「ふむなるほど。では、我がもとで学んでいる公孫伯圭などを紹介できそうですな」


 彼の弟子の公孫瓉のことか。


 彼の一族である公孫氏は、先祖代々二千石の郡太守を務める、幽州では有力な豪族の子であったが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されず、低い地位にしかつけなかったが、太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となったことで侯氏の援助をうけて盧植の下で儒学や兵学を学んでいる所。


 ただ将来的には劉虞を殺して民衆の心を離反させて、袁紹と戦って破れてるんだがな。


「是非お願いいたします」


「おお、私を使っていただけるとは誠にありがたい」


 公孫瓚は美声で声が大きく、容姿も優れており、前線指揮官としては間違いなく有能なのだろう。


「ではよろしくお願いいたしますぞ」


「わ、私も連れて行ってください」


「ん?」


「私は劉玄徳と申します!」


 もうひとりは劉備か。


 彼も15歳で元服したときにおじの劉元起の援助を得て、その子の劉徳然と共に、盧植の下で学問を学んでいたんだな。


「ん、わかった、この土地には不慣れなので二人ともよろしく頼む」


 また、幽州の県役人からの討伐参加志願者に程普と韓当がいた。


 本来は孫堅が出世して幽州の役人になったときに孫堅の配下になるのだが、すまんが彼らは俺の配下になりそうだ。

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