建寧5年(172年)

会稽で起こった許昌の反乱討伐をすることになった

 さて、あれこれ試しているうちに、建寧5年(172年)になった。


 そして五月には年号が、熹平と改元されている。


 おれはこの間にいろいろ試行錯誤しつつ、失敗を重ねてはいたが、一応鐙や馬上で使う短弓の合成弓をある程度は実用にたえるものを作れたので、それらを兵士に配備していたら、三公である太尉となった段熲から指示が飛んできた。


 ”呉の地にて兵乱の兆しがある討伐の準備を行うように”


「討伐の準備というと……まあやっておかないと駄目だな」


 俺は食糧や矢などの輜重関係を集めて兵士にも南方への出兵があることを伝えた。


 そういう状況になったのは、まずは十月に熒惑けいわくが南斗に入ったことで、戦乱の予兆があると天文官に言われ、どこに何が起こるか予測をしようとしていたらしい。


 中国では天文学もかなり発達していたが、熒惑は五行説で火に配するので、火星と称される星とされ、古代では中国以外でも戦争・飢饉・疫病などの災害の兆しとして恐れられ、南斗は呉(江南の揚州)を示すとされていた。


 そしてその占いどおり、十一月に南方で大規模な反乱が起こった。


 もっともそれが起こったのは呉より、さらに南の会稽郡だったが、許昌きょしょう許韶きょしょうという親子で春秋佐助期シュンジュウサジョキという書に”漢以許昌失天下”と言う文があったと言うことで、許昌は越王を息子は大将軍を勝手に名乗っているのだが、これに追随して万単位の民衆が蜂起したかなり大規模な反乱だったりする。


 まあ、このあたりは越人として差別もされているようなので、いろいろ不満もあったんだろう。


 本来であれば、彼らは臧旻と陳寅という人物に討伐され死ぬらしいが、いろいろ歴史がネジ曲がったのか、太尉という軍事担当最高の地位にハクをつけるためか、元部下の俺に鎮圧を任せようとしているらしい。


 まあ、この時代反乱の鎮圧に失敗したら、それで死刑になったり、将軍の位を剥奪されたりもするし、気持ちはわからないでもない。


 そして、できれば段熲からはなるべく離れたかったが、命令とあれば従わなくてはならない。


 そして俺は、二品万石相当の四征将軍の一つである、征南将軍に任命された。


「やれやれありがたくもあるが、困ったことにもなったな」


 この将軍位は東西南北のどれかの方面軍軍隊司令権と、都督号をもっており、該当地域の全面的な権力を有する。


 征南将軍は新野に駐屯し、荊州及び豫州の二州の刺史を統べて、揚州・交州・益州などの反乱を鎮圧する任務を与えられるのだ。


 また幕府を開いて驍騎府、車騎府、衛府を開設でき独自の幕僚を多数持つ事ができる権限も持つ。


「それはいいが南方の戦いでうまくいくかが問題だな」


 本來後漢の時代では、大将軍なども含めて将軍位は常設ではなくて、大規模な反乱討伐時や国外への遠征などの大規模な部隊を編成して指揮しなければならない時にだけ、その軍を指揮する指揮官に与えられる臨時の職務であって、討伐や遠征が終了した場合には、将軍位は返上しないといけなかったりもするのだが、北方辺境では異民族の襲撃が常だったりするので、常に万単位の大規模な部隊を編成指揮しなければならなくてはならない状況になってしまい、将軍もほぼ常設的なものになっているけどな。


「とりあえず命令であるし、食糧や矢などを調達でき次第、討伐のために新野へ急ぐか」


 俺が準備をして新野に向かい、 年が明けて熹平2年(西暦173年)になったとき。


 現地では会稽郡太守である尹端いたんが反乱軍を討伐しようとしたが見事に敗北、尹端は罪に問われ、最終的に尹端への刑は「棄市」、つまり死刑にして市にその遺体を晒すというものだ。


 ここで尹端を助けようとするものが現れた。


 彼に抜擢されて役所で主簿として働いていた朱儁だ。


 朱儁は私財である金を持って洛陽へと急ぎ向かって、章吏と呼ばれる上奏文を扱う役人に賄賂をわたして州からの上奏文の竹簡からを取り下げさせて、尹端は死罪を免れたが、尹端が罪が軽くなった理由を知ることはなく、朱儁もそういった行動をひけらかすことはなかったそうだ。


「ふむ、尹端は刑を減じられたとは言え失職しているだろうし、彼とともに朱儁を幕僚として抱え込むか」


 俺は尹端と朱儁に文を送って幕僚として働き、現地の道案内を頼みたい旨をつたえた。


 その結果、土地の案内人として尹端と朱儁を俺の幕僚として迎えることが出きた。


「流行病は怖いし、名医も迎えるべきだな」


 俺は張伯祖とその弟子である張機に文を送って従軍医師として、十分な禄を持って召し抱えたい旨を伝え、この二人も迎えることができた。


「水と便にお気をつけください。

 水を飲む時は一度湯として沸かせば安全かと」


「なるほど、ではそれを徹底させるとしよう」


 この時代でも生水は危ないことは変わらない。


 燃料代はかかるが水は必ず一度煮沸してから飲むようにさせ、食べ物も加熱して食うようにさせたことで、兵の間で流行病が蔓延することはある程度防げた。


 いろいろ準備ができたので会稽へと進軍することにしたのだ。


 この間に有力宦官の侯覧が罪を問われて自害したり、竇太后の崩御があったり、太学生の逮捕と劉猛の左遷があったり、王甫が段熲に命じて渤海王である劉悝と彼と親しい宦官の鄭颯と董騰を捕らえさせ彼らは獄死、劉悝は自害、その一族や勃海国の役人も処刑されたりもしてる。

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