田舎の子供にとってリーダは身体能力の高さが大事だ

 さて子馬に乗って乗馬のためのバランス感覚を体で覚えこむというのは21世紀の現代人にとっては、自転車の乗り方を体で覚えこむようなものだ。



 そして辺境では馬がないと生活がとても不便でもある、なにせお隣さんの距離がぱないからね。

 21世紀であれば札幌とか函館のような都市部でない道民が車がないと生活できないというのと似たようなものだろう。


 しかしながら馬には自転車と違い倒れないための補助輪などはないし裸馬にのって太ももでガッチリ挟み込んで馬の背中に乗り続けるのはとても疲れて大変だ。


 しかも馬は成長がはやくこっちの体が大きくなるより全然早く大きくなっていってしまう。


「どんどんおおきくなっていっちゃうね」


 もうジャンプで馬の背中に飛び乗るのはだいぶ難しくなってきた。


「かんのちゅうおうではつかわれてるらしいくらとかたあぶみがほしいかも……よじのぼるためのなわばしごでもいいけど」


 遊牧民はそれこそ幼少の頃から馬と触れ合うことで裸馬で遠乗りができなければ、成人の儀式を通過できず集団から追放されてしまったりするが、農耕民族はそもそも生活に馬が必須ではないので馬に乗る機会はあまりないため、スキタイから匈奴経由で伝わった馬具を積極に取り入れた結果、漢の時代には鞍や馬によじ登るための片鐙などはすでに有ったらしい、ただし馬上で踏ん張るための鐙はなかったとされてるがこの涼州あたりでは馬具そのものがあまり使われてないから実はよくわからん。


 そもそも農耕や輸送に使うために馬を手懐けるための轡や手綱の発明とその利用はもっと古くから有ったりもするようだけどな。


 鐙が「金具」で「登」という意味合いからもともと鐙はもっぱら馬に登ったり降りたりするために使われた昇降用の補助具で乗ってる時に足を載せて踏ん張るには鐙を使って跨る時、反対側に足を放るために少し高めの場所についてるものだから乗ってるときは高すぎて使えなかったはずだが、どっかで誰かが馬に乗ってる時に足を鐙に乗っけとけば楽なんじゃないか?と思いついて左右に低めの鐙をたらして鐙に乗って踏ん張って安定できるようにしたらしい。


 ただし最初はおそらく馬の寿命を大きく縮めたことも有っただろう。


 ただし、馬は大変に神経質で臆病な生き物であるということで鞍などを乗せると擦れたりむれたりして嫌がるし暑いところだと汗をかいて臭いなども含めて大変なことになったりもする、鐙も鞍から紐を吊り下げてその端に足を入れる輪っかを付けてやればいいというわけでもなくきちんと固定してやらないとまずいらしく、中途半端に紐で硬い輪っかをぶら下げると鐙がちょこちょこ腹にあたってしまい馬がそのストレスで病気になったり下手すると大きな怪我につながるらしい。


 鐙がなかなか広まらなかった理由の一つがそれらしいな。


 必要であれば膠で固めた革製の鐙とかをつくってもいいとは思うけど、馬具が有るのも馬にとっては必ずしも良いとも限らんようだ。


 そもそも乗馬をするためには胡服と呼ばれるズボンのような衣服でないと難しく基本的に漢服と言うのはチャイナドレスのようなスカート構造だったりするのでそれで馬に乗ると股間が丸見えでやばいことになるので、そのままでは馬に乗れないためこの後漢の時代でもまだ戦車を用いてる人間もまだわずかに残ってもいたりするはずだが。


 史実では魏を滅ぼした晋が八王の乱と呼ばれる内乱をおこして、王は友好関係にある遊牧騎馬異民族を傭兵として用いたことで長い内乱の時代の五胡十六国時代へ突入するが、その時には馬具として安定した騎乗を行うための鐙が用いられたのは間違いはないらしいけどな。


 涼州のような田舎では子供のリーダーというのは馬を早く走らせること、力強く組み合って相手を投げ倒せること、正確に弓を射る事ができることが重要だ。


「仲穎!手縛の試合を見に行こうぜ」


「うん!」


 俺は今のガキ大将と一緒に手縛の試合を見に来た。


 手縛はモンゴル相撲と呼ばれるブフと似たような中国の立ち組投げ技系の格闘技で、直接ではないが日本の相撲の先祖のような存在でもあるらしい。


「やれーそこだー」


「まけるなー」


 特にリングや土俵のようなものはなく普通の平原で組み合ってお互いを投げたり転ばせてどちらかの足の裏以外の部分が先に地面に着いたら負けという単純なルールだがそれだけに人気もある。


「ぼくもまざりたいなー」


「流石に仲穎はまだ小さすぎて相手にならないからな。

 3年位したら混ざれると思ぞ」


「じゃあ、3ねんごにまざれるようがんばる!」


「お、その意気だ!」


 とりあえず馬術・弓術・格闘術・蹴鞠の4つで目立つ成果を上げれば涼州では俺に従う者も増え官職もえられるだろう。


 とはいえ後漢の権威主義を考えればせいぜい涼州県史兼校尉の父親の子供である俺はどこの馬の骨ともわからん田舎者にすぎず、史実で董卓が洛陽を占拠して政治権力を握ったのは日本の平安末期だと木曽義仲が京都に入ったのはいいけどさんざん田舎者扱いされて追い出されたり、戦国時代で言うならば細川の家来の三好の家来の松永久秀が細川と六角の争いをついて京を占拠して、管領代として将軍をお飾りにして政治を執り行うようなもので俺より家柄がいいと思うものは絶対従わないだろうし、まったくどうしたものかな。

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