年上妻

 俺は腹が立って全く寝られなかった。夜中3時くらいになってもなかなか寝付けず、スマホを見たり苛々してトイレに行った。前日の夜にSNSで嫌なことがあったから、苛々していた。


 俺は年度末の三月で仕事を辞めて、株の配当で細々と生活している。外食もせず移動は徒歩か自転車だ。人づきあいもやめて一日中一人で過ごしていた。引きこもりなのだが、YouTubeの配信者としても活動していた。詳しくは書けないが、経済系のチャンネルをやっていた。


 俺はキッチンで水を飲んでから部屋に戻った。マンションに住んでいるのだけど、カーテンを閉め切っているから、廊下が真っ暗で怖い。壁伝いに手探りで部屋まで戻った。


 暗がりの中でベッドにもぐりこむ。すると、誰かが布団の中で裸で寝ていた。その人の腕に手が触れた。


「うわぁ!」俺は飛びあがった。

「どうしたの?」おばあさんの声がした。

「どうしたのって…。あんた誰だよ」

「もう!毎回同じこと言うんだから」なぜか笑っている。

「真知子よ。忘れた?」

「知らねーよ。あんた誰だよ」

「あなたの奥さんでしょ」

「俺、結婚してないし」夢でも見ているのかと思った。

「違うの…。あなたは記憶障害なの。私が奥さんなのよ」

 俺はまだ五十一歳だ。こんなおばあさんと結婚するなんて、一体全体どうしちまったんだろう。

「そんな。俺、結婚したことなんかねえし」

「あなたはね。昔、交通事故に遭ったの。それで前の記憶が全部なくなっちゃったのよ」

 そうだっけ?そういえば前に、ひき逃げにあったことはあるが、頭は打っていなかった。そのせいなんだろうか。精神的なショックやフラッシュバックは確かにあったのだが。確かにあの頃から、物覚えが格段に悪くなった気がする。


「え?でも、俺、昔のことも覚えてるよ。幼稚園の時、小学校の時、大学も社会人になった後も…」

 妙に話しやすいおばさんだった。頭がおかしいと言う感じはまったくない。

「なぜだか、私との結婚だけが抜け落ちてるの」

「そんなことあるのかよ」

「うん。残念ながらね」

 まるで、母親と話しているようだった。

「何でだろうね。あなたのお母さんが反対してたからかしら」

 その瞬間、お母さんと言う言葉が出て来て、俺ははっとした。シンクロニシティというやつか。もしかして、本当に俺の奥さんかもしれないと言う気がしてきた。

「全然覚えてないけど、うちの親が反対したとしたら、やっぱり年齢のせいなのかな」 

「私はお母さんとそんなにかわらないし。孫が見たかったんじゃないかなって…その点では本当に申し訳ないと思ってる」

 俺はそのおばあさんに次第に親しみを感じ始めていた。

「ごめん。全然覚えてなくて」

 ちょっと気の毒だった。俺は子どもは好きじゃないから、別にいなくてもいい。

「いいの。毎回会うたびに説明して覚えてくれるから。それでも、朝起きると忘れてるの」

「そうなんだ。ちょっと信じられないけど。前にテレビで見たことある。自分がまさかそうだったなんて…」

「でも、毎日が初めての出会いみたいじゃない?」

「うん」

 俺はその人のことを前から知っている気がした。

「素敵じゃない?ロマンス小説みたい…だから私は嫌じゃないの。全然」

 言うことからして世代が違う。

「でもさ…真知子さんっと俺って」

「真知子でいいのよ」

「うん。どうやって出会ったんだっけ…」

「聡史はお客さんとして来たの。私、ソープランドで働いてたの」

「俺、ソープランド行ったことないけど」

「ううん。あれは、聡史がまだに二十代の頃だった。私が四十代で熟女って言われる年齢になってたわ」

 真知子は俺の頭を抱きかかえたて、髪を撫でた。何だか落ち着いた。まるで赤ん坊に戻ったみたいだ。

「聡史は風俗が初めてだって言っててすごく緊張してたの」

「でも、なんで…俺がソープなんかに」

 そんな年増の人を俺が指名したのかわからない。酒に酔ってたんだろうか。いや…そもそも、吉原っていう場所には行ったことがない。

「お酒に酔ってたみたい…友達と来てたわ。それで、友達がふざけて私を指名したんですって」

 俺は狐につままれたような気分だった。俺は今まで風俗に行った記憶がない。金がもったいなさすぎる。

「私のこと気に入ってくれて。それから毎週来てくれるようになってね…でも、お金が大変だと思うからって、連絡先を交換して付き合うようになったの」

 そう言えば俺はものすごく忙しい会社に勤めていたから、その頃の記憶がほとんどないのは確かだった。二十も年上の人と付き合っていたなんて…。俺はずっと彼女がいないと思っていた。

「なんで裸なの?」

「あなたが脱がせたんじゃない」

 それも覚えていなかった。俺はだんだん変な気持ちになって来た。

「え?ごめん。寒いよね」

「いいの…私も好きよ」俺は気が付けば真知子の胸に頬をうずめていた。匂いがお年寄りだった。その後、真知子は俺の火照った体を慰めてくれた。


 これが俺たちのなれそめだ。ちょっと恥ずかしいけど…。


***


 俺は真知子の支えもあり、無職のまま彼女と数年暮らしていた。収入はほぼなかった。俺は彼女にもっとましな生活をさせてやりたくなって、小さな会社の面接を受けた。フルタイム勤務だったから、社会保険にも加入できることになった。就職のことは真知子には内緒だった。彼女は記憶が一部欠損している俺が会社で働くことを望んでいなかった。


「入社に当たって住民票の提出をお願いします」総務の人とがプリントを俺に見せながら、提出書類の説明をしてくれた。

「わかりました。妻を扶養に入れたいんですが」

「はい。じゃあ、奥様のマイナンバーの提出もお願いします」


 俺は区役所に住民票を取りに行った。最近はコンビニでも取得できるようだが、やり方を面倒なので役所に行くことにしたのだ。住民票を取るのは本当に久しぶりだった。普通に暮らしているとあまり使う機会がない。


 しかし、出された住民票を見るとそこに書いてあったのは、俺の名前だけだった。


 世帯主 江田聡史


 あれ。真知子の名前がない。

 

 何故だろう…。


 もし、事実婚でも、住民票はうちにあるのが普通じゃないか。真知子の住民票はどこにあるんだろう。


 俺はその時はっとした。


 俺はどこの誰かもわからない赤の他人と暮らしていたのだ。

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