第四百十六話 ふと気付く相似

 どうして、あんな些細ささいなことを覚えていたんだろうか ―― ?


 アドリアンは自分の部屋に戻ると、自己嫌悪に項垂うなだれて長く嘆息した。


 コツコツ、と中指で叩く癖。

 ランヴァルトもよく、本を読みながら肘掛けに乗せた手が、そのように動いていた。

 貴族であれば珍しくもない所作だ。打指だしによって、それこそ使用人らに指示するのだから。普段、口数の少ない父も、これをよくしていた。ただ、父は多くの場合、人差し指であったが。


「偶然だよ。偶然……偶然……」


 アドリアンは自分に言い聞かせるようにつぶやいたが、それは願いに近かった。

 このあいだからアドリアンの前に示されたいくつかの事柄が、いよいよ一つの答えを迫ってきている……。


 ランヴァルトについて、アドリアンは確信していることが一つあった。

 それは、彼が『優秀な人間を好む』ということだ。

 ランヴァルトの周囲につどう、彼が認める人々はなべて一廉ひとかどの能力を持った人間であった。あるいは、まだ若く未知数であっても、将来有望と思われる者であれば、身分差なく彼らに適した援助を行っていた。

 エリュザもまた実家から勘当されたものの、服飾についての才能を見出され、ランヴァルトの後援もあって、あの店を立ち上げることができたという。今や知る人ぞ知るデザイナーとなって、大っぴらにではなくとも貴族の客も多いらしい。


 そうして貴賤の区別なく有能な人々に敬意を持って接する反面、ランヴァルトは愚かな人間には容赦なかった。アドリアンの前であれば、特に息子のシモンに対して、言葉の端々に苛立ちと軽蔑が見て取れた。


「いっそ、救いようもなく馬鹿であるならば、こちらもあきらめようがあるものを……中途半端に頭が回る故、その狡智をどうしてほかに活かせぬのかと、小言も言いたくなるのだ」


 そのシモンはアドリアンと同じように十三歳でアカデミーに入学して、来年には成人(*十七歳)となるのに、学習進度の指標となる【葉】はまだ二つしか取れていないという。さすがにアドリアンもこれには、お世辞でも「頑張っておられますね」とは言えなかった。

 貴族子弟は入学において優遇される代わりに、概ね十三歳で入学してから成人になるまでの四年で卒業要件(【五葉】修得)を満たさねばならなかったが、あと一年で【三葉】を取るなど、ほぼ不可能に近い。そもそもきちんと授業に出席して、与えられた課題をきちんとこなしていれば、四年間で十分に卒業は可能だと、家庭教師らから聞いている。


「それだと……卒業は難しいかもしれませんね」


 アドリアンはうまく取り繕うことができず、それでも一応遠慮がちに言ったが、ランヴァルトは平然としたものだった。


「十七歳で卒業せよと決められたわけではない」


 アドリアンは言葉を失った。

 確かに十七歳の成人で卒業というのは、貴族子弟における不文律ふぶんりつのようなもので、アカデミーにおいては在籍七年の間で卒業要件を満たすこととされている。そのため一般入試で入ってきた平民などは、多く二十歳過ぎまでアカデミーで勉学にいそしんでいた。彼らの多くは学費を稼ぐために、働いている者も少なくなかったからだ。


 だが貴族が二十歳を過ぎてまで在籍するなど、ほぼ有り得なかった。そんな恥辱に耐えるくらいであれば、卒業せずに自主退学する者が大半で、アカデミーも救済措置として一応、在籍証明書は発行してくれたから。


 しかしランヴァルトは息子にそんな安楽な道を選ぶことは許さぬようだ。たとえ嘲笑されようが、恥をかこうが、一定以上の成果を上げるまで、中途退学リタイアなどさせないらしい。


二十歳はたちまでにどうにもならぬのであれば、母子共々、ガルデンティアを出て行ってもらうことも考えねばならぬだろうな」


 冗談とは思えぬ口調で当然のように言う。


「まさか……ご嫡子ちゃくしでいらっしゃるのに」


 アドリアンがさすがに強張った顔で言うと、それこそランヴァルトは大したことでもなさげに言った。


「大公家など……私への褒賞として仕方なく皇帝陛下が寄越したもので、存続させることなど向こうも望んでいない。むしろシモンの器量に合わせるのなら、フェドガモンドの田舎領主あたりのほうが分に合っているだろうよ」


 フェドガモンドはシモン公子の母親の実家の領地であった。

 つまりアカデミーの成績如何いかんによっては、シモンは大公家ではなく、母親の実家であるノルドグレン伯爵を継ぐことになるというのだろうか……?

 有り得ない話でもない。シモンの叔父である現ノルドグレン伯爵には、まだ嫡子はいないはずだ。


 アドリアンはあまりにも苛烈な対応に唖然となったが、同時に身が引き締まる思いだった。

 実の息子であればこそ、シモンはこの情けない状況にあってもガルデンティアの住人として認められているのだ。ランヴァルトは厳しいことを言っているが、それは期待の裏返しでもある。父の真意を知って、シモンが学業に励めば、ランヴァルトは息子の頑張りを認め、ちゃんと大公家の嫡子として扱うだろう。


 だが自分はランヴァルトにとって、ただの友人だ。

 今はまだとして遇してくれているが、ゆくゆくアドリアンに何ら見出すものがないと分かれば、おそらく去って行くだろう。むろん優しいかの人のこと、いきなり冷たくされはしないだろうが、やんわりと距離をとって、やがて声をかけられることもなくなる。

 そう。自分もまた、シモンと何ら変わりない立ち位置なのだ。


 ひるがえって、オヅマはどうか。

 既に『澄眼ちょうがん』という稀能きのうを習得し、まだ未熟とはいえ騎士としての素養は、ヴァルナルを始めとして多くの騎士の認めるところだ。

 そもそもオヅマがアドリアンの近侍となったのも、いやもっと前にヴァルナルがオヅマを騎士見習いとして引き取ったのも、既にオヅマという少年が逸材であったからだ。

 それに勉学においても、数年前には文字を書くのもおぼつかなかったなど信じられぬほどに向上している。特に数学などは、トーマス先生も太鼓判を押すほどだ。


「…………」


 考えてからアドリアンはまたウッと息を呑んだ。

 数学。

 確かランヴァルトも数学が得意であったと聞いている。

 それこそアカデミーの数学者ですらも、ランヴァルトには教えを乞うほどに。

七色なないろ蜥蜴とかげの巣』でも、よく難しそうな命題について話し合っていた。


 ギリギリと机の上で握りしめた拳が硬さを増す。

 また、見つけたくもない相似を見つけてしまった……!


「あぁ……」


 アドリアンは椅子にもたれこんだ。深呼吸しても、ちっとも息苦しさはなくならない。


 ランヴァルトは、きっとオヅマを気に入るだろう。

 あの人は優秀な人間が好きなのだ。

 より優れた、より賢い、より抜きん出た存在が。

 彼がオヅマの傑出した才能を愛さないわけがない。

 誰よりも……シモンよりも、アドリアンよりも、称賛し、欲するだろう。

 ましてそれが…………。


 アドリアンはもうその先を考えるのが怖かった。それはもう想像ではなく、ほぼ間違えようもない事実に違いなかった。だが認めたくない。なんとしても認めたくなかった。


 ランヴァルトから見放されるかもしれないという不安と、オヅマへのドス黒い羨望がキリキリと体の中心に穴を穿うがつ。同時に湧き起こる自己憐憫に吐き気すらした。


 助けて……。


 心の中の叫びは虚しく響き、誰に届くこともない。

 椅子の上で身を縮こまらせるアドリアンに、いつの間にか戻ってきていたサビエルが呼びかけた。


「小公爵様、からのお便りですよ」

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