第四百十四話 痴話ケンカ
それからしばらく、アドリアンはわかりやすくオヅマを避けた。
兎狩りの日から少し風邪気味だと言い訳して部屋に籠もっていたが、実際には仮病でピンピンしているのだから、当然ながら二日もすると暇を持て余してしまう。
「一度、館内を歩くだけでもしてこられてはいかがですか? 近侍の方々は今の時間ですと、修練場で訓練しておられるようですし」
サビエルはアドリアンの気持ちを察して、あらかじめオヅマに会うことがない時間を見計らって勧めてくれる。気の利く従僕に感謝して、アドリアンは部屋を出た。
中庭を囲む回廊を歩いていると、春間近の淡い雪が降り込んでくる。曇天の隙間から差す光の強さは春の訪れを感じさせるが、北から吹き下ろす風はまだ寒い。その冷たさの中にいたくて、アドリアンは廊下の途中で柱に背を
グレヴィリウスにおいて珍しくもなく、もはや見飽きたその白い小さな花。
花に罪がないのはわかっているが、もうその花を見るだけで気持ちが重くなる……。
「アドル? そんなところでどうしたの?」
不意に声をかけてきたのはマリーだった。タッと走ってきて、腕を組んでいるアドリアンの手を取る。
「もう、こんなに冷えちゃってるじゃない! こっちに来なさい!!」
アドリアンは口の中で「大丈夫だよ」と言ったが、当然小さすぎる声はマリーに聞こえなかった。本当はあのまま一人でいたかったが、引っ張っていくマリーに抵抗する気力もない。
マリーはアドリアンを厨房まで連れて行くと、隅に作られた小さな炉の前のベンチに座らせた。そこはソニヤら厨房の使用人が食事を取る場所であったが、空いているときには、子供らが集っておやつを食べたりしていた。
今も蓋付きの
マリーはソニヤに何か頼んでから、アドリアンの隣にちょこんと座ると、「あー、寒い寒い」と言って手を火にかざした。チラとアドリアンを見てくるのは、同じようにしろということらしい。
アドリアンは組んでいた手をほどき、同じように火にかざした。
パチパチと枝の
自然と溜息がもれた。
「ほいヨ」
ソニヤがいきなり大きな陶器のマグを渡してきた。温かいマグを受け取って、そこから立ち上る香りと、やや茶味がかった色合いを見て、すぐにそれがミルク入りの珈琲だとわかった。
隣で同じようにマリーがマグを受け取って、ゴクリと飲んでプハーと息を吐く。ビールを飲んだときの大人のような仕草だ。しかも牛乳を混ぜて少し泡立てているせいか、鼻下に白髭のように泡がついているのが、以前にランヴァルトと訪れた居酒屋で見た男たちとまったく同じだった。
小さなマリーの白髭に、アドリアンは思わず笑みをもらした。
「マリー、ついてるよ」
鼻下を指さすと、マリーはあわてて拭ってからヘヘッと笑った。
「アドルも飲んでよ。これ、教えてくれたのアドルなんでしょ?」
「え?」
「お父さんがね、私も飲みたいって言ったら、蜂蜜を入れてくれたの。アドルに教えてもらったって。おいしいね、これ」
「…………そうだね」
アドリアンは寂しく頷いた。
どうして今、このときも素直にこの温かさを味わえないのだろう。
ランヴァルトとミーナに関することを思い出すと、痛みが生じる。その先のことを考えたくなくて、アドリアンは紛らすようにミルク入りの珈琲を飲んだ。
マリーはまた一口飲んでから、ごしごしと鼻の下をこすって、小さな声で言った。
「ねぇ、アドル。私ね、少し前までアドルに怒ってることがあったの」
「……僕に?」
アドリアンはそれこそ首をかしげた。どう考えても、マリーに怒られるようなことをした覚えがない。
だがマリーの話は、直接アドリアンがマリーの不興を買ったということではなかった。それはカーリンのことであった。
「うん。ほら、先にお兄ちゃんがカーリンとティアを連れてきたときね。私、カーリンから色々とお話を聞いてね、少し可哀相になっちゃったのね。カーリンもアドルに嘘をついたのは悪いと思うけど、本当に申し訳ないって思ってて、ちゃんと謝りたいって言ってたから。せめて謝ることは許してあげてほしかったの」
アドリアンは想像できた。
悲しみに沈んだカーリンが、マリーに少しずつ心を開き、自分の
きっとマリーは今のように優しく、カーリンの傷ついた心を癒したのだろう。
黙ったままのアドリアンに、マリーがおずおずと尋ねてくる。
「……怒ってる?」
「え? いや、違うよ。僕も……あの時には動転して、カーリン嬢にはひどいことを言ったから……むしろ僕が早くに気付いてあげるべきだったんだし」
あわてて弁解するアドリアンに、マリーはパッと笑った。
「よかった。やっぱり、アドルはやさしいわね。ちゃんとカーリンにお詫びに、ってプレゼントもあげたんでしょう?」
再会してから改めて場を設けて話すことはなかったものの、一応、言い過ぎたことへの謝罪もこめて、カーリンにはティアを通じて裁縫道具を送っていた。それもティアから勧められてのことだったが、ともかくもそれでアドリアンの中で、あの件については決着がついていた。
「私ね、あのとき、ちょっと腹が立っちゃって……アドルに手紙で文句を言ってやろうと思ってたの。そうしたらね、お兄ちゃんに止められてね」
「…………」
「アドルがせっかく楽しみにしてるのに、ガッカリさせるようなことをするな、って。お兄ちゃんってばホントに、そういうときだけ、ちゃあんと優しいのよ。普段は憎まれ口ばっかりだけど」
アドリアンは答えられなかった。
もしあの時、マリーからカーリンを許すように乞う手紙をもらっていたら、きっとアドリアンはすぐさま放り出していただろう。それ以降のマリーの手紙を見ることもしなかったかもしれない。だから、オヅマの対処は正しいのだ。そうやって遠く離れていても、いつも守ってくれようとしているのだ。アドリアンの心までも。
だが、今はそれが苛立たしい。
そこまで
ギュッと唇を引き締めたままのアドリアンに、マリーは少し困ったように溜息をついてから、つぶやいた。
「あーあ。やっぱり痴話ケンカなの?」
「…………え?」
マリーの単語に目を丸くしたのはアドリアンだけでなく、背後で下準備をしていたソニヤとタイミもピタリと動きを止めた。
アドリアンは目をパチパチと
「マリー……君、痴話ゲンカの意味を知ってる?」
「馬鹿にしないで、アドル。私だってそれくらい知ってるわ。トーマス先生が教えてくれたんですから。きっとお兄ちゃんがまた余計なことを言って、アドルを怒らしたんだろうって、ティアたちと話してたら、トーマス先生が急に現れて言ったのよ。『それは痴話ケンカだねー』って」
「トーマス先生……か」
アドリアンは軽く頭を押さえた。
トーマス・ビョルネが非常に頭がいいことは間違いないのだが、時折言動も思考も突飛すぎてついていけない。
「その時もね、あぁ……私がアドルに手紙で文句を言おうかって話をしていたときのことよ。結局、ティアたちと一緒に『お兄ちゃんとアドルが本当に仲良くて、羨ましくなっちゃうよねー』って話になって。だってアドル、お兄ちゃんの部屋と隣で、衣装部屋からお兄ちゃんが直接入れちゃうんでしょ? アドルの寝室に」
「……それは、まぁ……構造上」
「私、知らなかったけど、近侍になったらアドルと恋人みたいになっちゃうんでしょ? えーと、トーマス先生が言ってたの……なんて言ってたっけ? えーとギジ……ギジレンアイ? だったっけ? アドルが悪い女の人に引っ掛からないように、お兄ちゃんが恋人のフリするんだよね?」
「……恋……人?」
「トーマス先生が言うにはね、えっと『嘘から出た
「…………」
マリーが次々に繰り出す言葉に、アドリアンはさっきまでと違う意味で、おかしくなりそうだった。
確かに近侍と主の間で、昔はそんな話があったとかなかったとか小耳に挟んだことはあるが、自分に限っていうなら、これまではもちろん、この先も絶対に、絶対に、絶ッ対に、有り得ない!
思わずマリーに向かって怒鳴りつけそうになって、アドルは大きく開けた口を一度閉じた。 下手にムキになって言い返すと、ごまかしてると思われはしないだろうか? それに、マリーに向かって怒るのは違う気がする……。
アドリアンは強く否定したい気持ちを懸命に抑えて、静かに、だがはっきりと言った。
「マリー……違うよ」
「えっ? 違うの?」
「いろいろと……ものすごく……誤解が多いと思う」
「でもお部屋が繋がってるんだから、皆に内緒でいつでも遊びたい放題でしょ? 二人で朝まで ――― 」
「さぁ、マリー! そ~ろそろ、おイモも焼けたかなーっ?」
不自然なくらい笑いながら、タイミは炉にかけられた厚手鍋の蓋をとる。
そこには
手際よく、ソニヤが皿用のタルト生地をアドリアンとマリーに渡すと、タイミがトングでつまんだサツマイモをそれぞれの皿に置いた。ざくりとイモをトングで割ると、そこにソニヤが用意しておいたサワークリームをポンと落とす。
「わーい! 美味しそー!! いただきまーす」
マリーはタルト生地の皿に乗ったサツマイモにパクついた。ハフハフと熱気を逃がしながら、必死で食べている。
「さ、小公爵様も食べて食べて! 美味しく食べてりゃ、たいがいのことは上手くいくもんさー」
ソニヤに強引に勧められ、アドリアンも熱いイモをパクリと頬張った。甘いサツマイモとやや酸っぱいサワークリームが口の中で混ざり合い、絶妙に
食べ終わると、ソニヤの言ではないが、アドリアンは自分が何で悩んでいたのかわからなくなった。ただ、ともかくも痴話ゲンカ云々については、きちんと訂正しておく必要がある。
「あのね、マリー。僕とオヅマはそういうのじゃないから。それは絶ッ対に違うから!」
「わかった。じゃあ、もうお兄ちゃんと仲直りしてね」
「…………」
「じゃないと、お兄ちゃんとアドルがいつまでも痴話ケンカしてるって、皆に言う!」
「わかった! 仲直りするよ。すぐにする!」
アドリアンがあわてて了承すると、マリーは無敵の笑顔で手を振り、去って行った。
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